4.羊君
4. 【湊玲偉の記憶 2019年5月11日(土)】
飯田直哉と出会ったのは本当に偶然だった。
遡ること四ヶ月、二年時に行なわれた修学旅行で訪れた京都だった。
全体での昼食後、自由行動になった途端、笑顔で遠ざかっていく班のメンバー。そんなことに何の痛痒も感じない自分はやはりどこか異常なのだろうか。 とはいえ当初は、かすかな抵抗を持ち合わせていた。芥ほどの関心も抱けない奴らばかりとはいえ。だがしばらくして周知になってしまえば自分自身も驚くほどその快適さに慣れてしまった。
二人で新京極を巡ろうと持ちかけてくる女子もいたが耳に入ってこなかった。
何を見るでもなく、履きつぶした紫のスニーカーで三条通りをブラブラと東に向かって歩く。コーヒー店、家具店、化粧品店、服飾店の渋みがかった彩り、その高さ、隠された奥行きにこの街らしさが垣間見える。地図を眺めて首をかしげている観光客と思しき者が散見されたが、碁盤の目となったこの街は理論立てて物事を捉えられる人間にはぴったりだ。迷う気持ちがわからない。
「台本」は完成していた。ただ、上演にあたって主演のキャスティングは絶対に妥協できなかった。そのため、ここしばらくは全く進展がなかったのだ。諦観、苛立ち、そんな感情に身をあずけるしかないのかと息を一つ吐き出す。
人と車の往来の激しい河原町通りを交差点のフラワーショップを眺めながら横切ろうとしたその瞬間、奇妙な浮遊感に襲われた。踏みしめた一歩が先刻までのものとは明らかに別物だった。――視線の先に捉えたのは文字通り奇跡の個体。彼しかいない。
身長、体格、年齢、顔立ち、身にまとう雰囲気、すべてクリアしている。生まれて初めて身震いした。なんという僥倖! 見つけた! ついに!
玲偉は一つ、そしてまた一つ、小さく息を吐き、東へ向かってゆっくりと歩く少年を充分な距離を保ちながら追尾する。足音は意識するまでもなく消えている。
落ち着け。この時期、この街には腐るほど観光客というブラインドがいる。さらに幸運なことに目標は地下に下り始めた。京阪電車に乗るのだろうか。
エスカレーターではなく階段で。慎重に、しかし確実に距離をつめる。チャンスは一瞬。ターゲットである学生が財布を取り出そうとポケットへと手を伸ばした瞬間、監視カメラの死角を確かめるやいなや、普段はひた隠しにしている自分の別の一面が無意識に表出した。
その細い腕から財布を奪い取り、地上へと駆け上がる。「泥棒!」の一言さえ聞こえてこないことから相手がいかに不意をつかれたか、はたまた相当の臆病者かがわかる。おかげで首尾よくことを成せる。そう、狙いは金なんかじゃない。情報、いや、〝彼のすべて〟だった。
かすかに乱れた息を整え、財布から学生証と歯科医院のカードを取り出し携帯カメラで撮影、速やかに元に戻す。
あとは渋谷のハチ公ほどではないが、待ち合わせスポットとしての役割を果たしている土下座像とやらの前に「お返し」しておく。
カードが入っているかは運任せだったが、他はすべて想定通り。おまけに副産物として、自身の新たな才――犯行中は終始、現実感がなく、その一方で脳が高速で稼働してくれた――を自覚した。
あとは桂子がうまくやる。キーは手に入れた。数ヶ月後には世の中をあっと言わせられるだろう。
一仕事終えた後、口笛でも吹きたい気分で、鴨川沿いを歩けば、一羽のカッコウが、さらさらと小気味よい音を奏でるその川面から青々とした大文字山の稜線に沿うように飛び立っていくのが見えた。
実際、その後はスムーズそのものだった。
ますは、戦利品である学生証の情報をもとに、従姉妹の桂子と協力して徹底的に「羊君」の周囲を調べる。ここで最大の難関が待っている。どうやって彼の「口内環境」をつかむか、である。しかし、そこは雑誌記者、あの面食いがうまくやってくれた。カードの情報をもとに羊君の歯科医院を訪れ、「インプラントに力を入れている貴院を取材したい」などと嘯き、信用を得、隙を見て僕のそっくりさんのカルテを撮影。「歯科医院は他の病院に比べて管理が甘い」という読みも的中した。
そこからは玲偉も少し〝体を張った〟。当時は、羊君の杜撰な口内美化に嫌気がさしたが、それから三ヶ月、「奥歯の三本だけ磨かない生活」を続けた。
まったく――。虫歯が一本もない清潔そのものだったというのに。しかし、他のパーツは何の問題もない。うまく騙せるだろう。
その予測は現実となった。塾帰りを桂子に強襲・車で拉致された羊君は我が学び舎に直行。玲偉は遺書の郵送・ネットへのUPとグラウンドのセッティングを行なった。
念のため、数ヶ月もの間、携帯による桂子とのやり取りを断っていたため、この待ち時間が数年前にヨットで遭難したニュースキャスターもかくや、というほど長く感じられたのは今となっては懐かしい。
深い眠りについていた直哉君にはまだ仕事があった。再会した玲偉と着替えと持物を交換し、三十秒ほど苦しみ抜いた後、深い深い――。
無論、ゆっくり鑑賞する間もなく、自身の〝終の棲家〟へと向かうことを余儀なくされたが、あの「泥棒!」とさえ叫べなかった彼があれほどの……。