この夜から
二階奥の部屋の扉を開けた瞬間、俺は酒の臭いで鼻を摘まんだ。
アンジェラは黙って窓を開け、照明の光石にしてある蓋を取り、夜中の室内を照らし出した。
床には大量の書類や書籍が散乱していて空の酒瓶が所狭しと置かれている。
さらに奥のベッドでは、汚れた白衣姿のヘグムマレーが鼾をかいていた。
ローウェルが黙って、ベッドに近づいて無言でヘグムマレーを起こす。
「あ、ああ……どうした?何かあったのかな?」
彼は怪訝そうな表情をした後、ゆっくりと上半身を起こし、まず俺を見た後、長身のアンジェラを見て、一瞬殺気を漲らせ、間に入ったローウェルに首を横に振られて
「……そうか、高位悪魔の接触か、極めて珍しいな。状況から鑑みるにまたナラン君かな?」
ローウェルは頷いて
「アンジェラっていう仮名だ。ミヤの姉らしい」
ヘグムマレーは苦笑しながら
「追ってきたか。それで、何かね?」
アンジェラは窓際に立ち、月明かりを浴びながら
「この街の裏社会との繋がりに、勇敢にもメスを入れたいそうよ」
振り返って俺を見ながらそう言った。ヘグムマレーは軽く噴き出すと
「相変わらずじゃなあ。というより、もう身体は良いのかね?」
俺に心配した顔を向けてくる。
「おかげさまで……元気ですね」
「そうか。それは何よりじゃ」
ヘグムマレーは俯いたまま黙り込んだ。
誰も喋らなくなったので、俺が押し出されるような気持ちで
「あの、リースは……大丈夫なんですか?」
ヘグムマレーは大きく息を吐き、酒瓶を握り、煽ろうとして思い直し、置くと
「ふーっ……良くない。現在、リルガルム地方北にあるクイサロン州東部のリースのために私が作った海辺の療養施設で過ごさせている」
「会えますか?」
ヘグムマレーは苦悩した表情で
「……少し、期間を開けた方が良いと思う。私の推測なんじゃが」
彼はそう言いかけ、アンジェラとミヤを見つめる。
ローウェルが察した顔で
「隠してもすぐに探り当てるだろうな。ヘグムマレーさん、言っちゃっていい」
「まあ、ここまで入り込まれて秘密も何もないか。よかろう、シンプルに問題点だけを話すとな」
「はい」
俺は固唾を飲んで、次の言葉を待った。
「リースは、君と会うたびにマイナススキルの効果が上がっておる。いや、それどころか新たなマイナススキルが追加されておった」
「……」
言葉が出なかった。まさか、リブラーが……。
ヘグムマレーは大きくため息を吐きながら
「なんで、そうなっておるのかは分からない。分からないが、君と離れてから、明らかにリースのマイナススキルによる症状が薄れてきて今は、会話も普通にできるし、周りの人間への被害も軽微じゃ」
アンジェラが両目を輝かせ
「ヘグムマレーさん、時間が惜しいので挨拶と前置きは抜きにするわね?」
ヘグムマレーが怪訝そうにアンジェラを見つめると、彼女は
「ナラン君、君の技能について話したいのだけれど?」
なんと許可を取ってきた。戸惑っていると、アンジェラは爽やかに微笑みながら
「この二人にも話してないのね?でも、私に話せて、彼らに話さないのはおかしいかもしれないわよ」
「た、確かに……」
それでも迷っている俺を、アンジェラは楽し気に眺めると
「妨害は無し。と、じゃあ、リブラーからの許可は出たと思って、私が代わりにナラン君の言葉そのままで話させさせて貰いましょうか」
そう言って、俺が先ほどアンジェラに聞かせたリブラーについての話を完璧にそのまま復唱して、ローウェルとヘグムマレーに聞かせてしまった。
「な、なんということだ。そういうことだったのか……娘はリブラーに選ばれて、武器として……くおおおお……」
話の内容以上に何かを察してしまったらしきヘグムマレーは愕然としながら頭を抱え、ローウェルは窓際で煙草を点けてから吸って吐くと、ダルそうにこちらを見ながら
「早く言えよなー。俺も社長も、多分それに近い寄生物質だと大体の目星はつけてたんだよ。しっかしなぁ……お前もかなり厄介なもんに憑かれたなぁ」
「おっさん、もしかして、そんなに驚いてないのか?」
ローウェルは煙草を長く吸って、窓の外へ煙を深く吐き出すと
「これでも、そこそこ人生経験積んでるんでな。お前みたいのは、見たことあるんだよ」
「そ、そうだったのか……」
ヘグムマレーは俺に近づいてきて、目と目を近づけると
「ああ……確かに、微かに目の色の中にあるわ。そうか、君のリブラーが娘を武器として強化していたんじゃな」
「な、何か、すみません……」
ヘグムマレーは悲し気に首を横に振り
「いいんじゃよ。君には不可抗力じゃろうし、娘も君を愛してしまった。夜な夜な、君のことを思って泣いておる」
「……」
もう言葉が出ない。どうしたらいいのかも分からない。
アンジェラが涼やかな瞳でミヤを見下ろし
「ぜーんぜん理解してないミヤちゃん向けに、賢いお姉さんが説明してあげましょうか?」
「いらないって……姉貴恥ずいから空気読んでよ……」
ミヤが拒否したのを、嬉しそうな顔で見つめたアンジェラは
「要するに、リースさんというヘグムマレーさんの娘さんは、その生来持っていた強烈なマイナススキル群をリブラーに将来の武器として利用されるために静かに育成されていたのね。なので、ナラン君が離れるたびに、マイナススキルの悪い作用が悪化しておかしくなっていったわけなのよ」
「そ、そんなこと、私もすぐに分かってたし……」
ミヤは顔を真っ赤にして俺の背中に隠れる。
「あの、俺、迷惑ですか?どこか人の居ない所にサナーと去りましょうか?」
哀しくなってそう言うと、ローウェルが苦笑しながら
「そんな話してねぇよ。お前が居なかったら、何も起こってなかったんだぞ?俺は毎日楽しくしてくれて、感謝してるよ」
ヘグムマレーも気を取り直した表情になり
「ナラン君、悪いが、君は私の家ともう深く関わりすぎてしまった。しっかり責任を取ってもらわんとな」
俺の両肩を微笑みながら優しくポンポンと叩いてくる。
「二人とも……すいません、ありがとう」
俺は服の袖で溢れ出てきた涙を拭うしかない。
少しすると、アンジェラはパチパチと軽く拍手をしてきて
「世代を超えた素敵な友情ね。さあ、リースさんのことは一旦置いておいて、この街で一番の権力者に、マフィア傘下の違法吸引屋を潰したいと願ってる若者たちの話でもしましょうか」
ヘグムマレーはアンジェラを見上げ
「明日辺り、席を作って、きちんと話をしよう。悪魔の君には分からんかもしれないが、人間の年寄りには休憩が必要じゃ」
アンジェラは頷いて
「リブラーについては、私はヒト、いや、あなたたちの言う悪魔の同輩には黙っておくことにしたけれど?」
ヘグムマレーは苦笑しながら
「中身が重すぎて王家にも言えんわ。娘にはナラン君と再会した時に教えてやりたいがな」
ローウェルは
「まあ、社長とうちの軍司令くらいかな。その二人は長年の戦友で信頼できる」
そう言って、二人とも静かに部屋を出て行った。
俺は何とも言えない気持ちでアンジェラを見上げる。
「……もう大丈夫よ。あの二人は、自分の頭で考えられる個体だわ。原因がはっきりしたのでリースさんについても、何らかの施策を打つでしょうね」
「良かった……」
ミヤが俺の手を引いて
「もういいよ。宿屋に帰ろう」
「あら、ミヤちゃん、大人の話に耐えられない感じ?」
ミヤは本気で嫌そうな顔になり
「姉貴……この夜から、何かを大きく変えようとしてるでしょ?あんたのやり方は、私はよくわかってるから!」
アンジェラは満面の笑みで頷くと
「その通りよ。私はほぼ手を出していないけれど、ここから、この街は急激に変わるはず。それを眺めていたいなーって」
ミヤは憤然とした顔をして俺の手を引いて部屋から出ていく。
アンジェラがその後ろで
「じゃあ、またね」
と言ったのが聞こえた。




