3.亡失
お読みいただきありがとうございます。
これにて完結です。
「そなたには負担をかける。すまないと――思っている」
絶望を感じていたラウラの耳に、初めて自分に向けられた王子の言葉が飛び込んできた。
「魔力を与えていただくのはそれほどまでに苦しいのでしょうか」
「いや、そなたは魔力に耐性がある。これまでも私の魔力を胎に宿しても不調を訴えなかった事から、問題はない」
言葉通りに捉えたラウラに、アベル王子は静かに答えた。
夫婦の営みの事を侯爵の目の前で平然と言われた事に、ラウラは恥ずかしくなって顔を伏せた。
「私はそなたの望む夫にも父親にもなれない」
ラウラがなぜ恥ずかしがっているのかなど気にも留めないまま、アベル王子は言った。
――知っております。
「私にできるせめてもの礼は、そなたが安心して暮らせるよう取り計らうだけだ」
――十分にしていただいておりますわ。
「前線に出るのは、王国の為でもある。しかし、兄上が治める事になるだろうこの国を、そなたらが暮らすこの国を守りたいと私は思っている」
アベル王子の声に僅かだが優しさが込められたのが分かって、ラウラは驚いて顔を上げた。
「畏れながら――王子の守りたい中に、私もいるのでしょうか」
震える声でラウラは尋ねた。
「何を言っている。当たり前ではないか」
相変わらず感情のない声で返答するアベル王子は、小さく首を傾げた。
「そなたは私の妻だろう。妻を案じるのは夫として当然の事ではないか」
世間一般の事を言っているのはわかっていた。それでも、自分を妻と認めてくれた事が、自身が想像していた以上に嬉しくて、ラウラの胸が熱くなるのが分かった。ラウラはこの時初めて、自分がアベル王子を愛している事に気が付いた。
輿入れが決まり、初めて会った時から、ラウラはこの美しい王子に惹かれていた。しかし、すぐに妻ではなく子を生す為の胎が欲しかっただけなのだと知って、その気持ちに蓋をするようにしていたのだ。
それでも、月に数度子作りの為に自分の寝室を訪れるアベル王子を受け入れる事は苦痛ではなかったし、アベル王子が戦場から戻ったあの夜に王子が寝室を訪れなかった事には落胆していた。
ラウラは自分の体を差し出しても、王子の望みに応えたいと思っていた自分に漸く気が付いた。
使用人や貴族達から夫の話を聞くたび、子供時代の王子に寄り添ってあげたかったと思ったし、戦場に行く夫の後ろ姿を思い出しては無事に戻るよう祈りをささげるために、日が暮れるまでの長い時間を神殿で過ごしたりしていた。
それらは全て愛だった。それをやっと夫の言葉によって自覚する事ができたのだ。
突然の感情にラウラはその場に泣き崩れ、少しだけ動揺しながらアベル王子はラウラを近くの椅子に座らせ、侯爵に飲み物を持ってくるよう指示した。
侯爵の持って来てくれた果実水を見て、ラウラはそれが自分が好んでいつも飲んでいるものだとすぐに気付いた。侯爵手ずから持って来てくれたのだろうか。いや、使用人が気を利かせたのだろう。
それでも、何故かラウラはそれが夫が用意させたものだと思えた。そう思いたかっただけなのかもしれないが。
果実水を受け取ると一気に飲み干し、ラウラは混乱する頭落ち着けようと努力した。
「取り乱してしまい、申し訳ございません。妻と――私を妻と認めて下さっていた事が嬉しくて」
「何をおかしなことを。私の妻はそなた以外にいないだろう」
言葉を詰まらせるラウラに、アベル王子は静かに言った。
「私は、人生の全てを兄上に捧げると決めている。兄上こそが王にふさわしく、私はその礎になりたいのだ。だから他の者に心を砕く余裕がない事は申し訳ないと思っている。しかし――いつか」
アベル王子は初めて言葉を詰まらせた。
「いつか、兄上の治める世となり、憂いが無くなれば――その時は王子ではなく、夫としてそなたらの側にいると約束しよう」
アベル王子の言葉に、ラウラは幸せな気持ちで頷いた。
初めてアベル王子が自分を見て、自分に向けてくれた言葉を、ラウラはずっと胸に抱いて噛みしめていた。
ラウラの胎が目立つようになった頃には、アベル王子は宣言通り前線に出ていった。
せめて生まれた子を抱いてほしいと言うラウラの願いは当然のように叶えられるはずがないと思っていたので口にはしなかった。
帝国の兵力は強大だったが、アベル王子とエスクード侯爵は見事に前線の砦を守り切っていた。
生まれた子は男の子だった。
セツと名付けられた王子は、アベル王子によく似た金の瞳が美しい子だった。
アベル王子によく似た魔力を感じ、ラウラはアベル王子の望み通り、魔力を持つ子供を産めた事に安堵した。
出産の報せに、夫は前線から戻る事もなく、儀礼的な手紙でラウラを称えた。
ラウラはそれだけで幸せだった。そして、早く戦争が終わり、夫が望んだ子を抱いてくれる事を願っていた。
第一王子であるトバル王子は、アベル王子の不在を申し訳なく思っていたのか、セツを自分の息子のようにかわいがってくれた。
戦争が4年目に突入した頃、戦況は王国に有利に傾いていた。
しかし、両国はもちろん、周辺国も長く続く戦争に疲弊していた。
ある日、ラウラの元に届けられたのは、夫の戦死の報せだった。
前線の砦で、トバル王子の慰問を迎えた夫は、トバル王子を狙った間者から兄を庇い、大怪我を負ってそのまま帰らぬ人となったのだと知らされた。
ラウラは、せめて夫の遺体を帰して欲しいと願ったが、風土病を持ち帰る危険性があったため、その場で火にかけ埋葬されたと教えられ、失意のあまり床に伏してしまった。
帝国と王国の間に和平協定の席が設けられたのは、アベル王子の死の報せから20日も経たない頃だった。
前線から戻ったエスクード侯爵は、床に伏したラウラを気遣い、頻繁に見舞った。
そして、2歳を迎えたばかりのセツ王子の魔力を知ると、アベル王子と同じように自分の弟子に迎えた。
和平協議は難航していたが、少しずつ条件の折り合いがついていたかのように見えた。
そんな折だった。
アベル王子の戦死の報せから40日が経過した頃だろうか。
突然王国の東に位置する帝国から、強大な魔力が感じられた。
ラウラはそれが夫のものである事を瞬時に理解した。
夫は生きていたのだ――この瞬間までは。
魔力と共に、夫の痛みや苦しみが伝わってくるのが分かった。
ラウラの体には、まだアベル王子の魔力が僅かに残っていた。だからだろうか。アベル王子の魔力を、想いを感じ取ることが出来た。
戦死というのは嘘だった。
アベル王子の身柄を渡せば和平協議の場を設けると言う、帝国の甘言にのせられたトバル王子が、アベル王子を売ったのだ。
帝国に秘密裏に渡された身柄が、通常の捕虜の扱いでない事は容易に想像できる。
その証拠にラウラの体には耐え難いほどの痛みが流れ込んできた。ほんの一瞬、瞬きをするだけの間の事だったが、夫に与えられた苦痛の時間は想像に難い長い時間だったのだろう。
肉体を傷つけられ、尊厳を奪われ、夫は文字通り死ぬまで嬲られたのだ。
それでも、ラウラの心に流れ込んできたのは、アベル王子の最後の想いだった。
兄上、我が王よ。あなたの治世に不要なものは残すまい。最後の私の献身です。
ラウラはトバル王子を恨むことはできなかった。
夫は全てを知って、受け入れていたのだ。
最後まで兄を信じ、こうする事が兄の為になるのだと受け入れていた。
それでも、帰ってきてほしかった。
あの日言ってくれたように、平和な治世が実現したら自分達の側にいてくれると言う約束を守ってほしかった。
「なぜあなただけがこのような目に遭わねばならないのです」
寝台に臥せって、とめどなく流れる涙を拭う事もせず、ラウラはここにはいないアベル王子に話しかけた。
「なぜ――戻ってきてくれなかったのですか」
私は妻に感謝を伝えられただろうか。子が生まれる前に城を出て、子が生まれたと知らせを聞いても文一つのみで帰ることもしなかった自分を、そしてそのまま帰らぬ自分を許してくれるのだろうか。
アベル王子の死を感じる直前にラウラが受け取ったのは、そんな想いだった。
あの人は私の名を最後まで呼ぶことはなかった。おそらく知らなかったのだろう。
だが、死を目の前にしたその時に、あの人は自分達を想ってくれたのだ。
ラウラはそっと目を閉じて、夫の魔力を抱きしめた。
「お母様。今日は私に弟が出来ました」
10歳になったセツ王子は、アベル王子によく似た金の瞳をキラキラと輝かせて、柔らかい椅子に座ったままの母に話しかけた。
帝国が一夜にして滅亡して8年が経とうとしていた。
帝国の滅亡はアベル王子の魔力によるものだと言う噂がまことしやかに広がり、魔法使いの存在に怯えた周辺国は、こぞって王国との友好的な関係を望んだ為、王国は久しぶりの平和を甘受していた。
セツ王子はそんな平和な世界ですくすくと健康に育っていた。
セツ王子が物心ついた頃から、母の目はセツ王子を写さない。
焦点の定まらない目でどこか違うところを見て、微笑を浮かべたまま、人形のように座っている。
それでも、セツ王子が傍に寄ると嬉しそうに笑みを浮かべるのだ。母からの言葉は帰ってこない。
いつだったか、母は自身の魔力に耐えきれなくなり、心がどこか別の所に行ってしまったのだと、ジュノア師が教えてくれた。
「アダムと言って、魔力を持った子供なんです。僕と師匠以外にも魔法使いがいたんですよ」
そう言って、小さな手で母の手を包み込んだが、母の手は何の反応もしない。ただ、温かさだけがセツ王子の掌に返ってくるだけだ。だが、セツ王子はそれでよかった。
「アダムはとても魔力が大きいんだって師匠が驚いていました。僕にはまだわからないけど……でも、なんとなくアダムの魔力はとても懐かしいんです。お母様の魔力にも似ていて――」
自分が話しかけると嬉しそうに見える母の顔を見るだけで幸せだった。
セツはその日も、ずっと母に話しかけていた。
アダムという少年は、セツの弟弟子として、また遊び相手として最適だった。
二人は本当の兄弟のように、毎日一緒に過ごしていた。
王宮に子供の笑い声が響き渡るのは、トバル王が子供の頃以来の事だった。大人たちはそれを微笑ましく見ていたが、彼らに近付く事は出来なかった。
彼らから漏れ出た魔力は周囲の人間に影響を与えてしまうからだ。
だからこそ、二人はお互いを唯一の、そして最高の友達と認識していた。
「アダム、お母様を紹介するよ。お母様、こちらは僕の弟のアダムです」
ある日、セツは母の部屋にアダムを連れてやってきた。
窓辺に座って微笑を浮かべているラウラは人形のようだった。
「アダム、少しお母様の話し相手になっていてくれないか?僕、師匠に言いつけられていた魔法陣を持ってくるのを忘れたから取りに戻るよ」
思い出したように言うと、セツは慌ただしく部屋を飛び出して行ってしまった。
残されたアダムは、ラウラの側に立つとその小さな手でラウラの手を握った。
「約束を――」
微笑を浮かべたままのラウラの口から言葉が漏れた。
「守ってくださったんですね」
どこも見ていなかったラウラの目が、アダムを見つめた。
「すまない。君には苦労ばかりかけてしまった」
7歳の子供と思えない、静かな落ち着いた言葉がアダムの口から出てきたが、ラウラは微笑を浮かべたまま、驚くこともなく、アダムの手を握り返した。
「いいえ。私は苦労などしておりませんわ。セツもほら――可愛い子に育ちましたでしょう」
「ああ。君によく似ている」
アダムの言葉に、ラウラは「まあ」と小さく呟いて微笑んだ。
そして、微笑を浮かべたまま、静かにその目を閉じた。
セツが戻っても、その目は二度と開かれることはなかった。
アダムは、握られた手の力が抜けて体温が消えていくのを感じながら、母に縋って泣くセツを優しく慰めた。
ラウラの葬式は、静かに身内のみで行われた。
ラウラの死後もアダムは生涯に渡ってセツのよき友人であり、よき理解者であった。長い長い人生を終えるまでその関係は百数十年変わる事無く続いた。
セツの寿命がいよいよとなったその時、セツはアダムを自分の側に呼び寄せた。
「アダム――我が友よ。君がいたから、私はここまで生きてこれた。君には感謝の言葉を何万遍綴っても足りない」
「もったいないお言葉です」
セツはもう力の入らない手をアダムに伸ばそうとしたが、やはり動かない。
しかし、アダムはそれを察してセツの手を握り締めた。
アダムの手の温もりを感じると、セツは唇を動かしたが、既に声は出なかった。
力なくアダムの手からすり落ちた手を、アダムは慈しみをもって胸の前で組ませた。
「私は約束を守れただろうか――お前たちの側にいるという約束を」
アダムはそう言うと、ゆっくりと立ち上がってセツの寝顔のように安らかな顔を見つめ、やがて静かに部屋を出た。
いつから気が付いていたのだろうか。
セツの唇は「ちちうえ」と動いていた。
その日以降、アダムの姿を見た者はいなかった。
そして、王国の歴史に、アダムという名の魔法使いがいたという記録も残っていない。
エスクード侯爵がめちゃくちゃ空気ですが、彼は基本的に無口で無感情な人なので動かしにくいです。
次回はエスクード侯爵のお話も書きたいと思っています。
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