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余命一年半の公爵令嬢は素直になれない

作者: 千秋 颯

 あら? と私は思わず声を漏らしました。

 目覚めたのは広々とした自室の中。

 けれど私の足は床についておらず、ふわふわと浮いております。


 どういう状況なのかと自分に触れたところで、私の体が透けていることに気が付きます。

 腕やお腹から透かして床や家具を見る状況はとても不可解でした。


 はて、何故このような状況になっているのかと私は首を傾げます。

 けれど、記憶を遡ろうとした私の意識を引き戻す声がありました。



「……エミーリア」


 呟かれたのは私の名前です。

 低く落ち着いたその声には聞き覚えがありました。

 そちらを見やれば、紺色の髪の青年が天蓋付きのベッドの傍に膝をついていました。


 長いまつ毛と薄くも整った形の唇。その見目は通りすがった人々の視線を引き寄せてしまいそうな程美しい。

 彼の名はマリウス。

 私の自慢の婚約者でした。


 この部屋にいるのはどうやら私と彼、そして……ベッドに横たわる何者かのみのようです。

 マリウスの美しい金の瞳はベッドに横たわる人物へ向けられています。

 彼は普段思った事を顔に出しません。しかし今は何故か眉間に皺を寄せ、瞳を揺らしているのです。


 そうさせている相手は一体誰なのかと私の好奇心が膨らみます。

 不可解な状態の私の体はどうやら私の望んだ通りに動いてくれるようで、私はベッドに横たわる人物の顔を覗きみるべくマリウスの後ろまで近づきます。


 そして気になるその素顔を拝見しました。

 金色の長い髪を枕の上で散らす少女。

 本人の気の強さを表すように少し釣り上がった目尻は瞼が閉じられていてもわかります。

 生気を感じない青白い肌の女。彼女の姿を見た瞬間、私は突然思い出しました。


 ――自分はもう死んでしまったのだと。


 呼吸すら忘れて眠る少女の正体は私自身だったのです。



***



 私の家は貴族でも最も高い地位を誇る公爵家でした。

 剣と魔法という武力が今よりずっと活発に振るわれ、人ならざるものと人が対立した時代。

 私のご先祖様は生物の命を司る特殊な魔法を扱う事ができる、特別な血を引いていたようです。


 死体を操る事や死者の記憶を視る事、そしてより優れた才を持つ者の中には死者の魂を呼び寄せられる者もいた。


 ご先祖様は人ならざるものの脅威を退けた歴史の中で大きく貢献し、多くの歴史書に名を残す事になりました。

 そして名誉と共に今の公爵家に当たる地位を与えられた。


 しかしこの栄光を手にする過程でご先祖様は大きな呪いを受けてしまいました。


 ――この血を引いて生まれる女児は皆、齢十六で心の臓を止めてしまう。


 そして勿論、この家に生まれた私もその呪いの影響受ける側の人間でした。

 両親は私の運命を嘆きながらも、沢山の愛で満たしてくれました。


 さて、両親に愛されすくすくと成長した私には二つの問題がありました。


 一つは短命である事。

 私の血筋については国でも有名な話でした。勿論、私と婚姻を結びたいなどという者は殆ど現れません。

 たまに現れる方々も公爵家の権威に目が眩んだ者や老いるまでに相手を見つけられず焦りを募らせた殿方のみ。


 貴族に生まれた少女の幸せは地位の確立された殿方の家へ嫁ぐ事。

 それがこの世の常識です。

 正直私は諦めていましたが、両親は与えられた時間が少ない私に最大限の幸せを与えてやりたいと考えていました。

 そして私もできる事ならば二人に恩を返し、少しでも肩の荷を下ろしてやりたいと考えていました。


 しかしそんな望みをより困難とする話こそが……第二の問題です。


 実は私の引く血筋は社交界でもあまり好まれておりませんでした。

 生物の生死を司る魔法。

 その文字面を視るだけでもその奇怪さと恐怖を感じるには充分です。


 長い時と共にご先祖様方が扱えた力は廃れ、やがて潰えました。

 しかし、万が一の事(・・・・・)を考えてしまうような無駄な労力を割く……いえ、とても警戒心の強い方が一定数いらっしゃるのです。

 それに加え、高い位についている私を気に入らない方々もいらっしゃいました。


 その結果起きたのは、社交界における私の悪名の拡散です。

 実は私の呪いは少しずつ感染するもので、そばにいる者の命を徐々に削っているだの、人の寿命を奪って生きながらえようとしているだの、裏では魔法の実験として猫を殺しているだの。

 最終的には私が裏で暗躍し、魔法で人を殺しているというところまで発展しました。


 さて。

 かつて同年代の殿方に一人、私に取り入ろうとした方がいらっしゃいました。

 しかし先程申し上げた通り、私に近づく殿方の下心はとてもわかりやすい。それを見通した私は彼からの告白をこっぴどく……いえ、丁重にお断りいたしました。

 国でも指折りの大きなパーティー会場のど真ん中で。


 まあ要するに、噂の拡散の主犯は私に恨みを持つその殿方だったのです。


 彼のお陰で同年代を始めとした男性は特に私を避け始め、結婚なんて夢のまた夢となりました。


 しかし完全に婚姻を諦めていた私のもとに、婚約の申し出があります。

 それが二歳上の辺境伯家のご令息――マリウス様でした。



***



「私へ婚約を申し出たのは公爵家の地位の為ですか」


 十四歳を半分終えた――婚約が成立してから一ヶ月程が経った頃。

 屋外のテラスでティータイムを過ごす私はカップに口をつけながらマリウス様に問います。


「ええ」

「まあ。随分あっさりと肯定されるのですね」

「ある程度想定していたことでしょう。それとも深い愛とでもいう回答をお望みでしたか?」

「いいえ。そんな、十回も煎じた紅茶以上に薄い言葉を吐くような方でしたら初めから頷いてはおりませんわ」

「……貴女は時々、妙な喩え方をしますね。それも、皮肉の強い」

「そちらだって、遠慮のない言葉が節々で窺えますわ」


 マリウス様はいつだって涼しい顔をしています。

 彼が今何を考えているのか、私にはよくわかりません。

 けれど彼の下手に機嫌を取ろうとしない態度も、私を恐れた様子もなく同じ空間に居続けるところも私はそれなりに気に入っておりました。


「貴女こそ、何故俺の申し出を受けてくださったのです」

「それこそ、ある程度想定されているのでは?」


 マリウス様の問いに私は小さな笑いで返す。


 貴族間の婚約に愛などというものが付いてまわる事の方が珍しい。

 それは理解していましたから、元々、地位や権威目的で私を求める方全員を突っぱねるつもりはありませんでした。

 ただマリウス様にお会いするまでがあまりに浅はかで下賤な方が多かっただけで。


 しかし正直、マリウス様のような方と結ばれるとは夢にも思っていませんでした。

 私は自身の余生を穏やかに過ごさせてくれる相手であれば誰でもよかったのです。

 そこにあるのが悪意や害意、私の意志を押さえつけるような高圧さでさえなければ、無関心でさえよかった。


 マリウス様のお人柄はよく噂で耳にしていました。

 仏頂面を特技とする彼は一見すれば堅物で近付き難い印象を受けますが、その実、様々な場面で気を利かせる事のできる方です。

 困っている方がいれば相手が気を遣わないよう事前に手を差し出す事が出来る方。

 そして彼自身は剣術に秀でており、大きな大会で何度もその名を残している方です。


 学園での成績も優秀。まさに文武両道。優良物件。

 加えて女性であれば見過ごせない美貌の持ち主。

 敢えて欠点を挙げるとすればご先祖様やご両親の領土経営の失敗によって傾いている辺境伯家の地位くらいです。


 確固たる地位を持った余裕ある家のご令嬢からは引くて数多。

 そんな彼からの婚約の申し出を、私が受けない訳がないのです。


 自覚はお有りなのでしょうが、私の言葉に堂々と頷きを返す事は憚られるようで、マリウス様は何も言わずにお茶に口をつけました。


「マリウス様」

「はい」

「私の家の事はご存知ですね」

「呪いの事でしたら。婚約の際にもご両親やエミーリア様が丁寧に説明してくださったではありませんか」


 私は首を縦に振り、肯定します。

 説明するまでもない程に有名な話ではありましたが、彼は顔合わせの際に聞かされた私たちの話を真剣に聞いてくださいました。

 どこまでも誠実なお方だと思います。


「ご存知の通り、私にはあまり時間が残されておりません。ですから、大切な事は先にお話ししておいた方が良いかと思いまして」

「大切な事?」

「はい」


 マリウス様はスコーンを口に運びながらも私へ視線を向けます。

 続きを促されていると判断し、私はいつも貼り付けている微笑みを顔に貼り付けながら口を開きます。


「夜伽のお話です」


 直後、大きく咽せる気配がありました。

 常に凛とした佇まいで、動揺など見せようもないようなお方が顔を伏せながら何度も咳き込んでいます。


 わかりやすく動揺するマリウス様のお姿は私にとって想定外であり、同時にとても愉快で……いいえ、愛らしいと思いました。


 ……愛らしいと思ったのは本当です。

 仏頂面の下に隠れた素顔に私が興味を持ったのは、この日からでした。




 辺境伯邸にお邪魔した私は木陰に腰を下ろしたまま、庭の真ん中へ視線を送ります。

 そこでは剣を振るうお二人の殿方がいらっしゃいました。


 お一人は辺境伯邸を守る騎士の中でも優秀な方。もうお一人はマリウスです。

 素人目に見てもマリウス様の無駄のない洗練された動きや太刀筋がわかりました。

 その道を極めた技術というものは芸術に匹敵する美しさを持っているのだと、この時私は初めて知りました。


 マリウスは相手の剣を弾き飛ばし、その首筋に剣先を向けます。

 試合終了の合図と共に周囲の観客――基、他の騎士の方々が歓声と拍手を送る。

 私も静かに拍手を送りました。


 騎士の方々からも人気らしいマリウスは彼らに囲まれて次々と称賛を受けますが、ふと私のいる方へ視線を向けるとすぐに彼らに断りを入れ、こちらへ歩み寄ります。


「エミーリア」


 暫く続いた堅苦しい口調は互いに相談した上で取っ払うことにしました。

 爵位が下であるマリウスは暫くぎこちない話し方でしたが、完璧という印象がある彼が何かに苦労している姿は少し面白いと感じてしまいました。


「別にお話ししていてもよかったのよ」

「君を放っておく訳にはいかない」


 マリウスの剣を見たいと望んだのは私自身でした。

 余命僅かである私を気遣い、自分にできる事があればいくらでも話して欲しいと頼まれたので、お願いの一つとして提示したのです。


「こんな事でいいのか」

「こんな事なんて。見惚れるほど美しかったわ」

「……君はいつだって大袈裟に物を言う」

「恥ずかしがっている貴方が面白くて」

「揶揄うのも程々にしてくれ」


 マリウスの考えている事は顔にはあまり出ません。しかしその声色や言葉尻は存外わかりやすいものであるという事に最近――十五の歳が近づいてから気付きました。


「それよりも。婚約からそろそろ半年が経つけれど……どうかしら、私の事は知れた?」


 ――そういった話は互いの事をもう少し知ってからの方がよろしいかと。


 夜伽の話を出した時、首を振ったマリウスはそう言いました。

 そして代わりに出された提案が互いのやりたい事を叶えていく事だったのです。


 歳を考えれば確かに早いとはいえ余命を考えるならば子を産む時期も早い方がいい。

 そう思っての進言を突き返された時、子が成せなかった時に困るのはマリウスの家であるにもかかわらず随分初心で呑気なものだと思ったものです。


 ……しかし今ならばわかります。

 彼が気に掛けていたのは気まずさや体裁でも、世間の常識でもなく――余命僅かの私の心だったのです。


 残り少ない余命を他人の都合で搾取される少女。

 会って間もない男に組み敷かれたという恐怖が新しい記憶に刻まれたまま最期を迎える。そんな私の未来を彼は避けたがっていました。


 しかしそんな不安もここまで来れば殆ど消えているでしょう。

 そう思い、私は半年ぶりに彼の意志を確認しました。


 これ以上先延ばしにすれば子を成す事は出来ません。

 彼に用意されている問いの答えは実質一択。


 ――その筈でした。


「エミーリア」

「何かしら」

「この次にやりたい事はある?」


 問いに答えるでもなく、飛躍して投げ返された新たな問い。

 それに驚き、初めは話を聞いていたのかと更に問い返そうとも考えました。

 しかし彼の面持ちが真剣でしたので、私は日頃品行方正な彼を見習い、誠意で返してあげようと思い直しました。


「そうね……。芝生の上でお昼寝がしたいわ」

「昼寝?」

「ええ。暖かい日に。貴方が傍で好きな本を読み聞かせてくれれば尚いいわね」

「……やっぱりな」

「え?」

「君はいつだってあまりに簡単で些細な願いしか言わない」


 マリウスが眉を下げて苦笑する。

 珍しい、『呆れた』という顔でした。


「君の事なんてまだ全く理解できないな」




 それからも私はマリウスに願いを聞かれる度、穏やかな日常を望みました。

 共に食事を摂ったり、彼の声を聞いて昼寝をしてみたり、互いに気に入っている本を交換して感想を共有したり。


 一方のマリウスはあまり自分の願いを口にしませんでしたが、時折彼が述べるものは互いの家で完結する私の望みとは真逆の、家の外でしかできないようなものばかりでした。


 外で買い物をしたり、レストランで食事を摂ったり。

 普段街に出てもいかないような場所へ行ったりもしました。

 わざと市民に扮してVIPルームではない部屋で買い物をしたり、人混みに揉まれながら移動したり。

 逸れるからと何度か手を差し出してくれたこともありました。

 剣を握る手は大きくてゴツゴツとしていて、力強さを感じさせます。そこから伝わる彼の熱は正直……悪いものではありませんでした。




「旅行をしないか」


 ある日の夕刻。マリウスの家から帰宅する前に二人でチェスを打っていました。

 するとふと彼が話を切り出します。


「次のやりたい事?」

「ああ」

「……日を跨ぐのかしら」

「そうだな。数日貰えれば嬉しい」

「それは構わないけれど。貴方……」


 盤面の勝敗はもう決まっていました。

 しかし悪足掻きをするマリウスへ攻撃の手を緩めず、最後の一手を打とうとした私の手は止まります。

 そうして会話の方に意識が傾いたものの、投げたい問いをなんと切り出すか迷ってしまいました。


 しかしそれを悟ったようにマリウスが口を挟みます。


「まだ婚約者だからな。夜伽はしない。ただいつもより長く同じ時間を過ごしてみたいだけだ」

「は?」


 思わず品のない声を出してしまいました。


「そんなもの、後からいくらでも辻褄合わせはできるでしょう。そもそもそんな事を気にしているのなら今すぐ籍を入れてしまいましょう」


 両家とも、互いの事情をよく知っています。

 だからこそ強引に婚姻を結ぶ事を提案しようとも批判するような事はないし、何より私達よりも私達の両親の方がその選択を望んでいる筈なのです。


「今はまだ必要ない」

「……まだ、って。そんな事言っている間に」

「なら、エミーリアはどうなんだ」

「ど、う……?」

「君がどうしてもと望むなら、勿論考える」

「…………何を言っているの? これは私が望む望まないの話以前の、貴方にとって大切な事でしょう」

「……その返答が答えだろう」


 彼が言うようにどうしてもなんて気持ち、私が抱いているわけがありません。

 たかだか一年未満の付き合い。

 彼を好意的に思っている事実はありますが、その大きさは友人や親戚に向けるものと大差はありません。

 ……この時咄嗟に頷けなかった私がいけなかったのでしょう。


 彼は自身の選択に納得したように頷くと席を立ちます。


「そろそろ出ないといけない時間だ。送ろう」


 扉を開いて退室を促すマリウスはこれ以上同じ会話を続ける気がないようでした。

 私はゲームの終わりを告げられないままにされた盤面を尻目にその場をあとにしました。




 私達はマリウスの領地にある山の別荘で数日を過ごす事になりました。

 一日目は別荘の側にある大きな湖を一周し、夜に木々の隙間から星空を見上げながら他愛もない話をしました。


 その後同じ部屋で、しかし別々に用意されたベッドで眠りにつきました。


 旅行自体は、彼と過ごす時間は楽しいものでした。

 しかし彼の考えは読む事ができず、私はぐるぐると考え込むうちに寝付く事ができなくなりました。


「……マリウス」

「何だ」


 まだ起きているのかと確かめるように声を掛ければすぐに聞き慣れた声が返ってきます。

 しかし声を掛けたものの、考えが纏まっていない中では彼に何と話しを切り出せばいいのかもわかりません。


 そもそも私は何故彼に声を掛けたのか。何を聞きたいと思って口を開いたのか。

 それすら言語化し切れていませんでした。


「……何でもないわ」

「そうか」


 それ以上、私達は会話をせず。

 私はその後も暫く考え込んでいたはずだったのですが、いつの間にか意識を手放していたようで、気が付けば朝になっていました。




 二日目は山の中を軽く探検しようという話になりました。

 探検とは言ってもマリウスは地形を把握しているので、殆ど案内に近いものです。

 私が進む道を適当に決め、その方角に近い範囲で何か面白いものがあれば彼が導いてくれます。


 転ばないようにという彼の計らいで、手を繋いで先を進みました。


 そして何度目かの移動で辿り着いたのは小さな花畑でした。

 色とりどりの花が所狭しと咲いた花畑。

 規模は小さくとも、辺り一面緑の山の中では一層華やかに思えます。


「……綺麗」

「エミーリア」


 私はマリウスに導かれ、花畑の真ん中へ進みます。

 二人で慎重に腰を下ろし、そのあとはポツポツと話をしたりうたた寝をしたりする。

 そして短いお昼寝から目覚めると、私の傍では未だ目覚めていないマリウスが健やかな寝息を立てていました。


「まるで子供ね」


 熟睡して寝顔を晒す彼が愛しくて、私はその頬を優しく突く。

 それでも目を覚まさない彼の寝顔を暫く眺めた私は視界の端で揺れる花々の存在を思い出し、一つ小さな企てを思い付きます。


 できるだけ茎の長い花を摘み、丁寧に編み込む。

 本で見た事があるとはいえ、こんな事をするのは初めてで、出来上がったものは想像の五倍は歪な形をしていました。

 マリウスは空気を読んだように、それが出来上がった瞬間に目を覚まします。


「……何をしているんだ」

「マリウス」


 体を起こしても尚ぼんやりとしているマリウスの頭に私は出来上がったそれを乗せます。

 本来ならば妻やお姫様の象徴であるそれを花で模したものはしかし、顔の整った彼に存外似合ってしまいました。


「……は?」

「っ、ふ、く……っ、ふふふっ。可愛いわよ、マリウス」

「可愛いって……君まさか」


 驚いて頭に手を伸ばすマリウス。

 その指が花冠に触れたその時でした。

 作りが甘かったのでしょう。

 辛うじて輪を作っていたそれは突如分離して、彼の頭の上からハラハラと散っていきました。


「あ?」

「あ」


 どちらもが黙ってしまう、絶妙な空気で満たされます。

 それに気まずさを覚えたのでしょう。

 マリウスは散った花を見ながら首を横に振った。


「そんなに力入れてない」

「ん……っ、あははっ!」


 こんな事で責められるとでも思ったのだろうか。

 そう思えば、大きな体の彼が急に子供のように見えてきてしまって、私は滅多に出さないような大きな声で笑ってしまう。


「わかってるわよ、マリウス」


 笑われている理由が分からずともいい気はしないものなのでしょう。

 彼は私から目を逸らすと口を閉ざしてしまいました。


 そうして無言で散った花を抓み、指で弄んでいた彼はふと私の左手を取ります。


「エミーリア」

「何?」


 そっと、私の薬指に何かが差し込まれる。

 それは花の茎を小さな輪っか状にした指輪でした。


「……求婚?」

「もっと可愛い反応をしてくれてもいいんだが」

「照れている私をご所望だったのなら、お生憎様だわ」


 不服そうなマリウスを私は鼻で笑いながら、別の花を取って同じように指輪を作ります。

 そして彼がしてくれてように、彼の左手の薬指にその世界一安上がりな指輪を通しました。


「…………なんだか、子供みたいね」

「君はまだ子供だろ」

「来年には成人だから、子供と言い切るのは難しいかもしれないわ」

「そもそも貴族の子供はこんな事しない」

「……そうね。ふふ」


 私は自分の指につけられた指輪を日の光に翳して見つめる。


「……これ以上に金銭的価値がない指輪ってあるのかしら」

「ロマンス小説も嗜む少女とは到底思えない物言いだな」

「嫌味じゃないのよ。再認識しただけ」

「再認識?」

「お金が全てではないという事を」


 どこでも拵えられそうな指輪なのに、何故か少し外し難くなっている自分が少し意外でした。

 でもそんな自分も悪くないと思えたのです。

 私の言葉の真意にはきっとマリウスも気付いていたのでしょう。


 彼は珍しく口角を少し持ち上げていました。


「今度は本物を渡させて欲しい」

「やっぱり求婚じゃない」

「その時はもっときちんと伝える」

「そう? まあ私はどちらでも構わないけれど」

「……エミーリア」


 心なしか悲しそうな声が聞こえてきます。

 私がマリウスの告白に一切興味を抱いていないとでも思ったのでしょう。

 私は少し浮かれていたので……いえ、このままでは流石に可哀想ですから、少し口添えしてあげる事にしました。


「私にとってはこれだって本物に変わりないもの」

「……そうか」


 私は今自分の薬指に収まっている指輪を指でなでました。

 その時、金色の瞳が大きく揺れたのを私は見過ごしませんでした。

 そして……マリウスの気持ちに気付くことができたのです。


 彼の気持ちに確信を持ったのと同時に、私の中に一つの意志が芽生えます。

 靄掛かっていたかのような思考も晴れて、すごくすっきりとした心地がしました。


「……マリウス」

「何だ」

「何度も口煩くしてごめんなさい。……これで最後にするわ」


 何となく、マリウスの返答には察しがついています。

 しかしこれは二人の事だから、きちんと言葉にして話し合う必要がある。私も、マリウスも、自己完結で終わらせるべきではありませんでした。


「子供は望まない。……それが貴方の選択でいいのね?」

「今作る必要はないと思っている」

「そう」


 思わず漏れた溜息は呆れから来るものか安堵から来るものか、よくわかりませんでした。

 兎にも角にも私の知りたい事は知れました。

 あとは……彼が知りたい事を私が伝えるだけ。


「私、貴方が望むなら拒むつもりはないし……嫌悪は抱かないと確信を持てるのよ。でもね」


 また溜息が漏れてしまう。今度は呆れと羞恥から来るものだとはっきりわかりました。


「事を急くように……何かの義務に駆られて貴方と夜を共にするのは……少し面白くないわ」

「……エミーリア」


 私の名前を呼ぶ声がとても優しくて心地いい。

 けれど同時に私を労るような、切なそうな色が声に混じっていて、私は安心させるように彼の方に自分の頭を預けました。


「どうせなら、もっと早く婚約を申し出て欲しかったわ」

「……多少時期が早くて、思いが通じ合う時期が早まっていたとしても、俺はきっと変わらなかっただろう」


 マリウスが私の頭を優しく撫でる。

 少し驚きました。

 そんな事をしてくれたのは初めてだったので。


「子を成すには時間も負担も大きく掛かる。君の残された時間の何割もが君自身の望まない苦痛によって削られるのなら……我が子と添い遂げられない苦しみを覚えるくらいなら、必要ない」


 大きな腕が私の体を包み込む。

 とても温かくて落ち着くけれど、同時に鼓動がいつもより早くて煩いと感じました。


「自分の体裁や、家の立場よりも……俺は自由な君を見ていたい。君の過ごす時間全てが幸福であって欲しい」

「…………あとで後悔しても責任は取らないわ」

「生憎だが、する可能性なんて微塵もない」


 はっきりと言い切る彼の声を聞いて私は負けを悟りました。

 義務感から始めた話はいつの間にか無意識的に彼の幸福を願う為の話とすり替わっていた。

 彼が紡ぐ私への想いや気遣いの一つ一つが嬉しい。触れている温もりが愛おしい。

 どれだけ上手く取り繕ってもプロポーズを受けた時の鼓動は跳ね上がっていたし、気を抜けば涙が溢れそうな程嬉しかった。


 どれだけ口先で強がろうと、彼に掛けられる言葉はどれもとても嬉しくて、彼と過ごす時間はどれだけ他愛のないものであっても楽しく、心地よかった。


 私は彼の望みを叶えてあげたい。

 私の為に義務を捨てる事が彼の望みならそれを叶えたい。


 そして私自身の願いも叶えたい。

 時間の許す限り彼の傍にいたい。何にも囚われず、ただただ穏やかで、幸福な時間を彼と過ごしたい。


「仕方ないわね」


 嘘を一つ吐けば彼の選択を曲げる事だってできたと思います。

 けれど、私は折れてあげる事にしました。




 私達は両家が設けた義務を放棄しました。

 そして私は、捨てた目的に変わるものを手に入れます。

 これは義務ではない。

 残された一年という時間で私がどう生きるか。どうしたいのか。

 私の為に費やす時間であり、果たすべき目的でした。




 旅行から帰ってすぐに私の誕生日がありました。

 おめでとうという家族の瞳が潤んでいて、憐れまれているのだとすぐにわかりました。

 でも私自身はとても幸福でした。


 愛する人から祝いの言葉とプレゼントをもらったのです。

 ただ、それだけの事で有頂天になってしまうのですから、恋とは恐ろしい麻薬だと、その晩一人になった時についついぼやいてしまいました。


 それからの一年の殆どを私はマリウスと過ごします。

 何度か互いの家に泊まる事もありました。


 そして機会を窺い、両家には努力はしたが子宝には恵まれなかったという報告をしました。

 この時漂っていた空気は押し潰されそうなほど重かったものでした。二度と味わいたくはありません。


 しかし子が成せない事が確定した以上、私達が結婚するメリットは双方にありません。

 私は子を持つという家族の幸せを得られませんし、マリウスは跡継ぎを得る事もできない上、私が亡くなれば既婚歴を持つ男となります。

 いくら優秀な殿方でも一度別の女性に手を付けたとなればそれだけで彼に婚約を申し出る相手は以前に比べて大きく減る事でしょう。

 マリウスの家にとって利になるような家がその中でどれだけ残るのかはわかりませんが、危ない橋である事に変わりはないのです。


 故に両家は婚約解消を申し出ても頷いてくれそうな程結婚には後ろ向きになっていました。

 斯くいう私も、結婚は望みませんでした。

 例え法的な拘束力がなくとも共にいられればよかったですし、私が去った後の世界で私がマリウスの足を引っ張る事だけはしたくありませんでした。


 マリウスは最初、そんな私達の意見に反発しました。

 しかしこれが私の心からの望みだと知ると最後には頷いてくれました。


 残りの一年。

 私達はたまにお出かけをしながら、殆どの時間を二人の家のどちらかで過ごしました。


 マリウスは嫡男として家の仕事をしなければならない日もありましたが、それでもできるだけ私の傍にいる為の時間を作ってくれました。

 私もまた、目的を果たす為に時間を必要とし、彼の誘いを断る事もたまにありました。


 けどどんな日でも毎日顔を合わせていたし、互いの時間の許す限り生活を共にする日々や、それが与えてくれる幸福は死への恐怖や不安、悲しみを和らげてくれました。


 そして、私の十六歳の誕生日が訪れます。

 この日は家族がパーティーを開いてくれました。

 早い時間に始まり、夕方には終わるスケジュールのパーティー。


 そこで私はこの一年で用意した全てをぶちまけてやると決めていました。


 マリウスのエスコートでダンスホールへ。

 パーティー開催の挨拶を述べ、大きな拍手に包まれる中で私は丁寧にお辞儀をしました。


 その後挨拶に訪れる皆様と談笑をします。

 しかしその時、私を貶める声が聞こえました。


 私を囲む人々の後方で噂話に興じるふりをする殿方。

 声は大きく、視線はチラチラと私へ向けられている。

 明らかな挑発でした。


「失礼……」

「マリウス」


 隣に立つマリウスが珍しく顔色を変えます。

 私の為に怒りを見せた彼は相手を嗜めようと一歩前へ出る。

 しかし私はそれを止めました。


「っ、エミーリア」

「何故彼らが招待されたと思っているの?」


 何故止めるのかと訴える瞳を見据え、私は小声でマリウスに話す。


「……何を考えている?」

「私の最期に相応しいイベントよ」


 私は口元で人差し指を立てる。

 そしてマリウスから離れるとビールを鳴らしながら件の殿方へと近づきました。


「本日はご招待に応じてくださり、ありがとうございます」

「ハッ、こちらこそ。公爵家のご令嬢は今日ご自身に起こる事がわからないほど、パーティーを楽しんでいらっしゃるようで。何よりです」

「ええ。皆様のおかげで。ところで……社交界で我が家の、まあ、主に私の根も葉もない噂が流れている事はご存知でしょうか?」


 笑顔を貼り付けて適当に聞き流します。

 その上で、本題を切り出す。


「噂ですかぁ? さぁ? 何のことやら」

「あら、お心当たりがおありではない? ……では、サプライズも兼ねて、プレゼントをお贈りさせていただきますわ」


 私が文句を言いにきたとでも思ったのでしょう。

 へらへらの歪な笑みを吊り下げていた彼らの返答も勿論想定内でした。


 私はパチンと指を鳴らします。

 それを合図に駆け寄る影が一つ。

 私の使用人です。

 彼はバッグを私に渡すと颯爽に去って行きました。


「こちらですわ」


 私は相当な重量のバッグを殿方へ差し出します。

 流石に警戒しているのでしょう。恐る恐る彼が触れたのを確認してから私はバッグを目の前でひっくり返しました。


「っな……! なんだ、これは!?」


 バッグから溢れ出すのは何百枚という紙。

 所狭しと文字を連ねたそれに殿方は驚きを隠せないご様子。


 この様子ではご自分で全て読む余裕もないでしょうから、一部抜粋して読み上げて差し上げる事にいたしました。


「私に泥を塗るという事は公爵家に泥を塗る事と同義。国の為に尽くした栄誉あるご先祖様を貶す事はこの国が掴んだ歴史的快挙を否定する事と同義ですわ。……ですから噂の内容から出どころ、経路、拡散した方々の動向……全て調べ上げさせていただきました」


 声高らかに私は言って見せます。

 私の声によってダンスボールは静まり返りますが、これはむしろ好都合です。

 私は散らばった紙を何枚か拾い上げると、大きな声で、そして早口に捲し立てます。


 日頃の出さない声量に……というよりも、調べ上げられた自分達の罪に殿方は声も出ないご様子です。


「や、やめろ……っ! 嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ! そんなの、嘘に決まってるだろぉ!!」


 この紙束を作るにあたって証人だって掴んでいます。必要とあらば、事実を洗いざらい吐いてくれるでしょう。

 完璧な証拠。

 彼らは言い逃れする事ができない。


 彼らは所詮、公爵家より位の低い貴族です。

 こんな事をすれば家の面子はボロボロですし、侮辱罪などの罪くらいはお国も付けてくださるのではないでしょうか。


 ……まあ、その頃私はこの世にはいないでしょうが。


 拾い上げた紙を読み上げる最中、突然胸が鋭い痛みを訴えます。

 しかしここで弱みを見せるわけにはいきません。

 彼らの前では最後まで気高くありたいという、私の意地がありました。


「それと我が家の名誉のため改めて周知していただきたい事が一つ。


 紙の中には彼らの罪について意外に記されたものも紛れています。

 これは私達に流れる血が決して他者に影響を与えないという証明。


 私は優秀な魔法学の研究者を買収した上で私の体について徹底的に調べていただいていました。

 私も、私の家族も、ご先祖様も……そして私に関わった人達も。

 誰も他者を害する力など持っていない、ただの人である事を理論的に、事実に基づいて説明された文書。


 私は気が済むまで紙に記された文字を読み上げた後、それを投げ捨てます。


「用件は以上ですわ。どうぞ、ご自由にお持ち帰りくださって? まあ……今更どうしようもないとは思いますが」


 私はとびっきりの笑顔を貼り付け、必死に紙をかき集める殿方を見下ろします。

 惨めな彼らの姿を目に焼き付けてから彼らに背を向けます。


「どうぞ、余生を楽しんで?」


 この頃には息が乱れ始めていて強がる事も限外でした。


「皆様、お騒がせして申し訳ありません。どうぞこの後もごゆっくりお楽しみください」


 私は深々とお辞儀をし、足早に会場をあとにしました。


 案内を買って出た使用人達を断り、一人で廊下を歩きます。

 せめて自室に辿り着くまではと思っていたのですが、こんな日に限ってヒールに重心を持っていかれてしまい、体制を崩します。


 しかし私が床にぶつかる事はありませんでした。


「エミーリア……!」

「ふ、ふふ……少し、無茶をしたかもしれないわ……」


 どうやら私を追ってきていたらしいマリウスが私の腕を掴んでくれました。

 私の顔色に気付いたのだと思います。

 あっという間に彼に横抱きにされ、私は自分の部屋まで連れていかれました。


 マリウスは私をベッドの上に寝かせます。

 額に浮かぶ冷や汗を拭ってくれる彼の顔は酷く曇っていました。


「……君がコソコソ動いていたのは、あれの為だったのか」

「まるで私が隠れて悪い事をしたみたいな言い方ね」

「あんまり褒められた事ではないだろう。……だが、君が何故あんな事をしたのかを考えれば……責めることは、できないな」

「……何の事か、わからないわね」


 胸の痛みに耐えながらしらばっくれても、マリウスの顔は晴れません。

 彼は喜ばないとわかっていました。それでも彼の悲しげな顔を実際に見てしまえば後ろめたさが生まれます。


「俺に汚名を着せない為なんだろ」


 マリウスと知り合ってから一年と半年が経った。

 今の彼は私という人間をとても理解しています。

 要するに、図星だったのです。


 私と長く共に過ごした彼が私絡みの余計な嫌がらせを受けるのも、私の呪いが感染するなどという根も葉もない噂のせいで社交界から弾き出される事も許せなかった。


 この日の為に費やした時間すら自分の為に使って欲しかったと、きっとマリウスは思っている事でしょう。

 けれどこれは決してマリウスの為ではありません。私は確かに私の為に今日という日を用意したのです。


 彼が私の一生が幸せで満たされる事を望んだように、私もまた、彼に残されている長い余生が沢山の幸福で満たされている事を望んでいるのです。


 そしてそれすら……マリウスは汲んでくれている。

 だから彼は私を責めたりしない。


「……マリウス」

「何だ」


 滲む視界の先で美しい瞳を見つける。

 手を伸ばせば、優しく包み込んでくれる感触がありました。

 その手の大きさと温もりを感じるだけで愛しさのあまりに目頭が熱くなってしまう。


 こんな恋をするつもりはありませんでした。

 私も……恐らく彼も。

 けれど、そんなイレギュラーが私の一生を幸せで塗り潰してくれた。


「…………触れていてね」

「……離さない」


 冗談の一つでも言って空気を和ませようとも思ったのですが、この頃にはもう今触れているこの人を愛しているという気持ちだけが膨らんでしまって、余計な事を口走りそうで何も言えませんでした。


 ありがとうや愛してるの一つでも言えばよかったのですが。

 息を引き取る直前に何かを言った気はするのですが、この類ではなかったような気がします。


 ……ああ、そうでした。


「ダンス、踊りたかったな」


 あ、そういえば。と、死の間際になって不意に。

 今日はダンスパーティーだったのに、マリウスと一曲だって踊れていなかった事を思い出したのです。


 最後の最後で心残りを吐き捨てて逝くというのは、何というか……あまりにマリウスが可哀想だとは思います。

 まあマリウスがダンスを踊る姿なんて映えないわけがない訳ですから。

 一緒に踊らずともその姿を目に焼き付けておけばよかったな、と……


 ……後悔というものは尽きないものなのでしょうね。



***



 私が不可解な状態(恐らく幽霊)になって目覚めたのはどうやら家族も集まって死を悲しんだあとだったようです。

 家族は死んだ私の傍に付き添うマリウスの姿を見て漸く、彼が私を心から愛してくれていた事に気付いたようでした。


 側から見れば何を考えているか分かりにくい仏頂面ですから、それも仕方のない事だとは思います。

 葬儀の手配などもあって私から離れなければならなくなった際、気を利かせ二人きりにしてくれたようであった。


「相変わらず難しい顔つきね。涙の一つくらい流してくれてもいいのよ?」


 私はマリウスの顔を覗き込みながら溜息をついてみせます。

 勿論、反応はありません。


「でも、すごく悲しんでくれている事はわかるわ」


 他の方から見れば大差ないような表情も、私が見れば大きな変化として感じられます。

 だから彼が苦しんでいる事も……それだけ私を愛してくれていた事もわかります。


「マリウス」


 私は両腕を広げてマリウスへ近づきます。

 しかし私の腕は彼の体を捉える事ができず、通り抜けてしまいました。


「やっぱり無理なのね」


 私には彼の行先を見守る事しかできない。

 言いそびれた言葉を伝える事もできない。


「……愛してるわ、マリウス。愛してる。……愛してくれて、ありがとう」


 届かない言葉を私は小さく繰り返しました。



***



 葬儀は滞りなく行われました。

 沢山の人が集まってくれて、沢山の人が見送ってくれました。


 私が眠っている棺が教会の庭に埋められます。

 その間もマリウスは何も言わず、仏頂面を貫いていました。


 葬儀が終わり、マリウスは私の両親と挨拶や感謝などいくつかの会話を交わしてから教会を離れます。

 帰宅した彼は気遣う使用人達の視線に気付いて心配しなくてもいいと声を掛けながら自室へ向かう。


 必要最低限のものだけが置かれた、広々とした部屋。

 廊下を隔てる扉を完全に閉じても彼は暫く扉を背に立ち尽くしていました。


 やがてふらふらと覚束ない足取りで歩き出した彼は机の引き出しを開けます。

 中から取り出されたのは枯れた花――私が彼に渡した指輪でした。


 マリウスはそれを何度も指で撫でる。

 五分は経過したでしょうか。

 指輪を撫でる以外の動きを一切見せなかった彼の頬を一粒の雫が伝いました。


 更に二つ、三つと落ちる雫は数を増やし、やがて堰を切ったように止めどなく流れては床を濡らしていきます。


「エミーリア……」


 酷く掠れた声が震えながら私の名前を呼びます。


「っ、……う、ふ……う゛ぁ、ぁあああ゛あ゛あ゛……っ!!」


 がくりと両膝から崩れ落ちたマリウスへ咄嗟に伸ばした手が空を切る。


「エミィ……う、ぐ……っ、エミ、リ、ア……っ」


 彼は頭を抱えて蹲りました。

 大きく頭を振り乱し、髪を何度も掻き毟って、床を叩き、子供のように泣き叫びながら何度も何度も私の名前を呼ぶのです。


 ――どうしてもっときちんと言葉を尽くさなかったのだろう。


 そんなどうしようもない後悔が、今更になって溢れ出しました。

 彼が感情表現が下手なりに私に愛を伝えてくれていた事は知っていた。

 私も彼を愛していたし、行動で示してきた。


 けれど……私は照れ臭さから直接的な言葉を使わず、皮肉めいた遠回しな言葉選びばかりをしてしまった。


 そのツケが、今になって私に襲いかかって来たのです。


 愛してると、ありがとうと沢山言ってあげればよかった。

 貴方に会えたおかげだと。

 同じだけ幸せになって欲しい。苦しんでほしくない。


「同じだけ、幸せに……?」


 頭を過ぎる自分自身の言葉に私はふと疑問を抱きました。


 本当にそれは本心なのか。


 私は単純な、素直な言葉を用いる事を恐れた。

 遠回しな言葉で本音を包み込んで誤魔化して来た。


 それは本当に羞恥という感情を避ける為だけに取った手段だったのか。


 やりたい事を挙げる時、人並みの日常を望んだ。

 自分の手に届く範囲の事しか望まなかった。

 本当に、それ以上に望む事はなかったか。


「――違う」


 目の前で泣き続けるマリウスを見て。

 彼と過ごした幸福な日々を走馬灯のように思い出して。


 私は間違っていたのだと、この時になって漸く気付きました。


 私は確かに幸せでした。

 けれど、この呪いは……こんな形で迎える最期は決して望んだものではありません。


 生きていられるのならば生きていたい。当然のことでした。

 終わりのわからない人生の中で、無限に時があるような錯覚をしながら沢山の新しい経験を積みたい。


 本当はもっとマリウスが好きなお出かけに付き合ったり、遠出だって沢山したかった。

 二人で行ったことのない場所へ行って新鮮な風景を楽しみたかった。

 妻として彼の隣に立って彼の仕事を支えたかったし、家族として過ごす日々だって送りたかった。

 真っ直ぐに愛されるだけでなく、真っ直ぐに愛したかった。


 期待を抱きながらそれが叶わなかった時、まだ生きていたいと思ってしまう――そのとこの傷が深く残る事を恐れていた。

 だから私は自身の気持ちに蓋をし最期を迎える心算ができたふりをしていたのです。


 触りたい。


 触れて、あの小さな背中を優しく包み込んであげたい。

 彼が与えてくれた温もりを目一杯返してあげたい。


 そして今度こそ伝えそびれた言葉を全て伝えて、私の愛を彼に余す事なく与えたい。


 そんな思いが胸の奥底から叫びます。

 強く、強く。

 痛みとなって主張し続けるその感情はやがて、口から飛び出しました。


「まだ、貴方の傍に居続けたい」


 透ける体でマリウスの背を抱きしめるふりをします。

 そして、理不尽な最期を受け入れる事を私はやめました。


 その時です。

 温かな光が私を包んだかと思った次の瞬間。


 ――私の意識は突然訪れた微睡の中に溶けて消えていきました。



***



 ひんやりとした感触と共に私は瞼を持ち上げます。


「……え?」


 真っ暗です。

 目を開けているのに、目を閉じているかのように。

 そして息苦しい。


「い、た……っ」


 何が何だかわからず体を起こそうとした時、首を少し持ち上げた辺りですぐに額がぶつかります。

 とても狭い空間に閉じ込められているのだと気が付きました。


 そして同時に、思考が目まぐるしい速度で働きます。

 意識を失うまでの記憶、そして今の私の状況。


 体がすり抜けない事に気付いた事がきっかけで、まさかと辿り着いた答えは――


「……生きてる」


 胸に手を当てれば、きちんと鼓動が聞こえます。

 しかし私は自身が死した記憶も、その後の夢とは思えないようなマリウスの痛々しい姿も鮮明に覚えています。


 共すれば、現在地は自ずとわかる事でしょう。


 私は目と鼻の先に存在する天井に両手で触れます。

 お忘れかもしれませんがここは剣と魔法の世界。


 例え昔の偉人達に及ぶ才は持たずとも、この世に生まれた者は皆魔法が使えるのです。

 そして私は皆様の中でも特に魔法の才に秀でておりました。


 私は両手の先から暴風を生み出します。

 それは思い鉄の天井と、その上に覆い被さっていた土を全て宙へと押し上げました。


 視界が晴れます。

 途轍もない眩しさに私は暫し目を伏せました。


 そして視界が慣れ始めた頃合いを見計らってから、穴の最上部へ手を伸ばし、地上へと這い上がりました。


「…………え?」


 多量の土と棺の蓋が置かれた穴の傍には墓地の掃除をしていた神官様がいらっしゃいます。

 さながら物語に現れるミイラのような目覚め方を致しました私は、内心で棺の蓋が彼に当たらなかった事に安心しながら微笑みます。


「ごきげんよう、神官様」


 顔を蒼白とさせ、はくはくと口を開閉する彼を置いてけぼりにしながら、私は二点、お伺いをしました。


 一つは本日の日付。

 もう一つは――マリウスの行方です。


 彼の事ですから、毎日私の墓へ訪れていたに違いないと私は確信しておりました。

 ですから、その時にもしかしたら世間話の延長線でその日の予定について触れているかもしれないと踏んだのです。

 そして、私の考えは見事的中しました。




 ダンスパーティーが行われているとある館。

 その高い塀を風を司る魔法で軽々飛び越え、私は建物の中へ潜り込みます。


 勿論誉められた行いではありません。お咎めもあるでしょう。

 しかしマリウスの居場所がわかった瞬間には居ても立っても居られなくなってしまったのです。


「な、おいお前……!」


 今の私は白一色のエンディングドレスを泥で少々汚している上、裸足です。

 とんでもない不審人物極まりないです。


 会場の入口の扉を見張っていた騎士たちはそんな私を見て勿論止めに入ろうとします。

 しかしこんなところで捕まる訳にはいきません。


 私は伸ばされる彼らの腕をすり抜け、扉を開け放ちました。

 大きな音に驚き、入口付近にいた人々が悲鳴を上げます。

 その混乱はやがて会場の奥まで行き渡りました。


 一方の私は唖然とする人々の様子に目も暮れず、マリウスの姿を探します。

 どうせ彼の事です。

 辺境伯家の嫡男としての義務で参加したパーティーでも私の死を引きずり、人目を避けるように壁際にいると踏みました。


 だから彼を探す場所も限られており――お陰で人混みの中でもすぐに見つけられます。

 追ってくる見張りから逃げるように私はパーティー会場の一角へ一直線に走り出しました。


 好都合な事に、人々は迫る私に驚いて次々と傍にそれてくださいました。

 だから、すぐに進路の先に立つ彼の姿がはっきりと見えるようになります。


「マリウス!」


 近づいてくる不審者が私だと気付いたのでしょう。

 金色の瞳を見開き、唖然とする彼へ私は無理矢理飛び付きました。


 しっかりと両腕の中に彼を閉じ込め、彼が一人で泣いている時にしてやりたかったように、何度の背を撫でてあげます。


「エミー、リア……?」

「ええ、そうよ。まさか婚約者の顔を忘れたとは言わないでしょう?」

「………………なぜ」


 私にしか聞こえないような、小さく掠れた声でした。

 震える両手が私の背中へ回されます。

 彼の温もりを感じて溢れそうになる涙を私はなんとか堪えました。


 私が涙を見せれば彼はきっと自分の心の傷を放って私を気遣ってしまうでしょうから。

 泣くのは彼の傷を癒してからにしなくてはと決めていたのです。


「私の血筋を忘れたの? 死の呪いくらい、克服したっておかしくはないでしょう?」


 この時の私はそもそも彼の問いに対する答えを持っておりませんでした。

 私が息を吹き返した理由がこうであればいいという願望。それを私は彼に話します。


「貴方と共に生きたいという願いが、私を生かしたのよ。マリウス」

「…………エミーリア。君は本当に……いつだって俺を驚かせる」

「嫌いじゃないでしょう?」

「嫌いなわけないだろう。きらいな……っ、わけ……」


 抱き締める力が強まる。

 押し殺し切れない嗚咽が私の耳に届いておりました。


「ごめんなさい、マリウス。貴方を一人にして、苦しませてしまったわ」


 子供のように泣きじゃくる彼の頬に優しく触れます。

 綺麗な金色の瞳が私だけを映していました。


「もう二度と離れたりはしないわ。ずっと傍にいると、約束する」


 私はつま先で立ち、彼へ顔を寄せます。

 そして唇を彼の唇に重ねました。


「愛してるわ、マリウス。これからもずっと」




 その後、私達は温かな拍手の中でダンスを一曲、踊る事になりました。

 かたや死装束に裸足、かたや涙に顔を濡らしているという、なんとも異質な姿で。


 やはりユリウスはダンスのリードが上手く、それに乗せられ、体を委ねるというのは悪くない……いいえ、とても素敵なものでした。


 間近にある視線が重なる度、私達は照れ臭さと喜びを噛み締めながらはにかみます。

 新たな幸せの前兆ともいえるこのダンスを踊った時のことを、私は生涯忘れないでしょう。




 勿論、パーティーの主催者には後日謝罪をしました。

 しかし……この騒ぎが後世まで語り継がれるような大事になってしまった事は私とマリウスにとっても想定外の事でありました。



***



「……というのが、この物語の真相よ」


 大きなベッドの上で女性は本を閉じる。

 この国で最も人気で最も多くの人が知るロマンスの物語。


 様々な場所で改変され、何種類もの本が出歩く程の人気を誇る物語について話していた彼女が満足して顔を上げた時。

 その傍では一人の少女がすやすやと寝息を立てていた。


「あら」

「……少し前に寝てしまったよ。この手の話をする時の君は時間を忘れやすい」


 子供を挟んだ先で女性と同じように腰を下ろしていた男性が苦笑している。

 彼は少女の乱れた前髪を整えてあげながら愛おしさから小さく笑いを溢した。


「だってこんな話に削れるような場所なんてないわ」

「この子にはまだ早かったんだろう。……まあ、きっと大丈夫だ」

「ええ」


 大丈夫。

 彼が発したその言葉の指す意味を理解し、女性は深く頷く。


 世間を騒がせた公爵令嬢の蘇生について。

 彼女の血筋について研究を進めていた研究者らは一つの結論を出した。


 魔法というものは想像力や思いによって大きく左右されるもの。

 先祖の血が流れているエミーリアがマリウスの傍に居たいと強く思った事によって、眠っていた力が呼び起こされ、息を吹き返したのではないか。


 それが彼らの出した結論であった。

 消えるはずだった魂が現世で浮遊していた事も、先祖の生死を司る力による影響だろうとの事だった。


(マリウスが私をを強く愛してくれたから、私もまた彼を強く愛せた)


 女性――エミーリアは優しい眼差しを自分へ向ける男性、マリウスへ微笑みを見せる。


「誰かを強く愛する事で、この子もきっと生き延びる事ができる」

「この子が愛を理解する為にも、沢山の愛を与えてあげなければならないな」

「ええ」


 そろそろ寝ようか、とマリウスはランプの火を消す。

 そしてエミーリアへ近づくと彼女をそっと抱き寄せ、顔を寄せる。

 しかし日立にキスを落とそうとした彼の唇をエミーリアは自身の唇で塞いだ。


「……全く、何年経っても君は変わらない」

「でも好きでしょう?」

「好きだよ」

「私もよ」


 エミーリアは瞳を少しだけ潤ませて、少女のように無垢な笑顔を見せた。


「愛してるわ、マリウス」



***



 呪いによって弱い十六で命を落とす運命を背負った少女。

 彼女の呪いを解いたのはたった一人へ向ける大きな愛だった。


 ――愛が呪いを乗り越える。


 これはそんなありきたりな、奇跡の物語。

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