第一話 禁煙
「あなた、タバコは辞めた方が身のためですよ」
路地裏で私は背後から声をかけられた。振り返ると路地裏の暗がりにボゥッと浮かぶかのように一人の男が突っ立っていた。
「ここ、禁煙ですか?」
私は周囲を見渡して言った。そのとき、私は喫煙スペースの全くない街の中でタバコが吸える場所を求め、彷徨っていた。そこで辿り着いたのはこの人気が全くない路地裏である。ここなら、人目を気にせずタバコを吸えると思ったのだが、どうやら違ったようだ。私は火をつけたタバコを捨てて足で揉み消し、お詫びのつもりで頭を下げた。だが、顔を上げた私が見た光景は意外なものだった。
「あんた、吸ってるじゃないか?」
私はそう言って男の手元を指した。男の手には火のついたタバコが握られていた。男はそのまま口元にタバコを持っていき、タバコの煙を思いっきり吸い込むと、今度はおいしそうに煙を吐き出した。
「別に路上喫煙を取り締まっているわけではないですから」
男はそう言って壁にもたれかかったまま、再びタバコを吸った。
「それなら私も吸っても構わないですよね」
私は同類を見つけたと思い、タバコを口にくわえてライターで火をつけようとした。
「だめですよ。あなたは」
「どうしてですか?あなたがよくて私が何でいけないんですか?」
私は傲慢な男の態度に腹を立てた。火をつけることが出来なかったタバコの先を男に向けて怒鳴った。男はため息をついた。そして火のついたタバコの先で路地裏の先の方を指した。そこには白い布がかけられた机があった。その机の上には水晶玉が置かれている。
「私、占い師でして」
「占い師・・・・・?」
占い師というには地味な印象の男だと思った。薄汚れたワイシャツにチノパンを履き、汚れた革靴を履いている。リストラされたサラリーマンのなれの果てのような感じだ。頬がこけ、目がくぼんだ疲れ切った表情で、ボサボサの髪は殆ど白くなっている。しかし、この男、決して老人ではない。体格は華奢で少し猫背気味ではあるが、若い男なのだ。
「私の歳のことは関係ないでしょう?」
占い師は私に言った。その言葉通りのことを考えていたので、私は思わずドキリとした。
「驚くことはないですよ。私、占い師ですから」
占い師はクククと笑いながら、机の上に置かれた灰皿でタバコを消した。私はそれを見て自分が何を言おうとしていたのか思い出した。
「あなたが占い師であることと私がタバコを吸ってはいけないということは関係ないでしょう?」
私はこの占い師のペースにはまり、本来の目的を忘れていたのだ。私はただこの路地にタバコを吸いに来たのだ。
「関係ないわけでもないですよ。あなたの相にタバコは凶と出ただけです」
「凶?」
「はい、しかもあなたの命に係わる相です」
そんなバカなとも思ったが、私は同時に不安もよぎった。私はよくタバコの数量のことで注意を受けていた。飲酒量も多く、日頃の健康管理も怠っているため、自分が健康だとは言いきれない。それでも体に特に変調があるわけでもなく、これといった病気もない。ただ、人間ドックは極力避けていた。それはやはりいざ精密検査をするとなると自信が持てないからなのだろう。
「どうやらあなたにも心当たりがあるようですね」
占い師はそう言った。私のわずかな動揺を読んだみたいだ。
「しかし、喫煙者なら誰でも肺がんのリスクはあるわけだし・・・」
「それはそうですが、あなたは近いうちに命に係わる災難に見舞われることになります。それもそのタバコのせいで」
占い師はそう言うと俺のタバコを指した。
「構いませんよ。これはあなたの運命に関わることですから。しかし、それは周囲に悪影響も与えているはず」
私は息を呑んだ。占い師の一言が胸に突き刺さる。私は別れた妻の顔を思い出した。「あなたのタバコの煙が鼻につくのよ」と言って妻は離婚届を突き出して、家を飛び出た。別にタバコが離婚の直接の原因ではない。仕事にかまけて家庭を顧みなかったことや親戚間のトラブルなどが蓄積されての離婚なのだろうが、タバコを吸わない妻には私の長年の喫煙は鼻についていたのだろう。だから、それが引き金になったのだ。
「分かりました。タバコは辞めることにしましょう。それで料金は?」
私は占い師に素直に頭を下げた。これはいい機会なのかもしれない。タバコを辞めて健康的な生活をすれば躓いた人生もやり直せるかもしれない。
「戯れに声をかけただけですから、料金はいりませんよ」
「しかし、それでは・・・・・」
「それなら、そのタバコの箱を頂きましょうか。禁煙するあなたには必要ないものでしょう」
占い師はそう言うと私に手を出した。私は呆気に取られたが、すぐに占い師にタバコを渡した。占い師は満足そうに煙草を受け取ると早速中から一本取りだして吸い始めた。私はそれを見て唾をのみ込んだ。占い師はそれを横目で見て笑っているように見えた。
それからの私は完全に禁煙の生活を送っていた。とは言っても、それは口で言うほど楽なものではなかった。体中にしみ込んだニコチンは私に悪魔のささやきのように喫煙を促し、私はその誘惑を乗り越えるのに必死だった。だが、喫煙の手が伸びそうになったとき、あの占い師の顔が浮かんだ。「命に係わる」という言葉が脳裏に強く残って、私の手を止めさせた。あの胡散臭い占い師を信用しているわけではないが、何故か、言葉には重みがあった。それに私にはある目的が生まれていた。もし禁煙生活が成功し、人間ドックで異常が見られなかったら、妻に復縁を持ちかけようと考えていた。恥ずかしながら、私は妻に逃げられ、初めて妻を愛していたことに気づいたのだ。
そして、私は人間ドックを終えた。結果は禁煙生活が功を奏したのか、異常は全く見られなかった。私の肺は健康なものだったのだ。そうなれば私のやるべきことはただ一つ、私は早速、妻の携帯に健康に異常はないことと、禁煙をしたことを伝え、復縁を迫った。だが、意気揚揚で携帯にかけた私に返ってきたのは妻の冷たい言葉だった。
「まさか、タバコだけで離婚したなんて思っていないでしょうね」
妻の言葉は冷たく、再婚の可能性など微塵もないことは明らかだった。私は禁煙を達成させるために、無意味な幻想を抱いていたのかもしれない。
その夜、私は久しぶりにタバコを吸った。酒を飲み、今までの分を取り戻すようにタバコを吸った。そして、山になった灰皿に最後の一本を押し付けるとそのまま、ベッドに倒れ込むように眠りについた・・・・・。
*
その翌日の新聞に火災で40代サラリーマンが焼死したとの記事が載っていた。その火災の原因はタバコの火の不始末であると記事には書かれていた。
その記事を路地裏の占い師は黙って読んでいた。その口には火のついたタバコを咥えている。
「だから、命に係わるって言ったのに・・・・」
占い師はそう言うと、吸い終わったタバコを灰皿に押し付け、タバコの煙を吐き出すと同時にため息をついた。