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69. 常闇と白銀はそれから……~ある地方都市の宿屋にて~

 

 とある国の地方都市――



 都市の中央を南北に走る大通りの商店が並ぶ一画にその宿屋はあった。



 商店が軒を連ねるこの一帯には宿屋が幾つもひしめいており、安さで選ぶか、多少高くとも飯で選ぶか、この街に来訪した商人や旅人達が品定めしながら近くの通りを彷徨(さまよ)っている。


 数多(あまた)の旅人や商人などが訪れる国の交通の要であるこの都市では、宿屋はたいてい飯屋も兼ねているからだ。



 この宿屋も多分に漏れず、飯の旨さでそれなりに人気があった。


 その宿に銀髪の青年が扉を押し開けて入ってきた。



 その青年はとても美麗で、表の通りではすれ違った女性がみな顔を朱に染め振り返ってしまうほどだ。


 青年は宿に入ると真っすぐ食堂の方へと進んでいき、そこのカウンターで暇を持て余していた亭主に手を上げた。



「こんにちはボルグさん」

「よぉ、ハルさんじゃないか」



 二人の声が聞こえたようで、台所の奥から恰幅の良い女将が顔を出す。


 ボルグの妻デリスである。



「あら、ハルさん。こんな所へ何の用だい?」

「おいおい、仮にもお前の亭主の城をこんな所はないだろう?」



 自分の妻が自慢の店を(けな)す発言に口を尖らせた。



「なぁにが城だい。こんなおんぼろ宿が城でお前さんが王様ってんなら、向かいの大店(おおだな)は神の国で店主は神様かい!」

「男にとっちゃ自分の店はどんな襤褸(ぼろ)でも自慢の城なんだよ!」



 この二人の口喧嘩は日常茶飯事。

 一種の儀式みたいなものである。


 お互い信頼し、愛し合っているからこそ出来るおふざけだ。


 この宿は提供される料理の評判も良く繁盛しており、それは二人とも自覚し、誇りにしているのだ。


 それはハルにも分かっており、それだけに二人のじゃれあいを見せられて苦笑いした。だが、無用と思いつつも、このままでは埒があかないと仲裁に入った。



「まあまあそれくらいで、俺の用件を聞いてくれませんか?」

「ああ、済まなかったね。バカな亭主のせいで時間を食っちまった」



 茶化した物言いでデリスが混ぜっ返すので、またぞろ言い争いを始められては堪らないと、ハルはさっさと用件を切り出した。



「出来るだけ妻の家事の負担を減らしたくて……それで、何か料理を持ち帰れないか相談にきたのですが……」



 気恥ずかしさからか、少し歯切れの悪いハルの頼みにボルグはぽんと手で相槌を打った。



「ああ、奥さんおめでただったな」

「じゃあ、持ち帰り出来るもんを見繕ってあげよかね」

「助かります。大事な時なんで妻にあまり無理をさせたくなくて」



 デリスが厨房へと引っ込むと同時にボルグが椅子を用意してくれたので、ハルは遠慮なく座って待たせてもらう事にした。



「二人目だったよなぁ。前は女の子だったし、今度は男の子がいいかい?」

「母子共に無事ならそれで……」



 出産はハルが想像している以上に命懸けなのだと最初の子供の時に知った。

 聞けば妊婦の二百人に一人は亡くなり、胎児も必ず無事に産まれるわけではない。


 つわりで吐いたり食事が喉を通らなかったりと、愛する妻が苦しむ姿に愕然とした。

 いつも健気なトーナの情動が不安定になり、そんな妻をハルは見ていられなかった。


 後からトーナに聞いて知ったが、高血圧や不整脈など様々な状態の変化を引き起こし、場合によっては心の病や意識消失の後に儚くなる女性も一定数いるらしい。


 その壮絶さを聞いてハルは真っ青になった。


 それなら子供など望まなければ良かった。

 トーナを失うなど考えられない。


 子供なんていなくてもいい……本気でそう思ったのだが……



 おぎゃぁぁぁ、おぎゃぁぁぁ、おぎゃぁぁぁ……



 産まれた娘を見て、その喜びから出産を否定する気持ちが吹き飛んだ。


 トーナが命を賭して産み落とした生命の愛おしさに、ハルにとって娘は妻と同じくらい大切な宝物となった。



 だから、トーナが二人目を欲した時、ハルはそれに反対しなかった。だが、やはりトーナが何より大事だ。絶対に失いたくない。



「二人とも無事ならそれだけで嬉しいのです」



 それがハルの偽らざる心情なのである。



「出産は命懸けだからなぁ」

「世の母親達には全く感服いたします」



 以前はあんなに女性を毛嫌いしていたのだが、トーナを愛し彼女の出産に立ち会ってハルの心境は大きく変化していた。



「五人も産み育てているデリスさんは、凄いものだといつも思います」



 だから、デリスへの敬意は本物である。



「まあ、お陰でかかぁには頭が上がらんがね」

「俺もその内トーナに逆らえなくなるんですかね?」



 そう言ってハルとボルグは声を立てて笑った。


 お互い自分の妻に頭が上がらなくとも良いかとの既婚男性同士の共感である。



「なんだい、なんだい、男二人顔をつき合わせて笑って」



 ちょうどその時、デリスが厨房から料理を詰めた器を運んできた。



「あり合わせで悪いんだけど、保存はきくから持ってきな。明日はもうちっと良いもん用意しとくからさ」

「ありがとうございます」



 ハルはかなり重量のありそうな容器を受け取り礼を述べたが、デリスはそれに対してひらひらと手を振った。



「いいって、いいって……それで何の話をしてたんだい?」

「出産は楽じゃねぇって話さ」

「まあねぇ、神でもないただの人間が新しい命を産み出すんだから簡単じゃないさね」

「新しい生命か……確かにそう考えるとすげぇ事だよなぁ」

「それを五人も……デリスさんは本当に尊敬に値する人だ」



 素直に感心するハルにデリスとボルグの目は点になった。



「なぁに言ってんだい。ハルさんの奥さんはもっと凄いじゃないか」

「トーナはまだ二人目ですが?」



 首を傾げるハルにデリスは呆れた眼差しを向けた。



「これだから男は……いいかい、出産は数じゃないよ。それにトーナさんは母と薬師(くすし)を両立しているじゃないか」

「そうそう、あんな細っこい身体で新しい生命(いのち)を育み、患者の命も守っているんだからすげぇ奥さんだよ」



 実は、この街に定住して間もなくデリスを一度トーナの薬で助けた事がある。その為、二人はトーナに対して恩義を感じているし、薬師としての彼女を尊敬もしていた。



「この間もカルデのじぃさんが胃が痛い、鳩尾が痛いって騒いで転げ回ってた事があったろ?」



 ボルグが話題にしたのは、医師も薬師も胃腸に異常を見られないと見捨てた患者の話である。



「あのじぃさんは人騒がせな性質(たち)でな。それもあって仮病だろ、気の持ちようだろと呆れて治癒師の誰もが取り合わなかったんだ。それをトーナさんが(しん)の病だと見抜いて薬を飲ませたらあっという間に治っちまった」



 この時、ボルグの首筋に静脈が青く浮き出ているのをトーナは見逃さなかった。すぐにボルグの診察を行ったトーナは心窩部痛が心不全からくるものだと看破したのだ。



「胃痛から原因を心臓だと見抜くなんて本当に凄い娘だよねぇ」

「そこで驕ったりしないところがまた良いんだよ」

「そうさね。他の治癒師のそれぞれの得意分野を持ち上げて面子を潰さないよう立ち回ってもいたしねぇ」



 出会った頃のトーナは思いやりのある女性ではあったが、ファマスで人々から拒絶されるのに慣れてしまっていたせいか、どうにも人付き合いに険があった。


 しかし、今の彼女はとても穏やかになったようにハルにも思える。


 それはファマスから離れ、多くの人々が彼女を受け入れてくれた事で心に余裕が出来たからではないかとハルには思えた。



「優秀な薬師でしかもとびっきりの美人ときてる」

「ちょいと真面目すぎるのが玉に瑕だけど穏やかで気立も良い出来たお嬢さんだからね、大事にしておやりな」

「ええ、肝に銘じておきます」

「そうそう、あんまり蔑ろにしてたら他の男に盗られちまうかもしれんぜ。なにせ奥さん狙ってる男も少なくないからなぁ」



 ボルグが突然とんでもなく不穏な情報を漏らしハルはぎょっとした。



「人妻だってのに街のバカな男共が色めき立って必要もないのに薬を買いにいってたねぇ」

「そりゃ、あんだけ美人で優しけりゃ男なら鼻の下も伸びるってもんさ」

「男ってのはホントに呆れた生き物だよ」



 長年連れ添った中年夫婦の(おど)けたやり取りに、しかし、冗談と理解出来ても愛する妻の周りにそんな男が(たか)っていたのかと、ハルは内心気が気ではなかった。



「奥さんの愛情に胡座をかかず逃げられないようにしっかり捕まえときな!」



 その不安を知ってか知らずか、ボルグが冗談めかしてばしばしとハルの肩を叩いた。



「ばぁか、お前さんと違ってハルさんは色男なんだ。逃げられるわけないだろ」

「ガハハハッちげぇねぇ!」



 妻に群がる虫をどう駆除してやろうか、そんな仄暗(ほのぐら)い考えを見透かされ二人に笑い飛ばされた気がした。



「いや、彼女は本当に綺麗で、誰よりも賢く、とても優しく出来た妻だから愛想を尽かされないかいつも気が気じゃないんです」



 だから、(おど)けて誤魔化したのだが、意外とこの戯言(ざれごと)も半分本気である。



「おやおや惚気(のろけ)かい?」

「ご馳走様だな」



 自分の妻をべた褒めするハルの様子に、ボルグとデリスは顔を見合わせて肩を(すく)めた。



「まあ、本気で心配する必要はないがな」

「奥さん、あんたにベタ惚れだからねぇ」



 彼女が今でも自分にぞっこんであるのには自信がある。



「実は昔、彼女が孤立していたところを俺が完全に囲い込みまして、お陰で彼女は俺意外に頼れる男がいないと刷り込まれているんです」



 にやりと笑ってハルは(おど)けてみせたが、嘘偽りのない真実である。

 追放の旅で二人きりなのをいいことにトーナを堕としていたのだ。



「彼女はもう俺なしで生きていけませんよ」

「かぁーっ!悪い男だねぇ」



 三人は声を立てて笑った。



「随分と楽しそうですね」



 不意にその笑いの輪の中に異質な(おと)が混じる。



 声の方へ顔を向ければ、そこには一人の行商人がにこにこ笑って立っていた……


【出産】

 意外と知られていないのが、出産時のリスクです。妊娠では高血圧や糖尿病などの様々な合併症の危険性があり、また出産時も出血や脳卒中などで亡くなるケースもあります。

 自然分娩時代の妊産婦の死亡率は10万人あたり400人ほどでした。現在では、10万にあたり3人ほどでかなり安全にはなりましたが、それでもノーリスクとはいきません。

 きちんと定期検診を受け、緊急時の対応ができるように母子手帳を作りましょう。


【関連痛】

 身体のある部位での病因で起こる痛みを、その原因となる部位から離れた部位に感じる痛みの事。

 今回のお話ではカルデの胃痛が心の病(狭心症)が原因でした。この狭心症は皆様もご存じのように本来なら心臓に痛みを感じますが、実は意外と関連痛として他の部位(鳩尾(みぞおち)、肩、背中、歯など)で痛みを感じるケースが少なくありません。その為、他の痛みから狭心症を疑う症例もあります。

 ところが一部の医師には鳩尾の痛みから狭心症を疑い心臓の検査をしようとしたら、関係のない検査をして儲けようとしていると患者から怒られたとの話もあるそうで……( ̄▽ ̄;)

 まったく違う部位での痛みや症状でありながら想定していた疾患とは違うことは多々あります。

 不審に思われる方もおられるかもしれませんが、診断の為には推定される病気を一つずつ潰していかなければなりません。決して無暗に検査をしているのではないとご理解ください。

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― 新着の感想 ―
[良い点] ハル……あんたって人は(* ゜Д゜) でも、そんなふうに愛されるのをトーナも嬉しいはず(笑) あぁ、もう!イチャラブですね!( *´艸`)
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