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がららと新谷さんが、図書室の引き戸を開ける。続けて入ったら、中は橙色に染まっていた。左の窓から斜めに差し込む西日が、やけに鮮やかなせいだ。屋上から来る間に、だいぶ陽が傾いたみたいだ。
図書室につきものの閲覧用机はそれほど多くない。だけれど不自由はない。進学校じゃないから、どうせ利用者も少ないのだ。右手の作業スペースにいる司書の先生も、心なしか暇そうに見える。
何かあてがあるのかな。新谷さんは、揺れる五線譜に乗ってメロディーを奏でるように書架の方へと歩き出す。後ろに組んだ手の近くで、ホルダーに嵌ったゲーム・スフィアも揺れる。ボクは、視線が自然と、短めのスカートと小さめのお尻に向かってしまったので、慌ててそらした。
「十六十くんは、本、読む方?」
日本文学のコーナーに差し掛かったところで、新谷さんがやっと振り返る。
「は、はい、そこそこ」
獲物を狙う猫の笑みが、息が伝わりそうなくらい近い。小さい声でも聞こえるようにとの配慮だろうけれど、男子高校生がうっかり誤解してしまわないようにとの配慮はできていない。
「じゃあ、適当に借りてみたい本のタイトルを言ってみて」
「適当」程、難しい注文は無いと、ボクは常々思っている。取り敢えず、知っている作家を五十音順であたってみた。
「伊坂幸太郎の『死神の浮力』かな」
答えを聞くなり新谷さんは、並べられた本の背表紙を指で追い始める。
「い、い、い、あった、伊坂幸太郎。の、し、し、し、『死神の浮力』。これかな」
書架から抜かれたのは、窓外の空と同じような、オレンジ色を基調にした表紙の本。
「それです。間違いありません」
「十五時五十六分」
新谷さんは、どこかから取り出したスマホの時間を確認した。
「まだ、発動してないのかな?」
受け取ろうとボクが手を伸ばしたのに気付かないで、本を戻してしまった。
手のやり場に困ったので、仕方なく頭を掻いておく。
数分間、省エネモードにならないように操作しつつスマホの画面を注視する新谷さん、を見守るだけの不毛な時間が経過する。
「十六時過ぎた。十六十くん、『これなら、絶対図書室にある』って本を借りるよ」
やっと顔を上げてくれたと思ったら、さっきより難しい注文を出してきた。
「これなら、絶対図書室にある」って、どんな本だよ。辞書かな。でも、辞書は貸出禁止のはず。じゃあ、超有名な文豪の代表作ならどうだ? ってことで。
「太宰治の『人間失格』」
「それなら、わたしでも知ってる。読んだことは無いけど」
二人で、少しだけ横移動する。「た行」の前だ。
「た、だ、た、だ……、ち、になっちゃったよ」
「太宰治クラスになると、全集コーナーの方にあるのかもしれませんね」
「なるほど」
図書室の奥へと向かう。ボクの好み的に、全集コーナーには縁がない。だから、こっちへ向かったのは勘だよりだったのだけれど、見当違いではなかった。
窓の光は暮れなずんで頼りなく、蛍光灯の明かりも高い書架で遮られがち。そんな薄暗い室内の突き当りで、芥川龍之介、川端康成など、娯楽系の小説しか読まないボクでもかじったことのある文豪が名を連ねる。のに、
「太宰治が無いね」
「たしかに」
新谷さんとボクの二人がかりで、全集が集まる一帯を探してみたけれど、いつの間にか夏目漱石に行き当たってしまう。五十音順が間違えている可能性も考慮して最後まで確認しても、結果は同じだった。
太宰治の本が、抜き取られた形跡すら残さず、ごっそり消えている。これが、三角さんの言っていた図書室の不思議なのか?
「さっきの本、見に行こう。えっと『死神のノート』だっけ?」
この図書室に、漫画本はありません。
「『死神の浮力』ですね」
「それ」
返事をしながら、新谷さんは歩きだす。
日本文学コーナーに戻り、「あ行」から「い」へと視線を移し、ボクは唖然とする。
ついさっき、数冊あった伊坂幸太郎の本が、すっかり無くなっていた。