その「普通」が、一番こわい
教室のざわめきは、いつも同じ音色をしているのに、明日香にはどこか遠くの世界のもののように感じられていた。
朝の光が差し込む窓際の席で、明日香は静かに教科書を取り出す。そして、机の左上の角にぴたりと揃えて置く。角と角がきちんと重なるように、ほんの数ミリのズレも許さない。
それが終わって、ようやく息が整う。
「またやってる」
誰かの声が、背後でくすくすと笑った。
明日香は振り向かない。聞こえないふりをするのも、もう慣れていた。けれど、次の瞬間、机の上の教科書が指で押され、わずかにずれる。
心臓が、ひゅっと縮んだ。
「やめて」
小さく言う。けれど、その声は軽く流される。
「なにこれ、儀式?」
「ずれても死なないでしょ」
笑い声が重なる。
明日香は、そっと教科書を元の位置に戻す。何も言い返さない。ただ、指先だけが少し震えていた。
——変わってる。
そう言われることには、もう慣れているはずだった。
けれど、「変わっている」と「傷つかない」は、同じじゃない。
その日の昼休み、珍しく明日香は女子グループの中にいた。
理由ははっきりしない。ただ、「ちょっと来なよ」と呼ばれて、断る理由も見つからなかっただけだ。
教室の隅、窓際に集まった数人の女子たちは、楽しそうに笑っていた。
「ねえ、髪結び合いっこしよ!」
長い髪の子がそう言って、隣の子の髪をくるくるとまとめ始める。
「いいね、それ〜!」
明るい声が弾む。
誰かが、明日香の方を見た。
「明日香もやろうよ」
一瞬、空気が止まった気がした。
明日香は、自分の髪に触れた。肩より少し長い、まっすぐな黒髪。
他人に触られるのが、どうしても苦手だった。理由はうまく言えない。ただ、ぞわりとした不快感が、全身に広がる。
「ごめん、その遊びは参加しない」
なるべく穏やかに言ったつもりだった。
けれど、その場の空気はわずかに変わる。
「えー、なんで?」
「ノリ悪くない?」
「ちょっとくらいいいじゃん」
笑いながら言っているのに、どこか棘がある。
明日香は首を横に振った。
「無理」
その一言が、決定的だった。
それからだった。
「触っちゃダメなんでしょ〜?」
「大事な髪なんだもんねぇ?」
からかうような声が、日に日に増えていく。
机の上の教科書は、相変わらず狙われた。わざと大きくずらされたり、別の机に移されたりすることもあった。
最初は笑って流そうとしていた女子たちも、次第にエスカレートしていく。
廊下ですれ違うと、肩をぶつけられる。
後ろから髪に触れられて、思わず体が跳ねると、それを見てまた笑われる。
「ほら、やっぱ変わってる」
その言葉が、何度も何度も繰り返された。
ある日の放課後。
教室には、まだ数人の生徒が残っていた。
明日香は、意を決して女子グループの前に立った。
胸の奥が、強く脈打っている。
けれど、逃げたくなかった。
「あのさ」
声が、少しだけ震える。
それでも、続けた。
「私たち、合わないと思う」
数人の視線が、一斉にこちらを向く。
「だから、友だちやめよう」
静まり返る教室。
一瞬の沈黙のあと、誰かが笑った。
「は?」
「なにそれ、自分から言う?」
「感じ悪」
言葉が、次々と飛んでくる。
明日香は、もう何も言わなかった。ただ、その場を離れた。
これで終わると思っていた。
少なくとも、関わらなくて済むと。
けれど、それは始まりだった。
次の日から、無視はさらに露骨になった。
いや、それだけではない。
机に落書きが増えた。
教科書が隠された。
筆箱がゴミ箱に捨てられた。
笑い声が、自分に向けられているのがわかる。
「友だちやめよう、だって」
「ウケるんだけど」
逃げ場は、どこにもなかった。
それでも、明日香は毎朝、教科書を机の左上に揃える。
どれだけずらされても、何度でも。
指先で、角を合わせる。
それだけが、自分を保つための、最後の小さなルールだった。
教室のざわめきは、今日も同じ音をしている。
けれど明日香は、その中で、確かにひとりだった




