6 独りぼっちの少年
三人は馬車を降りた。皆で逃げ出した時には、まだこんな有様ではなかった。教会は、いつもと全く変わらない姿で胸を張っていたし、必ずすぐ戻れるからと、荷物になる聖書の副本はほとんど残していったのだった。
苦い敗北感がピエールの胸にこみ上げる。自分たちは、迫害に負けて我が家を、教会を捨てたのだ。虚ろなクレティアンテの抜け殻が、尻をまくって逃げ出した司祭たちを責めているように感じた。
「なかなか厳しいな、こりゃ」
部外者の天賜も唸る。
誰の仕業かは、分かっていた。阮氏__大越の南半分を支配する一族の差し金だ。十六世紀に黎朝の摂政、鄭氏に離反して広南に拠点を移し、以来コーチシナ地域の住民を鄭氏との戦いや重税で苦しめている。キリスト教徒は特に目の敵だ。
「広南が外国に寛大だったのは、遠い昔の話になってしまったようだな」
天賜が呟く。
「唯一の救いは、死人が出なかったことだな」
ピエールは言葉を絞り出した。信徒たちは、自分の身だけは守ることができたわけだ。
だが、
「そいつはどうかな?」
ジョルジュが冷や水をかけるようなことを言った。そして、ピエールと天賜が彼の方を見ると、黙って足下を指差した。
ピエールはぎゃっと悲鳴を上げた。天賜は無言で二歩離れた。
ほとんど骨になった死体が転がっていた。裸だ。素性を探ることはもはや出来そうになかった。
ピエールとジョルジュはその骨の側に跪き、手を組み合わせて祈った。名前の分からない死者が安らぎを得られるように。
祈りを遮ったのは天賜だった。
「誰かがいるぞ」
二人ははっと立ち上がる。天賜と部下が刀を抜いた。ピエールたちも、護身用のナイフをそっと取り出した。
切り倒されたマングローブの木の向こうで、何者かが動いている。耳をすますと、荒い息づかいまでかすかに聞こえてくる。
隠れてはいるが、気配を殺すのは恐ろしく下手だ。枝を踏む音がしきりにする。その上、倒木の向こうに隠れられる背丈……。
「子どもか……?」
ジョルジュも同じことを考えたらしい。木に向かって声をかけた。
「出ておいで! 俺たちは怪しい者じゃない」
隠れている者は驚いて身じろぎしたようだった。辛抱強く待っていると、やがて恐る恐るそいつの顔が、それから全身が現れた。
恐怖に目を見開いた。ぼろをまとった少年だった。彼は、立っていたのが二人の西洋人と知らない男だと分かり、後ずさりした。ジョルジュが優しくまた呼んだ。
「おいで、坊や!」
ジョルジュのコーチシナ語には、少しの訛りがある。どことなくおかしみがあって、子どもたちから好かれていた。そのくせ彼のフランス語は上流階級の人間のように美しい。代々教師の家庭で育ったためらしい。
「何も悪いようにはしやしないよ」
子どもには笑顔を向けながら、ジョルジュはピエールに囁いた。
「信徒ではないな」
ピエールもうなずく。クレティアンテに住んでいた子どもなら、西洋人にも慣れているはずだ。
天賜が、懐から包み紙にくるまれた何かを取り出し、少年に向かって放り投げた。それは倒木に当たって落ちた。少年は興味を隠しきれない様子で包みを拾った。
「あれは何です?」
「飴だ。持ち歩いて、たまに舐めるんだ」
包み紙を開いた少年が顔をほころばせ、色とりどりのガラス玉のような飴をつまみ上げた。それから、まだ警戒を隠せない表情で、少しずつこちらに近づいてくる。
側に来た少年の頭を、ジョルジュが乱暴に撫でた。くすぐったそうだが嫌がりはしなかった。だが、まだ全身が緊張で固い。
「ありがとう」
少年は天賜にぺこりと頭を下げた。
「小僧、名前は?」
天賜は子どもには優しい。飴は袋ごとくれてやるつもりのようだ。
「高文」
「おうちはどこにあるの」
高文は首を振った。
「ない。なくなっちゃった」
「ふむ……」
ピエールも尋ねた。
「お父さんお母さんは?」
すると高文は地面の骨を指差した。ジョルジュが鋭く息を呑む。
「……こいつが、殺した。父ちゃんも母ちゃんも」
「そうか……」
呻くジョルジュが、高文を抱きしめる。高文はきょとんとしている。何故殺されたのか、とはとても聞くことはできなかった。
「それはいつのことかな?」
高文は指を七回折って数えた。
「それ以来、ずっと一人きりなのか」
高文はうなずいた。
ジョルジュがフランス語でピエールに確認する。
「どうする?」
ピエールは即答した。
「我々が引き取ろう」
信徒であろうがなかろうが、親を(おそらくは)目の前で殺され、みなしごとなった高文を放っておくことなど決してできない。
「賛成。だが、この子の意思も大事だぜ」
ジョルジュは膝を曲げ、高文と目の高さを合わせた。
「なあ、行くあてがないのなら俺たちと来ないか?」
高文は、黒く丸い瞳でジョルジュを見返し、何度も速い瞬きをした。ピエールもジョルジュの隣にしゃがみ込んだ。
「俺はジョルジュ、こいつはピエール。ヘンな顔だって思ったろ? 俺たちは、海の向こうの遠い遠い国から神様と一緒にやってきたんだ」
「神さま?」
高文が強く反応した。
「龍神さまのこと?」
龍だ。ピエールはどきっとする。だが今は、代牧や龍のことなど気にしていられない。
「俺たちの神様は、もっと優しくて素晴らしい神様さ」
ジョルジュは高文に笑いかけた。
「仲良くしようや、な?」
高文はこくりとうなずいた。




