社会性と『ヘン』
子供の頃からアリをじっと見ていることが多かった。
アリの巣の前でしゃがんで、巣の穴から砂を運び出すアリを見ていて飽きることはない。
アリは自分の体重よりも重い物を運ぶことができる。
単独では巣穴の砂利を地上に運ぶこともできるし、力を合わせれば自分よりも大きな虫を運ぶこともできる。
土の中の砂は湿っているのか、地上の砂と色が違う。それがまた彼らの仕事ぶりを表しているようにも見える。
毎日毎日忙しくなく働き、アリの巣穴が大きくなるのを見るのが好きだった。
小学生の頃、親が共働きということもあり、自分は小学校の学童に預けられていた。別にそれが寂しいと思ったことはない。家で一人でいる方がつまらないと思うし、それに私の趣味といえば虫ばかり追いかけることばかりで。学校の広い敷地に住む虫を追っかけ回せる方が都合が良かった。
同じくらいの子たちはアリの巣に木の棒を突っ込んだり砂をかけたり、ちょっかいを出すことが多い。
それでも彼らは屈することなく巣を広げていく。
そこがまた見ていて好きだった。自分が巣の前にきた時は突っ込まれた木の枝を除いてあげたり、巣穴を故意に塞いだ小石をどかしてあげた。
このアリの種類だが……幼い記憶を辿って考えると、あれはクロヤマアリだろうと思う。スタイルやビジュアルは最もアリらしいアリだが、クロオオアリと見間違う人も少なくないだろう。外見的な違いはやはりクロオオアリは尻に毛が生えているところか、大してクロヤマアリは尻はツルツルとしている。
もちろん突き詰めれば、さらに違いはあるのだが。子供の頃は見ることでしか得られない知識ばかりだったから、仕方がないかもしれない。
子供ながらに彼ら(この時はまだ、働きアリはメスということを知らない)の動きは効率が良くて好きだった。たとえば一匹は巣穴の整備をして、その間に他のアリが餌を運んでくる。そんな姿が好きだった。
できれば巣穴の中を解体してみたいと思うが。彼らの邪魔になると思うと、しゃがんだ場所で上から眺めていることが多かった。
もっと彼らの生態が知りたくて、でも大人に聞いたってアリのことなんて全く知らない人の方が多い。学童の指導員だって自分の親だって、私の質問にまともに取りあってくれる人はいなかった。
そんなこと当たり前だろうとは思う、アリのことなんて知らなくても死ぬわけじゃない。
むしろなんでアリ? と聞き返されたくらいだ。アリは特に屋内入ってきて、害虫扱いされることもあり嫌な顔をされたこともある。
結局、私が頼ったのは学童にあるボロボロの昆虫図鑑。
それでも虫が好きな子供用に作られた本はカブトムシやクワガタ、トンボとかいかにも昆虫らしい昆虫ばかりで。アリのページなんてちょっとだけ。そこで初めて、彼らの大部分を彼女たちだと知った。
地上からは見えない、暗がりの中では彼女たちの母である女王アリがおり。彼女たちは協力をして巣を守っていることを知り、社会性のある昆虫がそこから好きになった。
大人になってもアリやハチの社会性は興味深い。
誰も何も教えてくれないのに彼女たちは互いに連携ができる。餌を集めたり、巣を広くしたり、女王やその子供たち(彼女たちからしてみれば妹たち)の世話をしたり。時には外敵を迎え撃つために、身を挺して戦う。
その命をかけて最後まで家族を守る。
これが自然にできるアリやハチを少しだけ羨ましいと思えてしまうのは、人間という生き物は多様すぎるせいだろうと思う。
選択肢が多く、そして多様で他人や他の生物について考える余裕がある。いや、ありすぎる。
アリやハチは多数が力を合わせなければ、その種が生き残れない。巣を突いてくる人間の正体を気にする余裕なんてない。
こうして私のような人間が巣を眺めていたって、攻撃しない限り認知もしない。
一々、今日は何を食べるだの。やれあの服装は派手だの、やれ女らしくないだの。
誰がとやく言われるような余裕がないから、効率重視の社会性が生まれるのだろうと思う。
それが私のように羨ましいと思うのか、それとも乏しい貧しいと思えるのか。
それは今の人間の社会についてどう見るか、どう過ごしているかで意見が割れそうだ。
***
アイスティーの氷がカランと音を鳴らして、沈んだ頃。
彼女は静かにグラスの方を見た、グラスの結露がツーと線を引いて流れている。
夏休みに入ったせいか、外からは子供の声が溢れて童心に浸りながらもブログの記事を書いていた。ブログに書いてみると、彼女は『我ながらに浮いた子供だ』と苦笑いした。
こんな虫取り少女に友達がいるかといえば、いない。だから一人で虫を観察していることが多かった。
『アオイちゃんってヘンだよねー』
彼女、葵にとっては『ヘン』という言葉が嫌いだった。
別に自分は変じゃないと彼女は思っていたが。そう言われ始めるとなんだか……意識するようになってしまう。
大人になってみればわかるが、子供にだって子供の社会がある。それも大人以上に、純粋で無垢な言及は心を簡単に傷つけるものだ。
違和感への指摘、子供ながらにして覚えるその言葉。それが『ヘン』だった。
『私……ヘンじゃない』
『ヘンだよっ! みんなで遊ぶのがフツウだもんっ』
一人でアリを眺めるように過ごして、誰とも遊ばない彼女への指摘だった。
学童に帰ってくればオヤツの時間まで自由時間で、それが終わった後も親が迎えにくるまでは自由時間になる。
そうして子供たちは宿題をしたり、外で遊んだりと過ごす。
葵は宿題を済ませたら、大体アリの巣の前に座ってアリを眺めていることが多かった。
ドッジボールとか、鬼ごっことか、大縄跳びとか。
そうやって誰かと何かをするよりも、葵にとってはアリの動きの方が面白くて。そちらを優先したいだけなのに。それを『ヘン』と言われるのは何だか嫌だったのだ。
『みんなと遊びたくないから、遊ばないだけで……ヘンじゃない』
『ヘンだよっ! ムシが好きなんて気持ち悪いもんっ』
そんなことを今でも思い出せてしまうのは『ヘン』という言葉にいつまでも因縁を持つからだろうか。
人間は趣味趣向を持ち、そしてそれを共有できるコミニケーション能力がある。
だが、その趣味趣向には傾向がある。好まれやすい傾向、嫌われやすい傾向。それがあるからこそ『ヘン』という言葉がついて回るのだろうと葵は思う。
そして虫や昆虫には嫌われやすい傾向がある、だからこそ『ヘン』がいつまでも因縁を持つのだろう。
それでも葵は別に『ヘン』という人を『ヘン』とは思わない。
虫好き、人間嫌いの葵からしてみれば、理解してもらおうなんて今更思ったりもしない。
人間の社会性とアリの社会性は全くの別物だ。
だが、そのアリの社会性……がむしゃらに生きることに一致団結できる姿に憧れてしまうのは『ヘン』という言葉の弊害なのかもしれない。