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第一話 『トリミング』より
神栖商業高校の通学路になっている長い坂道。その麓にある、喫茶店『かぶとむし』。
格子状の木枠に、曇りガラスが嵌ったドア。そっと押し開くと、ベルの音が、ちりんっと鳴った。喫茶店に入るのは初めてだ。緊張のあまり、ベルの音量はそれ程大きくなかったのに、ボクはひどくまごついてしまう。
「いらっしゃい」
奥から、落ち着いた低い男の声が迎えてくれた。多分マスターだな。
「あ、どうも」
ボクは、レインボースプリングが階段を降りるように、無闇に何度も頭を下げてしまった。
きっと、眠ったように細い目と、深いシワが似合う、口髭がダンディーな人物なんだろう。と、顔を見ないで勝手な想像をする。
店内を見渡すと、目当ての人物が一番奥の席に座っていた。
手を振ってくれた。振ってない方の手には、携帯ゲーム機、ゲーム・スフィアが握られている。
自称私立探偵。新谷京さんだ。
煙草の匂いを、煙そのもののように掻き分けながら進み、前の席に座る。
「お待たせしてすいません」
返事がない。
「あの……」
ご機嫌を伺うつもりで見ると、新谷さんは、ゲーム・スフィアと格闘していた。
今日はOL風のスーツ姿だ。けど、童顔の彼女は就職活動中の大学生にしかみえない。
「あぁ、狙いすぎたぁ。『I』字型のヤツって、待ってると来ないよね」
唐突に顔を上げて、目を合わせてきた。
「なんのことですか?」
「テトリス」
「テトリス?」
「えっ、知らないの? これ」
こちらに向けられたゲーム・スフィアのモニターに、『TETRIS』と虹色に塗り分けられたアルファベットが表示されている。
「画面を見せられてもちょっと」
分からないかな。ボクは首を傾げる。
「えぇ、今時の子はテトリス知らないんだ。ちょっと前まで、落ち物パズルの代名詞だったのに」
「落ち物? 落し物?」
アダムスキー型UFOが地表に軟着陸するように、新谷さんは溜息をついた。
「もう、いい。それより、何か飲む?」
「じゃあ、コーヒーで」
なんか、居た堪れなくなってきた。
「マスター、ブレンド一つ追加して」
「はいよ」
返事がしたカウンターの方をみたら、中年の男性が背中を向けて、棚から何かを取っている。お客はボク達以外に、カウンター席に座るお爺さん一人しか居ない。平日の夕方だからか、繁盛していないからなのか、どっちだろう。照明が薄暗いのと、BGMが流れないことも相まって、どこか、秘密のアジトっぽい雰囲気だ。
会話が途切れた状態が、しばらく続く。ボクは、慣れない人に話しかけるのがそもそも苦手だからだけれど、新谷さんの方は、
「じゃあ『ぷよぷよ』は――、『鮫亀』? もっとマイナーかな? 『パズドラ』は、わたしのほうがわかんないし――」
何やらゲームのタイトルらしきものを羅列している。
「ブレンドコーヒーです」
追加のコーヒーがきた。優雅な仕草でカップを置いたのは、マスターの奥さんっぽい女性だった。
「いただきます」
濃い琥珀色と芳ばしい香りの液体が揺れるカップに、そのまま口をつける。
「へぇ、以外。絶対、砂糖をいっぱい入れると思ってた」
「受験勉強で慣れました」
嘘じゃない。これは、年上の女性へのアピールポイントになるかな。ボクは心のなかでほくそ笑む。
「さて、そろそろ仕事の話をしようか」
あまり、効果がなかったようだ。
「阿僧祇さん? は、いいんですか?」
「コウさんは来ないよ。昨日、あの後、ドーナツを買い直して情報処理棟のキズ調査をしたから、今日は残業したくないんだって」
あの後。そうか、ボクのために使ったドーナツは、別件のために準備したものだったんだ。
「なんか、いろいろすみません」
「あぁ、気にしないでいいよ。お陰で格安で労働力が増強できた」
笑顔は胸が苦しくなるほど可愛いのに、セリフは世知辛いなあ。
「労働力って、ボクなんかに務まるでしょうか」
「大丈夫。十六十くんに手伝って欲しいのは、学校の七不思議集めだから」
「学校の七不思議って、トイレの花子さんみたいな?」
「高校生にもなって『トイレの花子さん』は無いだろうけど。ジャンル的には合ってるよ」
「なんで、七不思議なんて集めるんですか」
「ソレハコタエラレナイ」
何故棒読み。
「とにかく、極力全部集めてよ」
いつも、ドギマギするくらいまっすぐこちらを向いていた新谷さんの顔が、真ん中に鏡を立てたように歪に見える。怪しい。
「全部って、七つじゃないんですか」
「往々にして、七不思議は七つ以上あるものだよ」
何故得意げ?
幾つあるのか分からないものを全部集めるのは、酷く難しい。困った。でも、どおせボクには断ることなんてできないのだ。
「いつまでに集めたらいいですか」
その答えは、次にいつ会えるかと同じだ。
「一週間でできる? 約一日一つ」
休日も学校に行けと?
「じゃ、一週間後のこの位の時間にここで」
「だめ。一週間待って結果がダメでした。じゃ困るから。毎日経過報告をすること」
「毎日喫茶店じゃあ、小遣いが無くなっちゃいますよ」
「ここに来るのは、成果があった日だけでいいよ。メアド教えるから、メール送ってよ」
「えっ」
ラッキー。こんな簡単に新谷さんのメアドをゲットできるなんて。
「このメアドは仕事用だから、絶対に私用のメールは送らないこと」
見透かされていたようだ。
この後、さっきの沈黙が嘘のように会話が弾みだす。なんてことは、やっぱり無かった。ボクは、冷めて酸味が強くなってしまったコーヒーを飲み終えると、喫茶店を出る。ちなみに、マスターに口髭は無かった。