32. 薬師の本分~赤い雫~
「トーナ殿!」
「な、何を!?」
私が自分の腕に刃物を当てると、ハル様とソアラさんが目を大きく見開き、驚嘆の声を上げました。
ですが、私は微かな逡巡も見せずに、刃を軽く真っ直ぐに引いたのです。
「「――!?」」
二人は私のあまりに突拍子もない行動に唖然としてしまいましたが、そんなに大袈裟な事でもないのです。
刃が鋭く細いので実際には痛みは然程ないのですから。
ツーーーッ
腕に赤い線を描くが如く、俄に赤い血が浮き出てきました。
赤い液体が盛り上がり、それが真っ赤な雫を形成する。
ぽとっ……
その血の球体が私の腕を離れ、床へと落ちてじわっと赤黒い染みとなりました。
「――っ!?」
血をあまり見慣れていないのでしょう。
言葉を失ったソアラさんの顔から血の気が引いてしまっていました。
「トーナ殿、どうしてそんな真似を!?」
ハル様は騎士ですからソアラさんとは違い、流血沙汰には慣れている筈です。
しかし、私に向ける顔は珍しく厳しいもので、とてもお怒りのご様子でした。
ハル様はきっと私の身を案じてくださったのでしょう。
ですが、どうしても私はこうしないといけないのです。
「ご心配をお掛けして申し訳ありません。ですが、私は大丈夫ですので」
心配をお掛けしたハル様に謝罪をしてから、柄杓でハル様が運んでくれた甕からお湯を掬い、ソアラさんと対峙しました。
「自分の腕を切るなんて……」
私の奇行に顔色を失ったソアラさんの目は怯えと動揺に揺らいでいます。
「この様な傷は、治療の前に洗って綺麗にする必要があります。特に今回のメリルさんは魔獣に咬まれていますので、傷口はかなり不潔ですから尚の事です」
「それは……そうですが……でも……」
ソアラさんのこの反応から見て、おそらく一度メリルさんの咬み傷を洗ったのでしょう。そして、それに使用したのは当然ですがただの水。
その結果、メリルさんは……
私は今からその状況を再現するのです。
「なっ、駄目ぇ!!」
手にした柄杓の合を腕の傷口へ持っていくと、ソアラさんが小さな悲鳴を上げました。
しかし、彼女の止める声にも構わず、私は手にした湯を注いだ柄杓を傾けたのでした。
ぴちゃぴちゃ……
傾けられた柄杓からお湯が溢れ落ち、ただのお湯が傷口を侵すと――
「――くっ、うっ!」
その瞬間、傷口を凄まじ力で締め付けられた様な、あまりの激しい痛みに呻き声が思わず口をついて出ました。
しばらくジンジンと続いたので、痛みに耐える為に歯をグッと食い縛り、目をぎゅっと瞑って顔を顰めました。
「このように普通の水やお湯で傷口を洗えば、とても耐えられない強い痛みを感じます」
だいぶん痛みが引いたので、私は説明を再開しました。
ソアラさんは少し怯えながら、こくこく頷いています。
涙目で震えている彼女の様子から、やはり一度メリルさんの怪我を洗ったのでしょう。
「メリルさんの傷口を水で洗われたのではありませんか?」
「うっ、は……はい……」
ちょっと切っただけの私の傷口にお湯を掛けただけで、これほど強い痛みを感じるのです、恐ろしいヴェロムに咬まれた大傷を水で洗ったならばきっと……
その痛みを想像しただけで身震いがでそうです。
「メリルさんはかなり痛がっておられませんでしたか?」
尋ねれば、やはりソアラさんは黙って頷かれました。
その時の凄惨な状況を思い出されたのでしょうか、ソアラさんの顔は悲痛に歪みました。
ですが、私はそれを深く追求はせず、先ほど作り直した生理食塩水を柄杓で掬いました。
「ですが、適量の塩を加えたこのお湯なら……」
「まさか、その塩水を傷口に掛けるのですか!?」
私が次に何をするのかに思い至ったのでしょう、驚愕したソアラさんの上げた叫び声を上げる中――
ザバッ……
――しかし、私はそれにもまったく怯む事なく、自分の傷口に柄杓の中身を掛けたのでした……




