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「手術費に3億円がかかる」




 担当医に告げられ——どんな顔で天音と会えばいいのか、わからなかった。




 助かるかもしれない。




 が、緊急の手術だ。


 今からじゃ、到底用意できない。




 ゴミ収集の仕事と、なけなしのアルバイトで稼いだ貯金じゃ足りない。




 時間さえあれば、用意してやるのに。


 命を掛けて、どんな手段であっても、やってみせるのに。




 だから病室の前で、ぼうっと馬鹿みたいに突っ立っていた。


 天音はきっといつものようにおれを待っている。




 わかっている。


 だからこそ、おれは、しみったれた顔で会うわけにはいかない。




 手のひらが濡れていることに気づく。


 ぎりりと手のひらを固くにぎりしめすぎて、手のひらが裂けていた。


 血がしたたり落ちて、床に落ちていた。




 おれは、引き返してナースステーションに絆創膏をもらいにいく。


 ついでに床に垂れた血を拭くため、ルビスタを一枚もらう。


 血痕を拭き取り、意を決して扉を叩く。




「……遅いよ」




 扉を開くと、あらゆる管がいたるところに繋げられて寝ている天音が、なんとかというそぶりで手をあげた。




 骸骨みたいにやせほそった顔には酸素マスク、腕には点滴、指にはモニターに接続するためのセンサー。




 それが、この一年の天音の「当たり前」の姿だった。




「や、ちょっとな。わりい」




「……どうしたのそれ」




 めざとく絆創膏に気づいたらしい。




「ああ、ちょっと仕事でな」




「……ふーん」




「どうだ調子は」




「まあ、あんま変わんないかな」




 妊婦のように膨満した腹部をさすりながらあっけらかんと言った。




「そっちは……なんだかいつもとちがうね」




「そうか?」




「そうだよ。足音。私わかるんだからね」




「あ……」




「ずっと、そこにいたじゃん。いつもなら、すぐ入ってくるのに」




「……」




「不思議なんだよね。いつもは具合悪くて寝てるだけなのに、お兄ちゃんがくるとすぐ目が覚めるの。なんでか自分でもわかんないけど。困る事じゃないから、ラッキーっていつも思ってる」




 口を引き結ぶ。




 悔しかった。


 そんなことがラッキーなことだなんて言うから。




 お前は本当は誰よりも可愛いんだ。


 勉強もできるし、料理もできるし、歌もうまいし。


 クラスの男子から言いよられて困っている人気者で。




 そう、病気じゃなければ、いくらだって未来がある。


 おれなんかの兄でいるより、幸せになる未来が。


 でも病気だから。全て奪われた。




 まるで世界から廃棄されたみたいに。全て。




「……ラジオ聞きたい」




 妹に言われてつけた。




 音楽番組で、ASIAN KUNG-FU GENERATIONの『新しい世界』が始まるところだった。




 しばらく二人で聞く。




「新しい世界か……あるといいな」




「そう? 私はこの世界が好きだけど」




「クソみたいじゃねえか。幸せになるやつは勝手に幸せになるけど、そうじゃないやつはクソみたいな人生を毎日送らなきゃいけないんだぜ。自分が幸せなときは、誰かの不幸なんて誰も見てくれやしない。生存バイアスに満ちた、不公平で、どうしようもない、そんな世界じゃねえか」




 だから、変えたかったんだ。




 おれなりに、頑張った。


 でもおれなりにしか、頑張れなかった。


 だから、今、こうなっている。




 変わりたいと、大声で叫んだだけだったんだ。意味のないことだった。




「そっか。そうだよね。お兄ちゃんはさ、八年前に、こんな私が家にきたときに……私が妹になったときから、ずっと苦労してばっかだもんね。再婚してすぐにお父さんもお母さんもいなくなっちゃって、そっからはずっと私なんかを面倒みなきゃいけなくなった。そりゃ、そう思うよね」


「違う! おれにとっちゃお前が!」


 神経がぷつりと切れた。


 声を荒げてしまう。


 そんなことを天音に言わせてしまった自分に、怒りが湧いて仕方なかった。


「お前がいるからおれの人生なんだよ! お前がいてくれなきゃ、おれの人生じゃねえんだよ! お前を幸せにしてやりたい! それだけが、それだけを思って、それだけが……それだけで、いいんだよ。なのになんで……それすら、できないくそ野郎なんだよおれは!」




 涙が出ていた。馬鹿みたいに。




 止まらなかった。




 止めたかったのに。悔しくて止められない。




 ふざけんな、と自分に腹が立って仕方ない。泣いている暇なんてないのに。


 泣いて、なにかが変わるわけじゃないのに。




「うん。私も。わたしもお兄ちゃんが幸せになればいいって、心から思っている」




「天音」




「悔しいな。私が幸せにしてあげたいのに……お兄ちゃんの邪魔ばっかしちゃった。それなのに、お兄ちゃんを独り占めにできて嬉しいとか思ってて……幸せで。だからきっと天罰かなんかだったのかな。お兄ちゃんを解放しなさい、っていう」




「んだよそれ。お前はな、人生経験全く足りてねえんだよ。お前はおれしか知らねえ。いいか、おれなんかより、素敵な人間は、いっぱいいるんだ。こんな肉体労働しかできないような底辺の人生を歩んだ人間なんか忘れて生きていけるくらい、お前はかわいいやつなんだ! お前が花嫁になるまで、お前が幸せになるくらいにまで生きてもらわないと、おれは納得なんか、できねえんだからな」




「……お兄ちゃん以上の人か……。それって頭が良かったり、お金があったり、格好良かったり……。そういうことでしょ」




「そうだよ」




「じゃあ、要らないよ。そんなの」




 おれは二の句を継げなかった。




 天音は意思を示すようにはっきりとおれの目をまじまじと見つめていたから。




「新しい世界がもしもあるなら、お兄ちゃんと一緒がいい。お兄ちゃんと一緒なら、どんな世界だっていいなあ。お兄ちゃんと逃げて、お兄ちゃんと死にたい。そんでもさ——」




 そっとおれの手を取った。




「お兄ちゃんは、生きなきゃだめだよ。私が、いなくなっても」




 残酷だと思った。


 そんな願いは。




 見抜かれたみたいだった。




 天音のいない人生なんて、おれは想像ができない。




 天音を失う? 考えられない。考えたくない。だから、これから先も、絶対考えない。だって考えたら、おれは狂ってしまう。




「ねえ、お兄ちゃん、お願いがあるんだけど」


「なんだよ」


「ラジオ、消して。で、ここ、来てよ」




 ベッドの片側に寄りモニターのコードがついていない方をぽんぽんと叩いた。




 言われるがままラジオを消し、狭いベッドの中に入って横になった。




「ん」




 ぎゅっと抱きしめてくる。




「お兄ちゃん、お願い。今日から毎日、夜はこうして。私が寝るまで、ずっとこうしててね」




「それは……」




「お願い」




「わかった」




 どのみち、三億円を今すぐ用意するには、肉体労働では無理だ。頼み込むしか無い。




 足をすり減らし、募金か、お金を出してくれるお金持ちへ。




 ならば——、この願いを、全身全霊で受け止める。




 それしか、できることが、ないのだから。




「ああ、幸せ。なんだろ、今なら死んじゃっていい」




「こら、じゃあやめるぞ」




「だめ」




 背中にまわした腕の力が一層強まる。




「お兄ちゃん……お兄ちゃん」




 天音は子供のように甘えた声を出していた。




 すんすんとにおいをかいでくる。




 おれの体臭なんぞ臭いだけだろうに。




 そういえば、両親が亡くなったとき、よくこうして天音が布団に潜り込んできて一緒に寝たっけ。




 戻りてえな。




 あの頃のお前に。




 戻って……そうして。お前を幸せにしてやりてえ。




「私は死んでも、きっと、お兄ちゃんのそばにいると思うんだ。意識とかなにもなくなっても、きっとお兄ちゃんを守る背後霊になる。うんそうだ」




「……」




「私とお兄ちゃんの関係は量子もつれみたいなものなの。どこにいても、どんなに離れてても一瞬でぴたっとそばにいける。そばにいないといけない。そんな運命で、きっと結ばれてる」




 馬鹿だな。




 おれは、後悔ばっかしているよ。


 おれしか知らない人生でかわいそうだなって。


 そんな運命で良いはずないだろ。




 お前にはもっとふさわしい人間がいるんだ。




 なんでおれだったんだろ。




 なんでおれはお前の兄になっちまったんだろう。




 こんな幸せ者、いねえけど。




 分不相応なんだよ。




 なんでおれなんだよ。




 そんなことばかり。考えてる。




「新しい世界に行っても、お兄ちゃんのそばにいる。私はそう信じている。信じてる、じゃ足りないくらい。確信してる」




 ああ、神様。




 どうか新しい世界があるなら、こいつをどうか幸せにしてやってください。




 お金があるとか、そういうのはいいから、どうかこいつが心から笑って、健康で、本当に幸せになれるそんな世界にしてください。




 情けない。




 神なんているはずない。




 いてたまるか。




 なのに、それに縋るしかおれはできない。




 情けない。




 ほんと、情けない。




「お兄ちゃん。だから私が死んでも、お兄ちゃんは生きて。ね。幸せにならなきゃだめだからね」






——それから、一ヶ月後。天音は亡くなった。


 おれは、言われたとおりに、生きた。


 ただ、息をしているだけなら、楽なものだった。


 天音のことを思い出さなければ。




 だから、極力天音のことを考えないようにした。


 それでも考えてしまう日はあって。


 おれはただ願っていた気がする。




 妹に会いたい。


 それだけを。


 願ってた。

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