20. 黒き薬師は街の中~利胆薬と聖水~
「俺達にはこれがある」
彼が出した右手にあるのは両拳大の涙型にも見える種の様な形の真っ黒な物体。
「もしかして胆嚢ですか?」
乾燥させた熊胆にも似た色形に、私はその物体の正体に当たりをつけました。
「そうだ、それもヴェロムのな!」
グウェンさんが自慢気に提示したのは動物の胆嚢を乾燥させたものです。
調合は薬師によって細部が変わりますので詳細は省きますが、おおよそ乾燥させた胆嚢を砕き丸薬とする生薬です。
ですが、彼が自信満々に提示した胆嚢から作られる薬は――
「それは胆薬でしょう」
――端的に言えば利胆を効能としたものです。
利胆とは五臓の一である肝臓の働きを介け、胆汁の回りを良くする効果の事です。
「本当に無知だな。ヴェロムの胆嚢にはその毒を和らげる効果があるのだ」
「それは違います」
本当にため息が出そうです。
動物由来の毒は、その毒を持っている生物の胆嚢を薬とする――
そんな迷信もありましたが、いったいいつの時代の話をしているのでしょう。
「胆薬は肝胆の働きを助けるので多少は毒素に抗する力を強めます。ですがそれは決して特効薬ではありません」
肝臓の働きを向上させますので、胆薬は代謝の活性と老廃物の排泄を促してくれます。
ですから、確かに多少の解毒作用は期待できるのですが、それは毒に対する特効薬と呼べるような代物ではないのです。
「それにヴェロムの胆薬ともなればかなり強力です。そのような薬を弱っている状態で服用するなど自殺行為です」
強力な利胆作用は、それだけ強力な副次効果も生じるのです。
胆薬に対する誤解をそのままにエリーナ様の治療を行えば大変な事態となってしまうでしょう。
「他にも咬み傷の対処は如何するのですか?」
これを怠ると傷口が膿んで壊死したり、四肢の痺れが発生し、痙攣、意識消失、呼吸困難、循環不全などの症状を経て、最悪の場合は死に至ります。
「動物咬傷は傷の治療が必須です。これは投薬だけではどうにも対応できないと思われますが?」
そうです。
例え胆薬で中毒の治療ができたとしても、咬傷に関しては全くの無力なのです。
「何の問題もない」
そう言ってガラックさん達の背後から部屋へと入って来たのは司祭服に身を包んだ丸々太った男――
「魔獣によって負った不浄の傷ならば聖水で清めれば良いのだ」
「オーロソ司祭……」
――この領の教会をファマスで統括されている司祭様です。
「失礼ですが、聖水はあくまで魔を祓うだけのものなのではありませんか?」
「魔女め!」
以前はモスカル様という方がファマスの教会で司祭をされていらっしゃいました。
モスカル様はお祖母様に連れられて教会に訪れた私を何かと気に掛けてくださった温柔敦厚で、人望の厚い聖職者でした。
そして、お祖母様が亡くなった頃、モスカル様はその声望の高さから司教となって本山に招聘されたので、代わりに目の前のオーロソ司祭がファマスに着任されたのです。
ですが、オーロソ司祭は私を魔女と罵り何かと責め教会の出入りを禁じたのです。
その為、私は長らく教会から遠ざかってしまっています。
ところが、礼拝に参加できない様に仕向けておきながら、オーロソ司祭は教会を敬わない魔女だと私を謗るのです。
「聖水を愚弄するか!」
「愚弄するも何も、聖水は傷を癒すものではない筈です。その様な教えは聞いた事がありません」
聖水とは聖職者が原泉から汲み上げた水を教会で司祭が成聖したものです。
その水には神の祝福が宿り、魔や穢れを祓う神の恩寵を受けられるのです。
この聖水によって清浄となった地には魔獣が寄りつき難くなるので、とても重宝されるものではありますが、言い換えればそれだけのものでしかありません。
決して傷を癒す効能はないのです。
「それはお前が神を敬わぬ魔女だからだ」
全く理屈の通らない困った司祭様です。
最近、この方は聖水や贖宥状を売り捌いているらしいとは聞いていましたが、森の薬方店までやって来る患者は少なく、街との交流が希薄な私は詳しく知らなかったのです。
どうやらモスカル様が転任されてから教会はおかしな状態になっているようです。
「私を教会から締め出したのはオーロソ様ではありませんか」
「魔女を教会に入るのを許すわけがなかろう」
まるで話になりません。
「彼女を貶める発言はよしなさい」
ハル様も不条理だと感じたらしく、オーロソ司祭から私を庇う様に割って入ってくださいました。
「それに今は言い争いをしている時間はないでしょう?」
「エリーナを救ってくれるならどちらでも構わん」
ハル様がちらりと見やるとバロッソ伯爵は渋面を作られました。
論争よりもエリーナ様の治療を優先すべきは当然です。
ですが、方針が違うので、私はガラックさん達と一緒にエリーナ様の治療を行う事は無理でしょう。
伯爵はどちらの治療を選択されるのでしょうか……
熊胆
クマノイとも呼ばれる生薬で、昔から民間、医療現場などで利用されている利胆薬の原料、主薬になります。効胃炎・逆流性食道炎などの自覚症状の改善、胆嚢炎や胆石症、膵炎、肝機能低下などの肝胆系の病気などに広く使われていました。
現在では化学的にウルソデオキシコール酸を合成できるようになりましたので、熊が減少していることもあって一部の生薬を扱うところでし見ることはありません。
動物咬傷
日本では犬、猫によるものがほとんどです。創傷治療以外にも感染症の予防が必要となり抗菌薬(クラブラン酸カリウム/アモキシシリン水和物)を投薬します。
狂犬病は日本においてはあまり問題になりませんが、海外ではリスなどでも持っていることがありますので、むやみに動物には近づかないようにしましょう。




