嫌われ者もまた母親なのだ
今年の七月の中旬。
ベランダの天井を見た時に、緑色の蜘蛛が張り付いていた。離れているから正確にはわからないが。大きさは三、四センチくらいだろうか。
巣を張っているわけでもなく、ただじっとしている。私は蜘蛛がいてもあまり動じない方だ。こうして離れているが頭上に居ようが、別に不快には思わない。正確には動じなくなった、だ。
あえて作品の名前は出さないが。
子供の頃に映画で観た蜘蛛の描写力が凄まじく、私は蜘蛛は大の苦手になった。特にタランチュラのケバケバの足に、ファンタジー要素のデカさ、そして素早さがめっきりダメになった。
見るのも嫌だ!
気持ち悪い!
そう思うくらいのリアリティがあった。
しかし、歳を取るうちに考えてみれば。タランチュラ類の蜘蛛はなかなか生でみることは少ない。あんなにケバケバな蜘蛛は日本にはなかなかに居ないのだ。大きさもそう、日本の大きな蜘蛛といえばジョロウグモくらいの大きさで、人よりも大きな蜘蛛なんて見ない。
そもそも、なぜ私は蜘蛛を怖がるのだろうか。
ふと考えてみれば、映画の鬼気迫る描写力で苦手になっただけじゃないか。と、思ってみれば私は蜘蛛が怖いんじゃない。ファンタジー的に描かれた蜘蛛が怖いだけだ、と理解できた。
それにしてもあの描写力は素晴らしい、子供ながらにドキドキしながらも、私が大人になってもそのシーンだけは思い出せる……
蜘蛛は人が思っているよりも大人しい性格で、人に噛み付いたりするのも防衛本能であることが多い。蜘蛛のことを知れば知るほど、私にとっては蜘蛛はただの隣人という感じになってきた。こちらが何もしなければ、相手だって何もしてこない。そう思うと蜘蛛を見ても不快には思わなくなっていった。
話を戻そう。なぜ私の頭上に蜘蛛がいるのだろう。それもじっとして何もしていない、気になって見ていると。蜘蛛は静かに卵嚢を抱えている。
卵嚢とは卵が入った袋のようなものだ。緑色のクモで糸に包まれた卵嚢であることから、素人目での判断だがおそらくウロコアシナガグモだろう。一体、何を思ってそんなところに……ウロコアシナガグモの体色は緑であることから、葉の裏に隠れるように卵嚢を守るのが通例だろうに。
白い天井に緑の体色がくっきりと浮かぶほどに目立ち、蜘蛛は静かに佇んでいる。
卵嚢守ると決めた蜘蛛は、外敵を察知すればその身を挺して守る。食べ物だって自分から取りに行くことはない、片時も離れず。ただ子が生まれるまでその場を離れない。基本的に卵嚢を抱えるのはメスであり、そのためか大体の蜘蛛はメスが体が大きい。おそらく私が見上げている蜘蛛もメスだろうと思う。(違ったら申し訳ないが)
天井を見上げる私のことを彼女は敵だとは思っていないようだ。私は彼女に危害を加えるつもりもないし、彼女も私を気にしない。
その日からしばらく、彼女への観察が始まった。
七月は暑い日が続くと思いきや、豪雨が続く日が長かった。まるで六月の梅雨を思い出したかのように雨が降り、なんだったらゲリラ豪雨のおまけ付きだ。彼女がなぜ、卵を抱く場所を真っ白な天井を選んだのかはわからないが。もしかしたらその選択のお陰で強い雨からも逃れられたのかもしれない。
いくら葉の裏でも、この大雨では場所にもよるだろうが一溜りもないだろう。そういう意味では目立つ体色でも天井を選んだことが、功を奏した。
そして日を重ねていくと、卵嚢には徐々に彼女の子供たちの影が見え始める。白い袋の中に彼女と同じ色の小さな点が現れる。人間でいうならエコー写真みたいなものか、と私は静かに卵嚢の様子を眺めていた。遠目で見えるくらいに彼女と同じくらいのエメラルドグリーンが子供にも残されているのだと。彼女はじっと動かず、ただただ卵嚢を守っていた。
子供たちが顔を覗かせたのはそれからしばらくした頃だった。小さな緑色の点が天井を歩いている。何匹いるかは数えられないが、蜘蛛の子を散らすという言葉がある通りの数ではある。しかし、この中でも彼女のように子を成す成体になれるのは……ほんの一握りだ。
自然というのは上手くできていて、何事も生命の循環になっている。彼女は子供を産むためにたくさんの虫を食べてきたのだろうが、今度はその子供たちが虫の餌食になる番なのだ。幼体の蜘蛛が捕まえられる虫は限られるし、母親である彼女の仕事もここまで。
あとは子供たちが自分たちで生きていくしかない。そうして敵から逃れられた蜘蛛だけが体を大きくして、また他の虫を食べる。それが命の循環なのだ。
一体彼女はどのような心境でそれを眺めているのだろう。
子供が産まれてくるまで、見張っていることは生命のプログラムで。子供が産まれたら彼女の仕事はもう終わりだ、ウロコアシナガグモの生態を詳しくは知らないが。蜘蛛によっては子育てをする種類もいる。だが彼女はじっと子供たちがそばを離れていくのを眺めているだけだったから、おそらく子育てはしてないのだと思う。
数日過ぎると、子供も彼女も天井からいなくなった。
ウロコアシナガグモは複数回産卵するのだろうか、と思いながらも誰もいなくなったベランダの天井を見つめた。
そして今日。夏らしい真っ青な空と強い日差しを少し鬱陶しく感じながら、ベランダのスリッパに足を引っ掛けた時。ふと、スリッパの下に何かがあった。風が強かったから枯葉でも舞い上がったか?と思いながらもよくみると。
カラカラに干からびた、蜘蛛の死骸だった。
同個体かはわからないが、体格的にウロコアシナガグモに見える。だがもうあの綺麗な緑色はなく、細く干からびて死後何日か経過しているよう見えた。ベランダのどこかで息絶えて、風に吹かれて亡骸がスリッパに引っかかったのかもしれない。
蜘蛛にとって子を成すことはプログラムのようなもので。卵嚢を守ることに人間的な感情は存在しないのだろうとは思う。
産まれてきた子供たちを愛おしいと思うこともしないだろう。その子たちの今後を祈ることもしない。子孫を残すためだけに、できることをして命を終える。役目を終えた彼女を褒める蜘蛛だっているわけがない、だってそれが蜘蛛として当たり前のことだから。
ただは彼女のことを労ってあげたい。命の終わりまで役目を努めて、こんなスリッパの下で亡骸が風化していくのは気の毒だと思えた。
亡くなった蜘蛛だ、何かしたってもう怖がってこちらを噛むこともないだろう。私は指先で摘んで土のある地面に彼女の体を還した。
蜘蛛は一般的には嫌われ者だろうと思う。こんな記事を書いて、蜘蛛が嫌いな人から見れば私は変な人だ。
気持ち悪いとすら思われるかもしれない。
ただ上記にある通り、映画の一件でその理由は私にもよくわかる。
足が八本で動きが気持ち悪いし、お腹が膨らんでいて目もいっぱい。体の模様だってなんだか気味が悪い種類が多いし、できれば見ていたくもない!
本当に、その通りだと思う。
ただ嫌われ者も母であり、子を守ることもする。
この一件を通して、それをただ書き残しておきたかった。
蜘蛛は結構の種類が子供の誕生を見守って命を終える。蜘蛛に限らずタコもなんかもそう。餌を取ることもせず、ただただ子の誕生を待ち、そして役目を終える。
もっと調べれば鳥類、哺乳類に限らず子供たちが生まれるまで命を削って子の誕生を待ち侘びる生き物がいる。
そんなこと知っているよ、という人が多いかもしれないが。
今日は蜘蛛の生き様を見た、感傷的な私に免じて許してほしい。
***
ブログにそう投稿して、彼女はパソコンの電源を落とした。
窓は閉め切っているのに夜の虫の声がよく聞こえる部屋で、彼女はため息を吐いて酒の入ったグラスに口をつけてから。その酒を味わうようにして飲み、またため息を吐いた。
「……蜘蛛如きでここまで凹むかね」
自分のことなのに、他人事のように彼女は呟いた。
まさかここまで長々と書くとは思っていなかったのだ、最初は高々千字ぐらいの読み物になると思っていたのに。
彼女はまぁいいかと、酒のおかわりを取りに行くのだった。