5 帰還
ジョルジュはしゃがみ込み、地面に敷き詰められた翠の石を一つ拾い上げ、しげしげと眺め回していた。一方ピエールはどうも気が落ち着かず、苛々と同じ場所を歩き回る。
「何で……」
ジョルジュがはっと顔を上げたことで、思考の一端が口から漏れていたことを知る。
「何で私は、代牧になろうとしているんだろう」
「そりゃ簡単さ。俺が言ったからだ」
ジョルジュはあっさりと答えを出した。
「俺がいなけりゃ、お前は今ごろインドで辞典作りにいそしんでいただろうからな」
「お前のおかげだって言いたいのか?」
「いや。俺のせいだ」
ジョルジュは別の石を拾い、最初の石と見比べていたが、やがて後の石を捨てた。
「どう考えたって、今俺たちは危険な綱渡りをしている。この先首尾良く目的を果たして皆の元へ帰ってきたって、叱られもせず迎え入れられるとは思えん」
「じゃあ、何でそこまでして私をここに連れてきた?」
ジョルジュは答えなかった。ピエールは待った。先程ジョルジュが待ってくれたように。だが、彼は天賜がやってくるまで、とうとう一言も口をきかなかった。
馬車は船よりもまだましだ__と言うのは、ジョルジュの意見である。だが薬を持っていない分、今の方がきついとピエールは思っていた。舗装されていない地面、それも小石が至る所に散らばり、ところどころスコールの後にできたひどいぬかるみが罠のように潜んでいる道を駆け抜けるのは恐ろしい経験だった。その上、天賜は御者に飛ばせ飛ばせとけしかける。往来を歩く人を避けるたびに馬車は大きく左右に傾き、ピエールは生きた心地がしなかった。
絶えず跳ねては揺れる馬車の中でぐったりと口元を押さえている司祭たちは、向かい合って座る天賜が話しかけてきてもすぐに反応できなかった。
「君たちは、龍とは何だと思う? 伝説上の龍ではないぞ。キリスト教徒たちが噂にしている、叙任権を持つ龍の正体だ」
随分奇妙なコンクラーベだ。
「そう、です、ね」
ジョルジュがようやく返事をした。揺れのため一言一言区切っているように聞こえる。
「何かそういう珍しい生き物がいるんじゃないですか? 蛇のような……」
「ふむ」
龍をかたどった彫刻や絵ならば、ピエールたちも目にしたことがある。素晴らしく長い胴に、申し訳程度についた複数の足。宝玉を握りしめた龍もいれば、そうでないものもいる。コーチシナ人が畏怖をこめて語る龍という生物は、水を操り、空を自由に飛び回るらしい。だが、その実物も、それに近いといえるような立派な動物もまだ見たことはない。__強いて言えば、マダガスカル島でちらとだけ見かけた赤と黒の大蛇が今のところ最も龍に近い。だが、自分たちが知らないだけで、コーチシナには大きな蛇やらとかげやらがうろちょろしているのだろうか。
「ちなみに、明には白黒の熊や虎がいる」
天賜がそう言った。面白がっているのか、にんまりと唇を緩めている。
「南の国の生物は総じてでかいからな。深い森の中には何がいてもおかしくはない」
「龍が本物の生物なら、生け捕りにすることもできるかもな」
ジョルジュが顔をほころばせた。だがピエールは、つい顔をしかめた。
「私はそうは思わない」
「何でだよ」
「信徒たちが言っているのは……生きた龍の話ではないと思う」
「じゃあ、何なんだ?」
二人に注目され、ピエールは頭の中の漠然とした考えを急いでまとめようとした。
「……龍を見ただけで何故代牧になれるのか、腑に落ちない。フランスやローマで司教を選出する時は、候補のあらゆる素質を審査され、試験だっていくつも合格しなければならないのに。……ここでも、代牧になるには、それなりの試練があるはずなんだ」
「ここは西洋ではない。大越だ」
天賜が言い返した。
「フランス__君の故郷かね? そこでの価値観が、全世界で通用するとは思わぬことだな。大越人だって、自分たちの基準で上に立つ者を選びたいのだ」
やりこめられ、ピエールは思わず顔を赤らめた。また、自分の頭でっかちが出てしまった。母国をもう十年近く前に離れたというのに、まだフランスでの常識を持ち出してしまう。ピゲル猊下やクレインペターたちにも何度か叱られたことがあった。フランスでの諺や倫理観をコーチシナ人に説くな。それでは伝わらない。
「まあまあ、ピエールの観点も納得できるな」
ジョルジュが取りなしてくれたが、さらにいたたまれなくなる。馬車酔いも相まってむっつりと黙り込んでしまったピエールに、天賜が再び話しかけた。さっきよりは声を和らげて。
「確かに、『龍を見る』という言葉はそのまま受け止めない方が良いだろうな。さて、そこで謎かけだ。君たち司祭が最も大越人との関わりで大事にするのは何だ? 逆に、向こうが君たちに求めるものは?」
「精神の安らぎと信心への報い」
天賜は苦笑した。
「いかにも司祭の模範解答だな。だがそれでは曖昧すぎる。大越人も司祭も、生活の方が死後の救いよりも大事ではないかね?」
ピエールは眉をひそめた。
「何が言いたいのです?」
「精神の安らぎなんてものは、衣食足りて初めてもたらされるのだ。彼らの生活を楽にするために必要なものは何かね? それこそが、司祭に信者どもが求めるものではないか?」
ピエールが考えている間に、ジョルジュがゆっくりと答えた。
「金。食糧。便利な道具」
ピエールはジョルジュを振り返る。
「宣教会は、商いを固く禁じている!」
「そうらしいな。私も、追放される前のイエズス会士からその辺のごたごた話を聞いたよ。だが、人間誰しも利益が無ければ心を動かさない、と覚えておいた方が良い……少なくとも、ピゲルやクレインペターはよく分かっていたはずだ」
だから__彼らは龍を『見た』のだろう。
天賜はそう囁くと、垂れ幕をめくり、町並みが変わったと司祭に告げた。熱い風が吹き込んでくる。それからまもなくして馬車が速度を大きく落とした。ピエールたちにも外の様子を垣間見るゆとりが生まれた。
ホンダット__インドに避難するまで、ピエールたちが住んでいた町である。コーチシナの最南端に位置し、ハティエンともほど近い。今のように馬車を飛ばせば半日足らずで到着する。
穏やかな町__だった。ピエールたちが赴任した当初は。ステンドグラスもはめ込んだ立派な教会は、日の光を浴びて輝く十字架の尖塔を誇っていた。クレティアンテ(キリスト教徒の共同体)の規模はさほど大きくなかったが、診療所も学校も墓地もあり、戒律をよく守る信徒たちと実り多い日々を過ごしていた。
今__ピエールの目の前には、焼けただれた廃屋の残骸がある。めちゃめちゃに掘り起こされた墓が、貴金属の十字架部分やステンドグラスだけ切り取られ、あとは染料や泥で汚された、教会のなれの果てがある。ピゲル猊下が教会の周りで育てていた、強烈な匂いの植物は、見事に野生化し、荒廃した建物をうっそうと取り囲んでいた。人の姿はどこにもなく、静けさを破るのは虫や鳥の声ばかりである。
「そんな……」
ピエールは愕然として呟いた。馬車はゆっくりと停まった。ここが終着点だと誰が告げるまでもなく、御者はホンダットのことを知っていたようだった。
ジョルジュが冷え冷えとした声で返事をした。
「分かってたことだろ」




