Nobody was No
欲しかったのはあの風ではなく、あの雲ではなく、あの空ではなく、この手で掌握できる小さな世界ひとつだけだった。
「いってえ…」
路地裏の、ゴミ捨て場によく似た薄暗い場所に文字通りゴミのように転がっている。空を仰いでいると、ようやく今日がいい天気だということに気づいた。
けれどあまり空は澄んでいるようには見えなくて、特に感動することもなく高い天を見上げながらしばらくどこでもないところを眺めていた。殴られた顔と蹴られた腹が痛い。
此処は、とても大きい街だった。大仰に聳え立つビルや美しく作られたブティックやサロン、成り金の集まりそうな高級志向のレストラン。大方人生の勝ち組達が集まるような高級街だった。
しかし、しかしだ。
金の集まるところに人はやってくるとはよく言ったもので、最大都市の此処で美しいのは表だけで、1度裏に入ってしまえば金に飢えた獣達がうじゃうじゃしている。
笑えるほど予想通りに、太陽を避け影に生きる者達もまた、聳えるビルに隠れ息をひそめながら、けれど確実に獲物を狙って生きていた。
凛太郎は、殴られた顔を撫で、口の端が切れて血が出ていることに気づいた。その事に酷く落胆し、まだ鈍い痛みが残る腹を撫でながらゆっくりと体を起こした。転がった拍子に飛んでいった帽子を見つけて被り直して大きく溜息をつく。
「ちぇー。どいつもこいつも、あんまり入ってねえな」
そして、隠し持っていたいくつかの財布の中身を確認して微かに笑った。中身だけ抜き取り財布を投げ捨てる。この財布は凛太郎のものではない。先ほど、凛太郎に女を寝取られたと因縁をつけて暴力を振るってきた柄の悪い連中のものだった。
ぽいぽい、とリズムよく、次々に財布を投げ捨てていく。リーダー格の男の財布にはそこそこ入っていたが、その他の連中の財布にはそれほどの額はてんで入っていなかった。
まあ、喧嘩に来るのに真面目に財布を持ってくる奴も中々いないけどな、と凛太郎は嘲笑して抜き取った財布の中身を財布や袖口、靴の裏に忍ばせよっこらせ、と立ち上がる。汚れた服を払いながら、もう1度帽子をかぶりなおした。
「さて、今晩の宿を探しに行くとするか」
ニヤリ、といやらしく口元を歪めた、その時だった。
気配を感じ凛太郎は振り返る。後ろは影。更なる裏に繋がる道に繋がる空間。そこに紛れて、誰かが立っていた。眼を凝らすより先に、するりと影から人が出てくる。
「噂通り、手癖の悪いお人やァ」
現れたのは隻眼の男。大きな体と、その眼帯の携えた強面に似合わず愛想のいい笑みを浮かべ、猫なで声で話す。
こちらを捉える片目はおおよそ人の良さそうな目つきではなく、こちらを見透かしたようないけすかない目つきをしていた。
凛太郎の数年の勘から、このにこやかな隻眼の男が"良い人"ではないということは明白だった。
ざっと隻眼の男を眺めて、それでも凛太郎は「ふうん。俺、噂になってんのか」と軽口を返す。それができたのは、ぬるりと怪しく影から現れた割に敵意を感じなかったからだ。
改めて男に向き直り、凛太郎はニヤリと笑みを返す。男はにっこりと、胡散臭い笑みを更に濃くした。
「評判でさァ。セコイ仕事をかましては、ひと夜の宿を節操なく選ぶケンカの弱い色男って」
「へえ。そりゃ酷い言われようだ。色男のとこだけ流してほしいもんだぜ」
「まあでも、ほんまにこんなケンカ弱いとは思わんかったですわァ」
「平和主義なんだよ。で、ケンカの覗きなんて悪趣味だが、俺になんか用か?」
「用って程のもんじゃありゃしまへん。ただ好奇心で。アンタに興味があっただけでさァ」
男はひとつに細く束ねた長い髪の毛先をいじりながらヘラヘラと話す。語尾が伸びる、妙な猫なで声だった。下手に出ているようだが引けを取らず、内心では馬鹿にしているような。この男は"この世界"での媚び方を良く知っている。
凛太郎は口元に形だけの笑みを残し目を細めて男を見た。男はその視線に気づいたようだが胡散臭い愛想笑いを絶やすことはなかった。
「さっきの連中、私の客なんですわ」
「……客?」
「なにワタシ、僭越ながらね、探偵をやらしてもらっとりまして。ほんであの、アンタをよう殴っとったオニイサン。あん人に頼まれまして、調べてほしいことがある言うて」
「…………あ、あーー。なるほどな。そういうことか」
「エエ、エエ。まあ、あん人は自分の女の浮気相手が誰か調べろっちゅう、それだけやってんけど。まあ調べとるうちにこりゃおもろいなあ思いまして」
「ふうん」
あまり聞いたことのない訛りで流暢に喋る隻眼の男を見て、探偵なんていう怪しい仕事がいかにも似合っている、と凛太郎は思った。
先ほどケンカ、というよりは一方的に殴ってきた男は、昨晩まで凛太郎がしょっちゅう寝床に使っていた女の恋人だった。それは凛太郎も知っていたがバレるようなヘマをしない自信があったので特に気にしていなかった。
しかしながら、探偵を雇ってまで調べるとは相当恋人に入れ込んでいたと見える。ただのチンピラの癖に一丁前に人情はあるらしい。
凛太郎は鼻で笑った。それは人が人を想う気持ちを蔑んだのではない。その入れ込んでいる恋人の本当の浮気相手は、自分ではなく他にいるということを知っているからだ。
自分は彼女と想いを通じあわせたことはないし、彼女も自分をそんな感情で見ていない。それが解っているからこそ寝床に使わせてもらっていたのだ。そんなことも調べきれないとは、腕のない探偵だ。そう思ってもう1度鼻で笑った。
「悪いが探偵さん。それで俺のところに来るのはお門違いってやつだぜ」
「エエ、エエ。ほんまに。悪いと思っとります。せやからこうして謝りにきたんやないですか」
「謝りに、ねえ」
「女の浮気相手よりも、アンタの方がおもろくって」
「……うん?」
「どんなもんか見たくなってもうて、ほんでわざとアンタが浮気相手だってウソ言うて、接近さしてもらいました」
「…は?」
「堪忍してクダサイよ、"凛太郎"サン」
不釣り合いな猫なで声で、久しぶりに呼ばれた名前は紛れもなく自分のものだった。それはこの街に来てからまだ誰にも名乗ったことのないもので。
この隻眼の男が、腕の立つ、そして警戒すべき怪しい探偵だということを、凛太郎に確信させた。