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7.雑誌編集部にて

7. 2019年12月12日(水)

 

 数学の教科書に載っていることは既に頭の中で組み立て終えた〝当たり前〟だった。因数分解も三平方も確率も。授業ではその〝過去の知識〟を教師が偉そうになぞるだけ、何の面白みもなかった。しかし、その〝特権〟も高一になると唐突に効力を失う。

 数の世界に対して持っていた絶対的な自信故に大山桂子は勉強の仕方を知らず、必然的に成績は下降線を辿った。そうして行きついたのが文Ⅲだ。今でもその選択は正しかったと思う。


「当たり前のことが教科書に載っている」――それがいつまで続くかが才能の尺度かもしれない。そして、この力は一度でも失うと取り戻すことができないのだった。


 微積のみならず、オイラーの公式や量子論さえも「なるほどね」の一言で片づけ、嬉々として解説してくれたレイちゃん。さすがに、関孝和でさえ辿りつけなかった境地に何のヒントもなく到達した、ということはないだろう。

 おそらく、彼を取り囲む現代社会という環境すべてが教材、いや、機材となり、彼の頭の中に複雑ながらも安定した建造物をわずか十四年やそこらの歳月で創り上げたのだ。半ば自動的に。


 不思議とくやしいという感情は湧いてこなかった。「物が違う」、そう受け入れられた。三十、四十代になると、一見何のつながりもない、例えば数学と歴史の間に張り巡らされた糸が見えてくる人がいる、ようだ。医者、大学教授、作家、プロ棋士。職業柄、本当にさまざまなタイプの天才と呼ばれる人物と話してきたが、確かにいた。一般人では一生かけても辿りつけない〝知の極み〟とでもいうべき頂に立った人間が。


 彼らの言葉はすべからく深く、どんな本にも書かれていない発見に満ちていた。そもそも現在遍く普及した言語では語り尽くせない代物かもしれなかった。言わずもがな、桂子に彼らの言わんとするすべてが理解できたわけではない。しかし、取材を重ねるごとに、相手の〝才〟がどれほどのものかを測る物差しは精度を上げている。

 そして同時に悟った。自分はこれからの人生のすべてを捧げてどれほど研鑽を積んでも〝向こう側〟には行けないのだと。でも、レイちゃんなら、きっと、いつか――。


「桂子さん、桂子さん? もしもーし」

「ああ、ごめん。考え事してた。なに?」

 時刻は二十二時をとうに過ぎている。

 だだっ広いフロア。PCのディスプレイが見づらいという理由で朝から下ろされたブラインドのせいで時間感覚はなく、どんよりとして何となく居心地も悪い。苔植物を育てるのには向いているかもしれない。さらに、犬猿の仲だった営業と編集の距離を〝物理的に〟近づけた結果、ただでさえ狭いオフィスは席を立つたびに後ろの椅子にぶつかる鮨詰め状態になってしまった。

 机の上には本が山積みになっており、四つの塔を建立している。おかげで向かいの席に座る人間の顔が見えない。だが、気配からわかる。残っている社員は数人だ。疲れもあってぼーっとしていたらしい。


「珍しいですね。もしかしてあの火消しさんのことでも?」

 そう言いながら、恵は隣の席に腰をおろし、椅子を近づけてくる。気分転換のための雑談、と見せかけて本命はこちらのようだ。どこか嬉しそうな表情が逆に怖い。

「ん? それは違うけど。あ、でもご飯に誘われたよ」

 わざわざ言うことでもなかったので恵には伝えていなかった。

「うえー! やっぱりー。せっかく狙ってたのに」

「あ、でも、ただ食事に行くだけだから」

 予想通り恵は机につっぷしてうなだれている。正直なのは美徳だ。たぶん。うなだれながらも上目づかいで尋ねてくる。

「いつ?」

「本当は今月の頭に、って言われたんだけど私の予定がつかなくてね。年明けになっちゃった」

「いーなー、いーなー。桂子さんばっかり。どうせ私はこれからも馬車馬のように、いえ、社畜よろしく働き続けるしかないんだわ」

 足をバタバタさせて駄々をこねる。それにしても聞き捨てられない文言があった。


「え? 恵、あんた結婚したら会社辞めたいの?」

「ったり前ですよ! こんなハードな仕事。他の業種より若干給料高くても時給換算したら激安ですよ。物好きしかやりませんよ。こんなデスマーチ」

 意外だった。だが同時に納得もいった。

「まあねー。考え方を変えないとやってけないかもね」

「どんな風に?」

「旬な人、時代の寵児、芸能人とかにバンバン会える魅力的な仕事を〝やらせてもらっている〟んだ。過酷さや給料なんて二の次だ」

 嘘ではない。得られるものは両手からこぼれるほどあった。出会いが日常になってしまって価値を測り損ねてしまっている自覚がある。

 ジャガリコを開封し箱ごと渡すと恵は両手で二本ずつ引き抜き、そのまま前歯でボリボリと粉砕、しながら喋る。


「えー! そんな殺生なー」

「または、読者の二倍の年収をもらいながら金銭テクニックや社会保障の記事なんて書いても説得力がない。まずは生活レベルから合わせていこー」

 人差し指をピンと立て、ポリポリとジャガリコを押し進めながら桂子は恵を諭す。

「本気でそんなこと思ってるんですか?」

「まさか。二十年前が羨ましいわ」

 視線を巡らせ、周囲を確認してからボリュームを下げて本音をこぼす。

「ですねー。部長クラスは漏れなく千二百万オーバー。役員もたくさんいて、御仁たちは何もせずとも余裕で二千万超えだったらしいですからね」

「今は部長になれるのも一握り。おまけにポストにはリスクはあっても」

「報酬はない」

 二人分のため息とスナック菓子に伸ばした手が重なる。


「って話逸らさないでくださいよ」

 がばっと恵が箱ごと奪って睨みつけてくる。それ、私のジャガリコ。

「え? 何だっけ?」

「カツさんですよ。どうなんですか? 実際のところ」

 逃しませんよ。その眼が強く訴える。

「わりとエキセントリックなやつだとは思う。でもそれだけ」

 前歯が汚れていないか気にしながらあくまでも現地点での本音を口にする。

「もったいないなー。まったく。あ、ところで最近、携帯の調子はどうですか?」

「うーん、相変わらず。すぐに電池が無くなっちゃう」

 そうなのだ。桂子の携帯は半日もしないうちに電池の残量が0になった。ここ数年の進歩でスマートフォンの持続性は格段に上がったというのにどうしたというのか。買い替えてから一年も経っていないというのに。

「どうしてですかね。もしかしたら、SDカードの接触が悪いのかもしれませんよ。私も前そうでしたから」

「ふーん、そうなんだ。今度調べてみるよ」

「ま、数ある可能性の一つ、ですけどね。ではー」

 

 雑談タイムは終わったとばかりに恵は自分の席に戻り、額に冷えピタを装着し、とてつもない速さでテキストを打ち始めた。ガーっという止むことのない連打は騒音というより、大雨を伴う台風のような一種の自然現象に聞こえる。

 恋愛、ね。たしかに夢中になったこともあった。同僚に嬉々として彼氏の自慢話をしたこともあったと振り返る。

 

 だが疲れたのだ。ハードワーク、ストレス、プレッシャーから多くが脱落していくこの職場に。この仕事に強い憧れと理想を胸にやってきた者が、二ヶ月もしないうちに笑わなくなり、顔色がみるみる悪くなり、病欠するようになり、ついには診断書をもってくる。メンタルケアの本を作りながら鬱になった者もいる。

――無理もない。昔は八人で作っていた雑誌を今では四人のスタッフでなんとか回している。きしむ音に耳をふさぎながら。


 疲労困憊の身体に鞭を打ち、凝縮したストレスには互いに気づかないふり。求められる力は〝鈍感力〟に他ならない。そんな環境に三年も身を置いた。自然、いわゆる女子力は低下した。まず肌が努力に応えてくれなくなった。頭の悪い男を持ち上げる心の余裕もなくなった。

 ひょっとしたらレイちゃんの存在は私にとって一種の逃げ道なのかもしれないな。





・サハラ砂漠の赤い砂が入ったワインボトル

・モンスターペアレントが描かれたタイのTシャツ

・墓石型のUSBメモリー

・月の土地を一エーカー

 いつも大きめのパーカに袖を通し、スカート姿など見たことがない。おまけに化粧にも食事にも無頓着。身体は小さいが声だけ大きい。そんなあいつから貰ったプレゼントはどれもユニークでどれも使い道がなかった。

 ルナエナジージャパンという会社から購入したという月の土地に至っては、

「最初はね。名義を私とマサル君の連名にしようと思ったの。でも、まだ結婚もしてないのに二人の不動産を持つのもどうかなー、って思って。でも、一エーカーって広いのよ。どのくらいかって? えーっとね」 


 大学に入学して間もない頃、山岳サークルで知り合い、丸二年付き合ったが、終始会うペースは月に一度にも満たなかっただろう。遠距離だったわけじゃない。気持ちが冷めていたわけでもない。彼女の放浪癖が原因だ。正に〝思い立ったら即実行〟。

 たまのバイトの休みに二人でテレビを観ながらくつろいでいたときのことだ。旅番組が映した赤々とした砂漠に目を奪われた瞬間、二人のソファーから飛び出し、携帯でチケットを予約。翌日にはモロッコへ飛んでいた。以降は事前にテレビ番組表を頭に入れ、リモコンの主導権をさりげなく握るようになったのは言わずもがな、だ。


 それこそ、いつか二人で不動産を所有しても――。そう思っていた十年前の夏、あいつは消息を絶った。場所はケニア。

「記念すべき三〇ヶ国目! ケニアの後はねー。ペルーに行くの。マチュピチュー! 太平洋じゃなくて、大西洋を越えるのよ! 日本人としては珍しいっしょ!」


 いざとなったら携帯が繋がる。そんな何の保証もない代物を信じきっていた。だが、帰国予定日から一日経っても二日経ってもあいつとは連絡がつかなかった。

 教授の講義が全く頭に入ってこなくなった三日目の昼、ついにあいつの両親から連絡があった。どうやら行方不明で大使館も必死に捜索をしているらしい。

もちろん、すぐに現地に飛んだ。しかし、ほうぼう探し回ったが何の手がかりも得られず、帰国。

 その後も何一つ彼女のためになる行動はとれず、悲しみを分け合っていたはずのあいつの両親とも会いにくくなった。自身の無力さを噛みしめながら七年が経過。戸籍の上でも、あいつは帰らぬ人、になっちまった。


――いい加減にしとけ! 文系で単位が降ってくるからって調子こいてバイトと旅行ばっかしてんじゃねえ! 俺はもっとおまえと会いてーんだよ! 

恥ずかしくても情けなくてもいい。正直に伝えるべきだった。後からどれほど後悔したことか。

 

 世間をにぎわせた今回の中学生の焼身自殺事件。その勢いは監視カメラと人権問題に飛び火するとともに、学生が抱える闇の濃さを再び浮き彫りにした。

 刑事になって五年。大きな山、小さな山にかかわらず〝これぞ〟というものにはとことん首を突っ込んだ。上には厄介者扱いする者もいるいっぽうで〝骨のあるやつ〟として買ってくれる風変わりな先輩もいた。

 

 仕事といなくなったあいつとは何の関係もねえ。だけど、ひっかかるんだよ。まだできることがある気がすんだよ。誰かが悲しみながら「見つけてくれ」って叫んでる気がすんだよ!

 

 決定的な、それこそ上層部を動かせるような証拠は何もない(それさえあれば、大山桂子の携帯やPCメールを徹底的に調べて家宅捜索までできる)。葬儀で目をつけてからは必死だった。あの女の周囲を徹底的に調べた。後輩にまで頼みこんであの女に繋がる糸を強引に手繰り寄せた。これから俺がするのは違法捜査だっていう自覚はある。だがもう止まれねーんだよ。


 携帯を操作しあの女にメールを送る。仕事を労い、何の中身も情報もない世間話を。不器用で誠実な男を演じる。


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