28. 第二の患者~診察~
ソアラさんの案内で患者のいる部屋に入ると、私と同い歳くらいの女性が寝台に横たわっていました。
栗毛色の髪に愛嬌のありそうな顔立ち、元気な時は活発なのではないかと思わせるような愛らしい女性です。
しかし、今のその表情は苦しそうで、喘ぎ声が漏れ、噴き出した汗に髪がべたりと額に張り付いていて、彼女の快活な印象を損なってしまっているのが痛ましい。
この方がおそらくメリルさんでしょう。
「こんにちはメリルさん」
私はさっそくメリルさんに近づいて、彼女の肩を叩きながら声を掛けました。
すると、彼女は薄っすらと目を開けて、僅かに私の方へ瞳を動かしたのです。
「ここが何処か分かりますか? 今は何日ですか? 名前を言えますか?」
僅かながら反応はあったのですが、私の問いに応じられないほどメリルさんはぐったりとしているみたいです。
私は彼女の手を取って軽く握りました。
「右手を握ってみてください……今度は離してください」
「な、何をしているのです。早く娘の治療をしてください!」
メリルさんの意識の状態を確認していると、背後に立っていたソアラさんが焦れてヒステリックな声を上げながら私の肩を掴んできました。
「邪魔をしてはいけない。トーナ殿は患者の状態を確認しているのでしょう」
「そ、そうなのですか?」
ハル様がやんわりと窘めると、ソアラさんは慌てて私の肩から手を離しました。
「騎士団でも気を失っている者の初期対応で、ああして呼び掛けをしますよ」
「そうなんですね」
ハル様が一緒に来てくれて助かりました。
説明をしている時間もありませんし、きっと私が幾ら言葉を費やしてもソアラさんは納得しなかったのではないでしょうか。
心の中でハル様に感謝しながらメリルさんの診断を進めました。
魔狗毒に侵されていると分かっている患者に診断が必要なのかと疑問に思う方も少なくないけれど、同じ疾患であっても症状が同じとは限りません。
それに同様の症状であっても重症度に違いがあり、使用する薬剤が同じではなかったり、同じ薬剤を使用する時でも用法用量を変えたりします。
だから初期診断はその患者の治療の方向性を決める為にとても大事なのです。
メリルさんの口と鼻の間に頬を近づければ呼吸がハッハッと細かく荒い。
腕に指を当て脈拍を測ろうとしましたが、あまりに弱く頸部でやっと測り取れた脈はかなり速いものでした。
これは……
「呼吸は荒く、血圧は低く脈拍が速い、発汗も激しく体温もかなり高いようです」
手の甲を摘んで離せば、皮膚の皺がすぐに元に戻らない。
爪を圧迫してから解放しても、爪床の色が赤に戻らない。
「肌の張りがない……肌も乾燥している。やはり脱水を起こしています」
幸いにも朦朧としてはいますが、メリルさんには意識があります。
これなら経口から補水が出来るでしょう。
もし、経口摂取が不可能なら生理食塩水を血管に直接流し込む必要がありました。
そうなってくると私の手には負えません。
ファマスで生理食塩水を点滴する技術を持つ医師は限られています。
点滴が必須な病状であったら、医師のテナーさんに頭を下げてでもメリルさんを診てもらうようにお願いするつもりでした。
ですが、メリルさんにまだ自分の病状と戦う力が残っているのなら助かる見込みが十分にあります。
さあ、治療方針が決まりました。
魔狗毒の治療は毒の排泄が重要ですが、今の状態で利尿剤や下剤を与薬するのは脱水を悪化させて死に至る危険があります。
だから、まずは脱水の補正と毒の希釈……つまり、補水が必要です。
それと同時に傷の洗浄も行わないと……
「ソアラさんは今から私の指定するものの準備をお願いします」
「は、はい。それでメリルが助かるのでしたら」
忌避する私の指示を厭うのではないかと危惧しましたが、さすがに自分の娘の命が掛かっているので、ソアラさんに否やはないようです。
私一人ではとても対応出来るものではありませんから、承諾してくれたのは助かりました。
「俺も及ばずながらお手伝いしましょう」
ソアラさんの返答から間髪を入れずに、ハル様も追随する様に助力を申し出てくださいました。
正直に言えば国家騎士のハル様にお手伝い頂くのは気が引けます。
ですが、中毒の治療には人手が必要でしたので、ハル様の心遣いをありがたく受ける事にしました。
「それでは清潔な布をたくさん持ってきてください。それと水分補給と傷口の洗浄用に大量の水が必要です。厨房へ行ってじゃんじゃんお湯を沸かしてください」
「わかりました」
私の指示に頷いた2人は部屋を後にしました。
さあ、私は私で二人が戻ってくるまでの間に、治療の準備をしておかなければ。
まずは、すぐに必要な薬剤を用意しましょう……
【初期評価】
実は医療においてもっとも重要なのは病気の診断になります。診断がつかなければ病気の治療はできないと言ってもよいでしょう。しかし、血液検査や細菌検査、画像診断などそれらの結果を待っていては手遅れになるケースも多々あります。そのため、外傷、意識消失などで救急に運ばれた患者はまず初期評価としてFAST(Focused Assessment with Sonography for Trauma)を行うわけですが、当然この世界にはエコーがありあませんので、トーナが最初に行ったのはABCDEアプローチの一部になります。
A(気道)→B(呼吸)→C(循環)→D(中枢神経)→E(体温)
意識、呼吸状態、循環、体温などを診ていく初期診断で、地味ですがとても重要なものになります。血液検査もなかった昔の医師はこういった問診、触診、視診、聴診などだけで診断をくだしていました。




