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第一話「聖女失格の診断書」

私が王宮から追い出された日、空はひどく澄んでいた。


 せめて雨くらい降ってくれれば絵になったのに、と思いながら、エレナ・フィオーレは石畳の上に放り出された自分の荷物を見下ろしていた。

 革のボストンバッグひとつ。聖女として召喚されたときには絹のドレスと銀の髪飾りを与えられたというのに、出ていくときの手荷物がこれだけというのは、なかなかに世知辛い。


「——以上をもって、聖女エレナ・フィオーレの任を解く。王国はその献身に感謝を表するものである」


 背後で、神官長の平坦な声が勅令を読み上げている。感謝、という単語がこれほど空虚に響くことがあるだろうか。


「エレナ」


 名前を呼ばれて振り返ると、王太子アルベルト殿下が柱の陰からこちらを見ていた。金糸のように輝く髪に、ルビーのような深紅の瞳。絵画から抜け出したような美貌は相変わらずだったが、その顔に浮かんでいるのは申し訳なさ——ではなく、気まずさだった。


 申し訳なさと気まずさは似ているようで全く違う。前者は相手のために心を痛める感情で、後者は自分が悪者に見えることを嫌がる感情だ。一年もこの人のそばにいれば、それくらい分かるようになる。


「殿下。わざわざお見送りいただかなくとも」

「いや、その……俺も、こうなるとは思っていなかったんだ」


 嘘だ、と思った。思っていたから、先月のうちにルナに聖女の執務を引き継がせていたのだろう。


「ルナは本当にすごい聖女だよ。この前の儀式でも、大聖堂全体を光で満たして——」

「存じております」


 私もあの場にいた。大聖堂の片隅で、誰の目にも留まらずに。


「ルナの治癒力は俺が今まで見たどんな聖女よりも——」

「殿下」


 遮らなければ、この人はどこまでもルナの話を続けるだろう。悪気がないのは知っている。悪気がないからこそ質が悪いのだということも、この一年で骨身に沁みた。


「私は大丈夫ですので。どうかルナ様を大切になさってください」

「……ああ。エレナも、元気で」


 元気で。


 一年前、異世界から召喚され、言葉も分からない土地で必死に聖女の務めを果たそうとした人間に対する最後の言葉が、「元気で」。


 まあ、そんなものだろう。


 振り返らずに歩き出した。石畳を踏む靴音だけが妙に大きく響いた。王宮の門をくぐり、衛兵たちの視線をすり抜け、城下町の大通りに出る。


 ——さて。


 エレナは足を止めて、大きく息を吐いた。


 行く場所がない。


 召喚された異世界人である自分には、この世界に実家もなければ知人もいない。王宮での一年間、聖女の仕事以外のことをする余裕などなかったから、友人と呼べる相手もいなかった。


 路銀として渡されたのは銀貨十枚。王都の安宿に泊まれば一週間もつかどうか。その先は——


「……考えても仕方ない、か」


 とりあえず歩こう。歩いていれば何か見つかるかもしれない。見つからなくても、立ち止まっているよりはましだ。


 意味もなく元気な足取りを装いながら、エレナは城下町の雑踏に紛れていった。


    ◇


 問題は翌日に起きた。


 王都の外れにある安宿の一室で目を覚ましたエレナは、窓の外から聞こえる怒号に眉をひそめた。


「——寄るな! 呪いが移る!」

「衛兵を呼べ! あの男、呪紋持ちだぞ!」


 呪紋。


 その単語に、エレナの意識が一気に覚醒した。


 窓から通りを見下ろすと、黒いフードを目深にかぶった長身の男が、数人の衛兵に囲まれていた。フードの隙間から覗く首筋に、墨を流したような黒い紋様が脈動しているのが見える。


 呪紋——呪いが肉体に定着し、模様として浮かび上がったもの。この世界では不治の病よりも忌避される烙印だった。


 男が片手を上げた。敵意がないことを示すためだろう。しかしその手の甲にまで黒い紋様が走っているのを見て、衛兵のひとりが槍を構えた。


「近づくな!」


 槍の穂先が男の胸元に突きつけられる。男は抵抗しなかった。フードの奥にある顔は見えないが、その沈黙にはどこか諦めに似た重さがあった。


 宿の窓辺から、エレナはじっとその光景を見つめていた。


 呪紋が、見える。


 正確には——呪紋の「構造」が。


 男の首筋から手の甲にかけて広がる黒い紋様の奥に、エレナの目にはもうひとつの層が映っていた。黒い墨の下に走る、極細の光の線。幾何学的な紋様が何重にも折り重なり、互いに干渉し合いながら、ひとつの巨大な「式」を構成している。


 まるで、数式のようだった。


 あるいは——処方箋のような。


 エレナが「聖女の力が弱い」と判定されたのは、治癒魔法の出力が常人以下だったからだ。ルナが大聖堂を光で満たす力を持つのに対し、エレナの治癒は掠り傷を癒すのがやっとだった。


 だが——その代わりに、エレナには「視える」のだ。


 魔力の流れ、呪いの構造、術式の綻び。目の前にある魔法的事象の「設計図」が、透かし絵のように浮かんで見える。


 この能力に意味があるのかどうか、エレナ自身にも分からなかった。王宮ではこの力を使う機会がなかった。聖女に求められていたのは強大な治癒の光であって、呪いの構造を読み解く分析力ではなかったから。


 だが、今——


 男の呪紋の中に走る光の線を見ていると、エレナの頭の中に、前世で何度も繰り返した思考の回路が蘇る。


 この症状の原因は何か。どの薬が効くのか。副作用は。禁忌は。投与量は。


 前世——日本で薬学部を出て、病院の薬剤部で働いていた頃の記憶。処方箋を読み、患者の状態を分析し、最適な薬を選び出す。あの感覚。


 呪いの構造式を「読む」感覚は、処方箋を読む感覚に、ひどく似ていた。


 ──ああ。


 あの呪紋。首筋から始まって手の甲に至る経路。呪力の流れが左回りに渦を巻いていて、その中心に「核」がある。核から放射状に伸びた八本の線が体の各所に根を張り、宿主の生命力を少しずつ吸い上げている。


 だが八本のうち一本——左肩を通る線だけ、わずかに他と位相がずれている。


 もしあの一本を先に断てば、残りの七本の均衡が崩れる。均衡が崩れた瞬間に核が不安定になり、そこに適切な魔力を流し込めば——


「——解呪できる」


 口に出して、自分で驚いた。


 エレナは窓辺で固まったまま、数秒間、自分が何を言ったのかを反芻した。


 解呪できる。あの呪紋を。


 衛兵たちが槍を構え、街の人々が恐怖に顔を歪めている、あの不治と呼ばれる呪いの紋を。


 バッグを掴んで部屋を飛び出していた。階段を駆け下り、宿の戸を押し開けて通りに出る。


「ちょ——何だ、あんた!」


 衛兵の制止を無視して、エレナは男の前に立った。


 息が切れていた。心臓がうるさかった。冷静に考えれば無謀だと分かっている。呪紋持ちに近づくこと自体が危険とされているし、そもそも自分の能力がこの状況で通用する保証などどこにもない。


 だが——見えてしまったのだ。


 呪いの構造が見え、解法が見え、そしてそれに苦しむ人間が目の前にいる。それで動かない理由を、エレナは持ち合わせていなかった。薬学部を出て薬剤師になった前世の自分も、聖女として召喚されたこの世界の自分も、根っこの部分は同じだ。


 困っている人がいたら、手を差し伸べたくなる。


 ただ、それだけ。


「……誰だ」


 フードの奥から、低い声が落ちてきた。


 感情の薄い声だった。怒りでも恐れでもなく、ただ事実を確認するような声。しかしその声には、不思議な美しさがあった。冬の夜の底を流れる水のような、冷たく澄んだ響き。


 エレナはフードの奥を見上げた。影に隠れた顔の輪郭だけがかろうじて見える。鋭い顎の線と、暗い色の瞳。その瞳の奥に、感情の欠片が揺れていた。


 ——怒りではない。悲しみでもない。


 疲労だ。ひどく長い時間をかけて積もった、深い深い疲労。


「あの、突然すみません」


 エレナは息を整えながら、男を見上げた。


「あなたの呪紋——いえ、呪いの構造が、私には視えています」


 男が微かに身じろぎした。


「構造?」

「はい。首筋の核から八方向に伸びた侵食線、左回りの呪力循環、そして左肩の第三経路の位相のずれ。……合っていますか?」


 沈黙が落ちた。


 衛兵たちが困惑の視線を交わしている。野次馬たちのざわめきも途切れた。男はフードの奥からエレナをじっと見つめていた。


「……なぜ、それを知っている」


 声のトーンが変わっていた。感情のない声に、かすかな震えが混じっている。


「視えるんです、私には。それで——」


 エレナは深呼吸をした。


 自分の能力がまだ一度も実証されていないことは分かっている。失敗するかもしれない。いや、失敗する可能性の方が高い。相手は明らかに高位の呪い。素人同然の自分が手を出していい代物ではないかもしれない。


 だが。


「——あなたの呪いは、私が解きます」


 言い切ってから、少しだけ後悔した。


 もう少し謙虚な言い方があったのではないか。「解けるかもしれません」とか「試してみてもいいですか」とか。よりによってなぜ、一番大きなことを言ってしまったのか。


 男は長い間、何も言わなかった。


 やがて、フードの奥で何かが——ほんの微かに、動いた。


 口元が、わずかに緩んだように見えた。


「……面白いことを言う」

「あ、いえ、その——」

「名を聞いていい?」

「エレナです。エレナ・フィオーレ。元……聖女、です。昨日付で」


 男は今度こそ、はっきりと息を——吐いた。笑ったのかもしれない。


「昨日辞めたばかりの聖女が、今日はもう呪いを解くと言うのか」

「辞めたというか、追い出されたんですけど……」


 弁解じみた言葉を続けようとして、やめた。どう取り繕っても惨めになるだけだ。


 男はゆっくりとフードを下ろした。


 エレナは息を呑んだ。


 黒い紋様が、顔の左半分を覆っていた。額から頬にかけて、墨を流したような呪紋が脈打っている。


 しかしその下にある素顔は——ひどく、整っていた。


 鉄灰色の髪、冬の湖のような藍色の瞳。彫りの深い、どこか貴族的な面差し。年齢は二十代の半ばだろうか。呪紋さえなければ、社交界で何人もの令嬢をため息させていたであろう顔だった。


 呪紋の奥で、藍色の瞳がエレナを映していた。


「セドリック・ヴォルフガング。爵位は——一応、まだ公爵ということになっている」


 公爵。


 エレナは目を瞬いた。自分はとんでもない人物に声をかけてしまったのかもしれない。


「で。元聖女殿」


 セドリックはほんの少しだけ——本当にほんの少しだけ——首を傾けた。


「俺の呪いを解く、と言ったな。それは本気か」

「……本気です。嘘や冗談でこんな恥ずかしいことは言いません」

「だろうな」


 藍色の瞳が、わずかに細められた。


「なら聞くが——解いた後はどうする?」


 どうする、とは。


 エレナが首を傾げると、セドリックは呪紋に覆われた左手を持ち上げて見せた。


「この呪いは百年前からヴォルフガング家に受け継がれている。王国中の術師が解呪を試み、全員が失敗した。教会の最高司祭でさえ匙を投げた代物だ」


 淡々とした声で、事実だけを並べていく。


「もしお前がこれを解いたなら——お前は、この国で最も優秀な解呪師ということになる」

「いえ、そんな大げさな——」

「だから聞いている。解いた後、どうするつもりだ」


 エレナは口を閉じた。


 解いた後。そんなこと、考えてもいなかった。ただ目の前の呪いが「解ける」と直感して、衝動のままに飛び出してきただけだ。


 行く場所がない。帰る場所もない。路銀は銀貨十枚。昨日王宮を追い出されたばかりの自分に、「その後」の計画など——


「……あなたの呪いを解いたら」


 気がつけば口が動いていた。


「もう帰っていいですか?」

「帰る? どこに」

「……それは、これから考えます」


 セドリックは三秒ほど、まばたきもせずにエレナを見つめていた。


 それから——


 低く、掠れた声で笑った。


 ちゃんとした笑い声ではなかった。長い間使っていなかったものを無理やり動かしたような、ぎこちない笑い方だった。それでも確かに、この男は笑ったのだ。


「いいだろう」


 呪紋に覆われた左手が差し出された。


「解いてみろ、元聖女。——話はそれからだ」


 エレナはその手を見つめた。


 黒い紋様が脈動している。近くで見ると、呪いの構造がさらに鮮明に視えた。八本の侵食線、左回りの呪力循環、核の位置。そして左肩の第三経路に走る、わずかな「ずれ」。


 この「ずれ」は——おそらく百年の間に、呪い自身が少しずつ劣化して生じたものだ。人工的な術式は、時間の経過とともに微細なエラーを蓄積する。前世の知識で言えば、長期間服用した薬に対する耐性変化のようなもの。


 百年前の術者が設計した完璧な呪いに、時間がひとつだけ「綻び」を作ってくれていた。


 ——やれる。


 エレナは差し出された手を、両手で握った。


 呪紋が脈動し、冷たい感触が掌を刺す。セドリックの手はひどく冷たかった。体温が呪いに奪われているのだろう。


 目を閉じる。意識を集中する。


 視界の裏に、呪いの設計図が浮かび上がった。



 ——解呪を、始めます。


    ◇


 こうして元聖女エレナ・フィオーレの新しい物語は、王都の片隅で、ひとりの呪われた公爵の手を握るところから始まった。


 それが後に「解呪聖女」と呼ばれる伝説の始まりであることを、この時のエレナはまだ知らない。



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