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1.焼身自殺

 1. 2019年9月5日(水)AM8時33分


 小林(こばやし)陸夫(りくお)はイライラしていた。

 誰も利用しない古びたビデオ店、低い塀に挟まれた細い路地、薄ぼんやりと煤けたいつもの駅、その改札、眠くけだるそうなサラリーマン、無表情に携帯を操作するOL、二度続いた駆け込み乗車、警告するアナウンス、雑談に余念がない女学生、小学生の集団登校、全てが障った。

 登校後だって大差ない。海外旅行話を講じる金持ち、化粧を覚えスカート丈をあからさまに短くした女生徒、夏期講習の愚痴を垂れ流すガリ勉、全てがノイズでしかなかった。


 朝のホームルーム。窓際の一番後ろの席から空を見やれば、ぽっかりと開けた何もない空間から容赦ない日差しが二階の四角い枠に降り注いでくる。鳴りやまない蝉の声には木々を一本残らず切り倒してプールに沈めるイメージが浮かぶ。自身の伸ばしたえりあしさえも神経を逆なでしていた。これらがセットでなんら変わらない、退屈で漫然と過ぎていくだけのくだらない日常だ。


 ガン、ガン、ガン。視線は窓の外に向けたまま、両手を学ランのズボンのポケットにつっこみ、椅子に寄りかかりながら、膝で机を突き上げる。何度も、何度も。担任の柴崎の連絡事項など聞きたくもなかった。これはクラスメイトの総意のはずだ。は、や、く、お、わ、れ。


 陸夫は知っていた。誰であろうと容赦なく、相手が動けなくなるまで暴力をふるうことこそが――自分を危険極まりない人間であると誇示することが、最大の自衛になると。結果、周囲が彼を見る目にはいつも警戒と恐れがブレンドされた。

陸夫は知らなかった。内からわき出る不快の原因も、自分の感情の澱をいっさい濾さずに表に出せる期間が人生においていかに短いかということも。


 ゆっくりと首を一八〇度、教室を見渡す。どのクラスメイトもまだ休み明けモードだ。あくびをしている男子、携帯をいじっている女子、眠そうに目を閉じながらぽりぽりと頭をかいている奴が散見される。


 そこでふと斜め後ろの空席に気づく。暴力のはけ口がまだ来ていない。

 湊玲偉。学校一の秀才、というより大抵の教師よりも知能は上に思えた。成績が良いという次元の話ではなく(もちろん、ペーパーテストも学年一なのだが)、思考の〝質〟が根本から違う。いや、そんな気がする。

 奥行きのあるレイの頭の引き出しは整理され、必要な物をまるで予め用意されていたかのように手早く取り出せる。その上、通常の人間は持ち合わせていない「段」があるようだった。その段には自分では測れない何か異質な物が入っている、そんな気がした。

 だが、レイはひけらかさない。誇示することに価値を見出さない。いつも冷めた目で周囲を見つめ、誰に対してもひとかけらの関心も寄せない。少なくとも、陸夫にはそう見えた。


 「情報と呼べるのは上等な仮説だけ」

 レイの持論だ。言葉の真意は分からない。しかし、それを口にする表情からは蔑みがにじんでいた。

 痩せすぎと言って差し支えないほど線が細く、手足なんて白鷺などの鳥類を想起させる。眉まで細い。給食には手もつけない。人とも必要最低限しか関わらない。だがその整った中性的な顔立ちは女子を惹きつけ、一階の下級生を上階のこの教室まで運ばせた。そんな場面でレイがふと見せるあくび(口に手を当ててどこかきどってやがるんだ)やため息なんかで嬌声が上がる。

 いくら殴っても冷笑を向けるだけ。加害者にも傍観者にも、同情する者にも。殺意が芽生え、いつか踏み越えてしまう日が来るかもしれない。


 共にレイに暴力を振るっている学年一背が高い佐久間(さくま)(しゅん)も午前はさぼると言っていたことを思い出し、思わず舌打ちが出る。今日は最悪でサイテーだ。


 二階の窓からは広さ以外何の取り柄がないグラウンドと、高い建物一つないのっぺりとした街並みが見渡せる。進学校でも底辺校でもないただの地方の公立の当たり前がここにある。だが、ほんの数時間後、○○県立□□中学は全国一の有名校になる。


 奇しくも最初に異変に気付いたのは陸夫だった。数十メートル先、野球部のマウンドあたり。何かいる。――燃えている? 眠気が遠ざかり、目が離せなくなった。その「炎の物体」がゆっくりと近づいてくる。

 その段になってようやく理解する。燃えているのが人間だという事態の異常さを。興味本位から動画サイトで見たチベット尼僧のそれとは全くの別物。昔読んだ広島を舞台にした漫画。その凄惨なシーンがよぎった。近づいてくる。這いつくばりながら。そのぼこぼことした輪郭の赤黒い熱を纏いながら。黒い軌跡を描きながら。


 ――離れていて、よかった。

 陸夫の頭に最初に浮かんだ言葉である。まだどこか現実感はない。だが、それでもやはり、至近距離で見ようものならもっとグロテスクだったに違いない。口元が動いているようにも見えるがこの距離だ。もちろん聞き取れるわけもない。つまり、耳には残らない。大丈夫だ。俺はびびってない。

 だが、その間も腕を伸ばしながら確実に黒い軌跡は迫ってくる。そこには執念めいた何かを感じずにはいられない。そして、信じられないことに、その眼が、こっちを、向いた? 俺に、向かって――? 


 生気を失いどろんとした眼。それが連想させたのは焼き魚の調理。眼の周囲に白い点がいくつも浮き上がっては小刻みに振動、水晶体を濁らせていく。ぽつぽつ、ぽっぽっぽっと淵に湧いた気泡で眼球がぐらぐらと浮き上がってくる。


 少なくとも五〇メートルは離れていた。グランドに這う者の視線の先など到底分かるはずもない。だが冷静さを失った陸夫の眼にはたしかにそう見えた。


 ――あああっ!! 

 気がついたら椅子から落下していた。無様に尻もちをついてから先ほどの情けない声の発信源が自分であることに思い至る。ぴりぴりと痙攣した左の人差し指の先を見やれば、白く変色した箇所がじわじわとその領域を広げつつあった。


 ここで第二発見者が現れる。陸夫の尋常でない様子から何かを感じ取ったのか、前の席に座る福原真奈美の首がぴくりと動きゆっくりと横に向いた。短い沈黙の後――切りそろえた前髪がふわりと揺れて、悲鳴が上がった。

 キャー、だとかワー、ウワーなどというものではない。ただ、ひたすらに金切り声。まるで硬度の高い物質を耳元で無理やり削り合わせたような不協和音が響き渡り、伝播、増幅した。


 多くの生徒は窓際まで駆け寄った後、口元を押さえて後ずさりした。何人かは自らの肩を抱いてぶるぶると震え、また何人かは机に手をついて嘔吐、無意味にもかかわらず携帯を操作し始めた生徒もいた。机が激しく移動しぶつかりあい、椅子が倒れ、あちこちでぐわんぐわんと耳障りな音を奏でた。教室の扉は我先にと逃げ出す者たちで溢れている。誰もが自分のことだけだった。

 その脇で、カリスマ性など微塵も持ちあわせていない担任の柴崎はオブジェと化していた。


 刻一刻と地獄絵図は描かれていく。現象は瞬く間に隣のクラスに、そして学校全体を駆け巡り、耳を覆いたくなるような大音声が蒸し返すような日差しにその身を晒した校舎を揺るがした。


 しかし、そんな中、陸夫は確かに聞いた。ボリュームはきっと大きくない。だが、クラスの阿鼻叫喚とは根本から異なる、もっと深いところからの呪詛。一生耳から消えてくれない。まるでドロドロと崩れ落ちる『風の谷のナウシカ』の巨神兵、それが発した断末魔――骨から震わせる「彼」の咆哮を。

 しかし、同時に陸夫は聞き逃していた。無理もない。消え入りそうな小さな声。艶のある赤々とした唇に表れたのはかすかな震えだけ。眼を充血させ、床に手をつきガタガタと痙攣する福原真奈美の呟き。彼女はたしかにこう言った。


「み、な、と、くん?」――


 

 二十分後に救急車が、ほぼ同時に警察が到着。一時間後にはマスコミのヘリが上空を旋回していた。そして、三時間後、陸夫は世間と断絶された施設の中にいた。

 


 コンクリートの打ちっぱなしの壁をじっと睨みながら、考えをまとめようとするが、うまくいかない。座り心地の悪い黒いソファーのせいかもしれないし、年代物のエアコンの音ばかりが唸るように響いていたからかもしれない。

 有無を言わさず車で連れて来られたこの場所にはセキュリティ以外、何もなかった。そんな足場も平衡感覚も欠落した、自身が焦っているか冷静に物事を認識できているかどうかも分からない状態でいる陸夫に、同情と呆れと諦めが混ざり合った声がかけられる。


「小林君、よく聞いてくれ。今後、君の学校や君自身、さらには親御さんや親戚にまで影響があるかもしれない。こちらとしても、これからどんなことが起こるかまるで想像がつかない。ただ一つ言えるのは、君と佐久間君は少なくともしばらくの間、我々が用意した施設で身を隠さなければいけないってことだ。親御さんと連絡がとれ次第、すぐにでも家に着替えと荷物を取りに帰るんだ」

「ちょっと待ってくれよ。一体何の冗談? 何で親に連絡なんてとらないといけねーんだよ? アホらしい! もう学校に戻るんでいいすか?」


 黒いスーツを身につけた、いかにも隙のなさそうな物腰の男から返ってきた口調は思いの外、強かった。

「少し落ち着け! そもそもしばらくの間、生徒は学校に入れないんだ。君だってわかってるんだろう? ……正直、こっちだって混乱している。何から手をつけていいのか会議で揉めに揉めている。ただ、上は大至急と言っている。それだけあの遺書は強力なんだ。あくまで君のためを思ってこうして話しているんだぞ。それくらいわかってくれ」


 ……イライラを通り越していた。施設に缶詰め? 身を隠す? レイの自殺? 遺書? こいつは何を言ってやがる?


 思考が顔に出ていたのか、眼前に座る短く髪を刈り込んだ三十代前半と思しき刑事は頭をかきながら重たいため息をついてつぶやいた。

「お前の携帯、見てみろよ」

 さっきからバイブが鳴りっぱなしだってことには気づいていた。しかし、話を飲み込むことに必死だったので無視していた。いや、目をそらしていただけかもしれない。


――ディスプレイを見て、戦慄する。これは〝あの呪詛〟が招いたとでもいうのか。


 表示されたのは非通知や公衆電話からの着信が三七五件。留守電にも一三五件のメッセージ。そして正に今、新しい呼びかけに応じて振動が始まった。

 残された声を聞くまでもない。思わず握力がゼロになり、カツンと無機質な音が響く。それらが、善意の断罪であることを理解できる程度には、彼も年を重ねていたのだ。



 九月五日、○○県立□□中学校のグランドで焼身自殺が起こり、学校周辺は瞬く間にパニックに陥った。遺体は損傷がひどかったが、現場近くに残された財布と学生証、さらには歯の治療経歴まで一致したため、○○県立□□中学校二年、湊玲偉のものと確定した。


 同日、彼が残した遺書が数多くの学校、地方自治体、メディアに郵送、さらには無数のホームページに投稿・流布されていたことが判明。メディアの注目を集め、いじめ問題と共に「学校への監視カメラの設置」が議論されることになった。


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