3.奇妙な二人暮らし
3. 2019年9月19日(水)PM9時7分
味のわりに値段が手ごろなこと、音楽と内装、インテリアの趣味が悪くないこと、そして何より半地下にあるためか「静かなこと」がこの店をリピートした理由だった。なのに……。編集長にダメ出しされた今日に限って店内は騒がしかった。ジャズがかかっているのはかろうじてわかるが曲名が思い出せないこともジリジリと苛立ちを煽った。
長く伸ばした髪を後ろでくくり、白シャツの上に黒で細身のスーツ。控え目な服装を好む彼女も靴だけはアンリークイールの赤いパンプスでささやかに主張する。
東大を出た大山桂子はマスコミにでも就職を、と勇んでリクルートスーツに袖を通したものの、折悪く就職氷河期にぶつかった。何とか中堅クラスの出版社に滑り込んだものの、待っていたのは朝から晩まで書店を回る日々。
全社員を前にした挨拶で披星戴月を宣言したが、それが現実になったのだ。「何を作るか」よりも、むしろ「どこに置くのか」のほうが大事とも言われる現在の業界において、営業の重要性は理解しているつもりだったが、華やかな世界を夢見てきた身としては正直、重い営業かばんを担いで汗水たらして笑顔を振りまきながら全国を巡る毎日は苦痛でしかなかった。
桂子はワンプレートにまとめられたディナーの三割を占めている山盛りのサラダにフォークを突き刺す。どうでもいいが、ドレッシングがかかり過ぎている。
毎年異動希望を出し続け、ようやくその願いが受け入れられ、女性誌の編集を任されたのは社会人五年目。二十八歳、立派なアラサーとなっていた。あれからさらに三年……。
記憶力と頭の回転には自信あるんだけどな。それにちょこちょこ芸能人や大学教授に会えるから退屈はしないし。けど……。
三年続けたからこそ桂子にはわかっていた。編集は自分の天職ではないと。アイディアを生み出す、という能力が決定的に欠けていて、先ほどもそれをあの黒ぶち眼鏡(編集長〈男〉)に突かれたのだった。
「大山さんが心からやってみたい企画を出してよ」「頭で考えたことじゃなくて、日ごろから気になっていることとか、友だちの悩みとか、等身大をぶつけてきてよ」
そう言われても斬新な企画なんて思いつかないし。読者の悩みなんて何一つ共感できないし。他の雑誌の企画を少しアレンジする位でいいんじゃないの? 二十代の小娘が求めていることなんてそんなにドラスティックに変わらないんだから。
就職活動期は「社会の歯車になんてなりたくない。自分にしかできない、クリエイティブな仕事がしたい」と意気込んだものだったが「そもそもクリエイティブって何? 結局どの仕事も誰かの代わりでしょ」そんな嘲りが自分の中に芽生え、根付いている。
外資系コンサル男との結婚話もあった。だが、顔がどうしても好きになれず破談。こいつのパンツを洗う、そのイメージが全くできなかった。根っからの面食いがネックになっているのだろうか。気づいたら三十路に突入しているわけだ。
まさか、私がこんな状況に陥るとはね。でもいいわ。私にはレイちゃんがいるんだから。
……それにしても、あのうるさい集団は何?
視線の先には十人ほどの中年女性の輪。その中で、あご髭をたくわえた三十歳位の彫の深いグラサン男が周囲からお金を受け取っている。ストリートパフォーマーかおのれは。
「えー、佐藤さん! こんなにいらないよ。今日は一人三千円でいいんだから」
「いいの、いいの。マサルちゃん。私が払いたいんだから。今日もとっても楽しかったわ」
「えー。でも」
「ほんの気持ちだから、ね?」
「じゃ、じゃあ。ご厚意に甘えて。でも本当に助かるよ。ありがとう。今月超ピンチだったんだ」
受けとんのかよ! ホストかテメ―は。サングラス、ストール、あご髭。桂子が嫌いな三要素を兼ねそろえた男はどうやら食事会の幹事を務めているようだ。しきりにペコペコと頭を下げながら会費を集めている。
桂子は小さなスプーンに持ち替え、デザートへと手を伸ばす。
何の集まりかはわからない。だがあのグラサン、意外と切れ者なのかもしれない。よく見るとグラサン以外にも男はいる。しかし圧倒的に冴えない上に存在感がない。失礼ながら、小さな劇団でいつも端役ばかりで頼りなく、いるかいないか分からない残念な男たち、に見える。サブキャラでずっとスポットライトの当たることのない村人A。そんな感じだ。
でもあいつが、それさえも効果的に利用し、退屈している女たちを喜ばせている食えない演出家なのだとしたら……。
にしても、もう食べ終わったってのにいつまで居座るつもり? 大学のサークル飲み会かっつーの。目的もなくダラダラと。あんたらどんだけ暇なのよ? 時間の無駄とか店への迷惑とか考えないのかな。こっちはゆっくりコーヒーを飲もうとしてるのに。
そんな思いを込めて桂子はこれまで幾多の弱き者をくじいてきた怜悧な視線を投げる。
食後のコーヒー、さらにその御代わり――学生時代では考えられなった贅沢なひと時(最近では、飲み会で疲れたときにタクシーを使ってしまうことさえある。まったく、独身貴族様ってのは偉いものだ)を邪魔され、その上、五分経っても状況はまるで動かない。いい加減腹が立ったので伝票と二千円を並べて出して会計を済ませ、店を出る。しかしタイミングが悪かった。
今度は追い打ちをかけるように、街頭テレビにチャラさを売りにした俳優が「クリスマスまで三ヶ月」だとか、「男たちよ、狩りに出よ! 決戦の日は近い」だとか聞いているだけで耳が痛くなってくる騒音を垂れ流していた。
会社がある飯田橋から地下鉄で乗り換えなしで一本。この街はオシャレな飲食店が多く、芸能人も多く住んでいるようだがどうにも水が合わない。
ったく、どいつもこいつも! ……こんなことなら本郷のマンションから引っ越すんじゃなかった。「社会人になったのだから心機一転」なんて、本当にどうかしてた。頭が固くて、プライドが高くて、おまけに服装がダサいけど、大学の連中はなんだかんだ育ちがよかった。
思い返せば、家に呼んでも、一緒にレストランに行ってもストレスが溜まるようなことはほとんどなかった。年を重ねるごとに自分なりの考え、世界の捉え方が定まってきたが、どうやらそれはその枠の外は排他・拒絶するということと同義のようだ。
「柔軟で謙虚になりたい」と「大人の女性として、自分の考えをしっかり持ちたい」の両立は難しい。お陰で周りに残ったのは「気が弱くて寛容な人間」か「自分と同じくらい攻撃的な人間」だけだ。親友と呼べる相手はいるにはいるのだが、互いに愚痴はこぼすが弱みは見せない。
ひょっとして、私が半地下の店を好むのは、外界に対するちょっとした期待とそれ以上の失望が根底にあるためかもしれない。繋がろうと思えばいつでも手を伸ばせばいい。だが、傷つき、逃げ出したいときにはすぐに首を引っ込めることができる。
勝手にグルグルと考えが浮かんでは消える。今日はやっぱり疲れてる。あのキツネ(編集長)のせいだ。いつものらりくらりとかわしやがって。今度飲みの席で一方的になじってやる。わざとこちらの地雷を踏ませてでも。
それに、認めたくないけど、ささくれ立っている。ここのところ睡眠時間が削られているせいもあるだろう。経験則から知っている。こんなときはゆっくりするしかない。今夜はもう帰って眼福にあずかろうかしら。
何がそんなにめでたいのか、チカチカと無駄にまぶしい街を抜けて我が家を目指す。
*
玲偉という名は祖父がつけた。
根っからの理系人間だった彼は高名な物理学者から一文字いただいた上に、恐れ多くも「偉」という漢字をセットにして孫に与え、生まれた直後からハードルを上げてくれた。
冷たく流れ出る水の音だけが響いている。几帳面に汚れを落とされた食器類、今度はその水分を拭き取られていく。
まー、しかし。何の発展性もない、他人の考えを我が物顔でしゃべるしか能がない文系よりも、理論の面でも、実験のフィールドにおいても、「0から1を生み出せる理系」の方が優秀というのは同意だ。
モデルルームのような銀色の滑らかさを取り戻したシンクを離れ、小さく息を吐く。ため息でロウソクの火を消すように。幼い時からの癖。
そもそも本当に価値のある思考・情報とは「上等な仮説」だけだ。どんなコメンテーターも講演会の話し手も自分では何も創造できない。目を見開き、時に唾をまきちらしながら、大げさな身ぶり手ぶりで既に誰かが提唱・確立した考えや意見を偉そうにさも自分の手柄のように話しているにすぎないんだから。
では、仮説の甲乙は何で決まるのか? それは思いついた時の「手ごたえ」だ。それは将棋の一手の価値に似ている。つまりはどれだけ深くささったのか。対面に座る人間の息が止まり、表情がみるみる変わる、その度合いが尺度になる。検証は後なのだ。重要なのは深さだ。
白を基調にしたマンションの一室で、そんな思いを巡らせていると、ガチャリと鍵が開いて家主が帰ってきた。
「お帰り桂子さん。遅くまでお疲れ様」
十数回も繰り返してきたことで、この台詞も表情も習熟度を上げていた。どんな声色が、どんな笑顔が、どれだけこの自他共に認める面食い従姉妹の心を満たすのか、玲偉には手に取るようにわかる。
「ただいまー。ちょっと聞いてよ、レイちゃーん」
ドアを二重にロックするやいなや、甘ったるい声と香で抱きついてくる彼女を 受け止め、続きを促す。彼女のほうが玲偉より少し背が高い。今はまだ。
桂子がまくし立てたのはいつもの会社のグチや恋バナ、ではなく、飲食店の出来事だった。彼女の話は論理的で無駄がないが、人の好き嫌いが激しく早口なのが玉に瑕だ。
「ねえ、どう思う? もし、レイちゃんが私の立場でもイライラするでしょ?」
しばし黙考してから口を開く。
「うーん。何の参考にもならないのを前提に聞いてね。あくまで僕の場合は、だけど」
時に前置きは大事だ。エクスキューズとしての役割を担いながら、持論を述べる際の「間」を与えてくれる。
「うん」
「周囲の条件や経験則っていう〝情報〟をもとに自分が導きだした〝論理的帰結〟が裏切られることは何より耐えがたいことなんだ。たとえ、思いがけない幸運の結果、物事が好転したとしても」
三秒。いや、もっと短い時間。三本脚のスツールに浅く腰かけ、気だるげに視線を下げてから桂子は話しだした。
「……なるほど。つまり〈おばさんたちが若い男と楽しそうに談笑〉〈店のランク・雰囲気・混み具合〉〈その若いグラサン男の態度。お金のやりとり〉。これらを総合すると、おばさんたちは少しでも長くグラサンと一緒に過ごしたいだろうし、グラサンも一人でも多くのおばさんに媚を売って次に繋げたい。両者の利害が一致するわけだ。おまけに店からの邪魔も入らない。だから〈食後もダラダラ居座ること〉が簡単に予想される」
「そゆこと。もうわかっていると思うけど、これは〝いつも最悪の事態を想定する〟とも違うんだよ。僕は精度を高めるために絶えず可能な限り多くの判断材料を収集し、そこから考えうる数ある可能性の中から最も起こりやすい事象を選択して備えているんだ。だから論理の破綻を意味する想定外のラッキーなんて望まない」
「ふーん。それってある種、損な生き方よね。予想を裏切って早く帰ってくれてもイライラするし、せっかく予想が的中しても、ダラダラと長居されるんだから」
あっけらかんとしながらもこちらの即興の答えに満足いったらしい。桂子の口元には薄く笑みが浮かんでいる。
「その通り。さすが桂子さん」
一般的に愚痴、悩みを打ち明けられた際の対処は〝聞き一辺倒〟でかまわないと思う。心配していますよ。あなたの気持ち、わかりますよ。大変ですね。それだけで充分なのだろう。しかし、桂子はもう少し欲深い。それは多分、いいことなのだろう。
「まあ、でも私ほど腹を立てなくてすみそうね。レイちゃんならかなりの正確さで未来予想ができそうだし、そもそもお店もちゃんと選ぶでしょうから」
ただ、その貪欲さそのものを評価することも忘れてはならないのだ。
「外すこともあるけどね。でもさすが桂子さん。仕事終わりで疲れてるはずなのに頭の回転が相変わらず早い」
言葉に嘘はなかった。やはり会話をする相手はこれぐらい頭が良い人間に限る。
観葉植物の横に陣取っているボックスを組み合わせるタイプの本棚に目を向ける。縦と横、バラバラに敷き詰められたそれらは全て読んでしまった。
薄い上に内容まで浅い本なんかに見られる「手を替え品を替えながら繰り返される説明」、あんなものはうんざりだ。言葉を選んで一度説明してくれれば、一定レベルの頭をもった人間ならば理解できるし、議論も発展させていけるというのに。
しかし幸か不幸か、そこまでしないと会話が成り立たない相手と話す機会など、もう玲偉にはないかもしれなかった。
「あ、またレイちゃんのことテレビでやってるよ。こりゃ年末まで続くかな」
今夜も特番で「事件」が報じられていた。なんでも、クラスの担任である柴崎が神経症からの退院早々、不謹慎なことを口にしたらしい。
「ここまで続くとは僕も計算外だよ」
「またまたー。本当に末恐ろしい子よ、君は」
いじめの事実には薄々気づいていた、そう口にした柴崎は無数のマイクとフラッシュと非難の声を向けられ見る見るうちに白くなっていく。その顔色の変遷は、美しい海岸のなめらかな岸壁に訪れた夜明けを想起させた。この状態を一分でも続ければ病院へとんぼ返りすることになりそうだ。
「僕なんてそんな対したもんじゃないよ。そもそも戸籍も消えてしまった人間なんだから。でも、ありがとう」
「本音なんだけどなー。どんな大人になるのか桂子姉さん、楽しみ」
姉さん、桂子姉さん。五年以上前、たしかにそう声をかけていた。親しみと羨望を込めて。それが不意に呼び起こされ、かすかに戸惑う。桂子は確信犯だ。こちらの動揺をなめるように斜め上から眺める。
だが、かまわなかった。こういう心理戦では向こうが上、それでいい。喜んでくれるならそれも大いにけっこうなんだ。
「……今日、他にも何かあった? 一見、元気そうに見えるけど、ちょっと元気がないような。気のせいかな? でも、明日も早いんでしょ? 遅くならないうちに寝たほうがいいよ」
「なんでわかるのー!? やっぱり天才ー。読心術の才能まで持たなくていいのよ」
そう言いながら、パタパタと化粧を落とす準備に取りかかっている。
「でも、これだからレイちゃん好きー。嫌味な編集長にも見習ってほしいくらい。じゃ、お言葉に甘えて寝まーす」
鼻歌でも歌いだしそうな満面の笑み。
――そりゃ気づくさ。こっちにとっては文字通り、死活問題なんだから。
視線を上へと向ける。高い天井だ。シーリングファンが静かに回っている。都心にある会社から二十分という立地でこの間取り。こっそり盗み見た給与明細が頭をよぎる。斜陽産業と言われて久しいが、それなりの収入を得ているようだった。
この奇妙な二人暮らしを始めてから二週間が経過していた。