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坊ちゃんと呼ばれた僕

作者: ハルト

「坊ちゃん、起きてください」

 僕はいつものようにその言葉に起こされる。目を擦りながら起き上がると、ベッドの脇に一人の女が立っていた。

 ややきつめの印象を与える翡翠の瞳。愛想のない唇。肩先で揺れる黒髪。……エミリー・ムーンはあいかわらず可愛いげがなかった。

「……坊ちゃんって言うな」

 僕は大きなベッドから這い下りる。その先でエミリーが寝起きの一杯(水)を僕に渡した。

「坊ちゃんは坊ちゃんです」

「だから。いい加減その呼び方やめてくれよ!」

「嫌です」

「僕はもう二十二だぞ!?」

「坊ちゃんは坊ちゃんです。お歳は関係ありません」

 エミリー・ムーンはメイドだ。僕の父に雇われた身で、特に僕の身の回りの世話をしている。

 紺のメイド服を身に纏ったエミリーは大人っぽく見える。でも僕より四つも年下だ。

 メイドだし年下だし、なのにエミリーは度々僕の命令を無視する。ためらいもなく「嫌です」と言ってのける胆の座った女なのである。

 とはいえエミリーとは十年以上の付き合いだ。いまさら彼女の凝り固まってしまった残念な性格を矯正する気も気力もない。小うるさいが言ってることは正論だし、それほど害があるわけでもない。

 僕はふと部屋の時計に目をやった。時計の針はすでに屋敷を出て学校にいかねばならない時間を刺していた。

 僕は大学に行っている。そして一限目の講義に遅れそうだった。

「な、なんで起こしてくれなかったんだ!」

「……私は半刻以上坊ちゃんに声を掛けておりましたよ」

 じっと僕を見つめるエミリーに言葉を詰まらせた。僕は朝がとても苦手なのだ。

 慌てて僕はいつものようにエミリーに手伝ってもらって着替えを済ます。エミリーが僕の胸のタイを結んだ。

 それが終わると僕は慌てて部屋を飛び出した。

 大きな階段を駆け下り玄関ホールを走り抜ける。そこにある大きな振り子時計を見ていらいらと舌打ちをする。

「坊ちゃん、朝食は」

 慌てて玄関扉を出ようとした僕を、後ろから一生懸命付いて来ていたエミリーが咎める。

「食べてる暇なんてない!」

 僕は玄関口に立っていた執事から教科書が入った鞄を受け取る。

「朝食を食べないと昼までもちませんよ」

「時間ないって言ってるだろうが!」

 使用人たちが頭を下げ僕を見送る。僕は外に用意されていたべっこう色の馬車に乗りこんだ。

「坊ちゃん」

 馬車の扉の前でエミリーが僕を見上げた。部屋を出てからずっと持っていたらしい青い包みを僕に手渡す。

「大学に行かれるまでの間に召し上がってください」

 エミリーが馬車から離れると、使用人たちの先頭に居た執事が馬車の扉を閉めた。




 青い包みの中は簡単な朝食だった。レーズン入りのスコーンだったのはたぶんエミリーの嫌がらせだ。僕はレーズンが、“くそったれ”なくらい嫌いだ。

 多分、「遅刻しそうなのは貴方のせいですよ」とでも言いたいのだろう。残すのは悔しかったので唾でレーズンを飲み込んだ。

 結局馬車をとばしたおかげか、講義の十分前には大学に着くことができた。僕が講義室に入ると鮮やかな赤髪を金糸のリボンでひとつに纏めた男が声をかけてくる。

「よお、オルト。おはよう」

「アランベールか」

 僕は鞄から教科書や筆記具を取り出しながら相手をする。

「聞いてくれよ、実はさ」

「お前の女の話なんて聞きたくもないぞ」

 アランベールは大仰に肩をすくめて見せた。

「まだ何も言ってないじゃないか」

「じゃあ女の話じゃないんだな」

「……ちぇ」

 アランベールが隣の席に座った。

「もっと有意義な会話をしろよ」

「有意義な話ってなんだよ。友と語らうのに利益不利益考えなければならんとは……ってそうそう!」

 アランベールがぱっと顔を輝かせた。

「昨日、美術館でデートしてたんだけどさ!」

「だから女の話は……」

「女ってもお前に関係ある女の話だぜ? エミリーちゃんだよ。お前んちメイドの」

「は? エミリー?」

 僕が隣を見ると、アランベールがにやりと笑った。

「そう、エミリーちゃん。彼女がさ、美術館に居たんだよ」

 そういえば、昨日エミリーは非番だった。美術館に居ても可笑しくないだろう。

「ふーん。エミリーって絵に興味あったんだ」

「いやぁ、興味って言うかなんていうか……」

 なぜかアランベールは含みを持たせた。

「……なんだよ」

 そこへ、言語学の教授が教室に入ってきた。

 僕は慌てて視線を教壇に向ける。

「若い男といたぜ。仲良さそうにな」

 アランベールの声が耳に響いた。

 男。

 エミリーが男と。

 美術館に?

 一緒に?

 あの堅物メイドと若い男が美術館に一緒に居た?

 僕は数回深呼吸をした。

 つまりは、

「デート!?」

 思わず立ち上がった僕に、驚きの視線が集まった。

「ど、どうかしたかね」

 教授が目を丸くして僕に問いかけた。

 僕は全身が熱くなるのを感じた。

「な、なんでもありません! 申し訳ありません!」

 慌てて着席する。隣では笑いを押し殺したアランベールが机につっぷしていた。




「でさ、こう若い男の腕に手を掛けて、一緒に絵画見て回ってたの。俺、思わず後追いかけちゃってさ。いやいや流石に声までは掛けなかったけど。そしたらデートしてた子が怒っちゃってさぁ……」

 大学の昼休み。僕とアランベールは学食で食事を取っていた。

 学食は、王宮でも腕を振るっていたと言う料理人が手を込んだ食事を作ってくれるため非常に評判が良い。僕はそこのランチに舌鼓を打ちながらアランベールの話を聞いていた。

「……エミリーがデートだなんて……見間違いじゃない?」

 僕は確認のためにアランベールに訊いた。

「俺だって結構エミリーちゃんに会ってるし、間違えるわけないって。それにエミリーちゃん十八歳でしょ? デートくらいするって」

「いや……でもエミリーだよ? 仕事一筋! って感じのメイドだし、真面目だし、今まで男の気配とか全くなかったし」

「そりゃあエミリーちゃんの性格上、仕事でそういう男がいるなんて雰囲気出すような子じゃないでしょ」

 まぁ、それはそうだ。エミリーなら結婚してようが子供がいようが、態度は変わらないだろう。

「でもさ、デートじゃなくて相手は親戚っていう可能性も……」

 アランベールはスープに目を落としながら口端を持ち上げた。

「なに、デートだって認めたくないの?」

「は?」

「エミリーちゃんに男がいるなんて、認めたくないの?」

 僕は何度か瞬きをした。

「いや、別に、そんなのエミリーの勝手だし……」

 そうだ。別にエミリーがどこのどいつとデートしようが僕には関係ない。

 全くもって、関係ないんだ。




 屋敷に戻った僕は、自室で機会をうかがっていた。

「……あのさぁ、エミリー」

 花の水の入れ替えをしていたエミリーに、僕はそう声を掛けた。

 エミリーは手を止めて僕の傍に寄った。

「なんでございましょうか」

 そうだ、僕には関係ないことなんだ。訊いたってしょうがない。

 関係ない。

「エミリー、昨日美術館でデートしたんだって?」

 ……関係ないけど、やっぱり気になる。

 エミリーは少しだけ目を見開いた。それだけで、僕が訊いたことは本当のことだと分かった。

「……そうですね。知り合いの方と美術館に行きました」

「ふーん? エミリーがデートなんて意外だな」

 エミリーは珍しく僕から一瞬目線を逸らした。いつもはまっすぐ僕を見るのに。

「私は……私がそのようなことをすることは、可笑しいでしょうか」

 エミリーが僕を見上げてそう訊ねた。翡翠の瞳が僕に問いかけていた。

「可笑しくなんか……。ただ、君からそういう話を聞いたことなかったし……」

 エミリーは僕に背を向けた。

「坊ちゃん。私は坊ちゃんのことを、よく存じております」

 大きな窓から注ぐ光のせいで、エミリーの白いエプロンがとても眩しい。

「レーズンがお嫌いで。朝が苦手で。口は達者ですが肝心なところで失敗して、落ち込むと一週間は引きずりますし、短気ですし。そのお年で子供っぽいところがありますし」

 さすがエミリー・ムーン。僕に対して容赦がない。

「でも、私たち使用人のことを大事にしてくださっていること。嫌なことを放り出しても、でも最後には必ずやり遂げること。前向きなところ。よく……存じ上げております」

 エミリーは振り返った。

「でも、坊ちゃんは私のこと、本当の私のこと、ご存じないでしょう」

 なぜだろう。無表情のエミリーが僕には泣いているように見えた。

「失礼いたします」

 頭を下げて、エミリーは退室した。




「坊ちゃん」

 呼ばれて、僕は慌てて立ち上がった。

 目の前にはアランベールが居た。僕は大学の談話室に居た。

「いきなり立ち上がるなよ。吃驚しただろうが」

「お前こそ坊ちゃんとか言うなよ。気持ち悪いな」

「だって俺が声掛けても全然反応してくれないし。それに『坊ちゃん』くらいいいだろ」

「嫌だね」

 アランベールは何かにひらめいたようだった。

「ああ、『坊ちゃん』って呼ばれたい人は一人だけってわけか」

 一人だけ――僕には黒髪の女が脳裏をよぎった。

「別に、そういうわけじゃ……」

 なぜ、あの時エミリーは泣きそうな顔をしたんだろう。

 僕にはそれが分からなかった。

 そして不思議なことに分からないことがくやしい、と思った。

 そもそも、エミリーのことはこれでも分かっているつもりだった。十年以上一緒にいたのだ。傍にいたのだ。

 真面目で、仕事一筋で、無表情で、厳しくて、几帳面で、僕にいつも正論しか言わない女だ。

 でも子供や動物が好きで、そういうとき、ふっと目元が和らぐこと。なんでもこなすメイドのくせに、裁縫だけはからっきしダメなところ。蜘蛛が苦手でそういうとき、僕の後ろに隠れること。ダージリンを好んで飲むこと。

 知らないわけないじゃないか。ずっと、一緒に居て、僕は幼馴染だと思っているのに。

「なんだよ、ふてくされたような顔しやがって」

「気のせいだよ。それより、アランベールは今から乗馬か?」

 黒と白の乗馬服に身に纏ったアランベールは頷いた。

「ご覧の通り」

「そういえばお前この間の大会で優勝したんだっけな」

「まぁな! あまりに俺がすばらしいんで今や馬上の貴公子って呼ばれてるんだぜ」

「ふーん」

 アランベールの渾名などどうでもいい。しかし、乗馬が上手なことは憧れる。僕も一応乗馬はできるが、人並み程度に走らせるくらいだ。それに比べアランベールは障害物なども楽に馬で越えられる技術がある。

「そういや、この間のエミリーちゃんのデート、本当だったのか?」

「あ、ああ。みたいだよ」

「それで? お前は良いの?」

「えっ」

 アランベールは笑っていた。

「あ、俺もう行かないと」

 白い手袋をひらひらとさせてアランベールは談話室を出て行った。

 僕は、少しの間扉を見つめていた。



 大学からの馬車での帰り道。僕はぼーっとしていた。

 車窓からは、遠くの方で煙を上げて走っている赤い蒸気機関車が見えた。

 この街にも蒸気機関車が走りだしてからそれ程経っていない。しかし、今や僕たちの生活に欠かせない足となっていた。

 僕は釣りが好きなので、近くに湖畔がある郊外の別荘に遊びに行くため何度も乗車していた。出来ればもう少し蒸気機関車のスピードが上がって、行き来に時間が掛からなくなればと思っている。

 そういえば、僕が十八の時に、エミリーをつれて別荘に行ったことがあった。その時、初めて乗った蒸気機関車にエミリーはとてもはしゃいでいた。

 もちろんエミリーは昔から表情を表に出す子ではなかったけれど、僕にはとても喜んでいるのが分かった。

 身を固くしたエミリーは睨みつけるように窓の外を見つめていた。それでも、翡翠の瞳が輝いていたのをよく覚えている。

 やがて馬車は屋敷の前で停止した。

「お帰りなさいませ」

 執事と、そしてエミリーが僕を迎える。

 僕はエミリーの様子が可笑しいことに気が付いた。表情が暗かったのだ。

 鞄を執事に渡した僕とエミリーは自室に一緒に入った。

 脱いだジャケットをエミリーに渡したとき、彼女は僕を一切見なかった。

 僕はどうしたのか訊こうと思った。

 でも、なぜだろう。訊いてはいけない、訊かないほうが良いような気がした。

 僕は課題のレポートを済ませようと机の前に座った。

 羽ペンをインク壷につっこみ、さてどうしたものかと思案する。

 エミリーはジャケットをブラッシングしている。

 部屋には毛が跳ねる音と、ペンが滑る音が響いた。

「坊ちゃん」

 エミリーが細い声で僕を呼んだ。十年以上の付き合いの中で初めて聞いた弱々しい声だった。

「私、結婚します」

 紙を飛び出した黒いインクの筋が綺麗な机上を汚した。

 エミリーが言った言葉を頭の中で反芻する。

 結婚。

 エミリーが、結婚――。

「……おめでとう」

 顔を上げた僕から出た第一声は、祝いの言葉だった。

 でも、祝福の言葉にしては心が籠っていなかった。

 エミリーは僕の目の前に居た。いつものように、美しく頭を下げた。

「ありがとうございます」

「エミリーが……結婚するとは思わなかった」

「……私自身、こんなに早く結婚するとは思いませんでした」

 メイドの身とはいえ女性で十八歳なら結婚適齢期だ。少なくとも結婚する歳として早いということはない。それでも僕も彼女と同じ思いだった。

「デートもしてたんだろ? もっと早く僕に言ってくれれば良いのに」

 エミリーはさっと目を伏せた。

「結婚は……父の薦めです。相手の方に会ったのも先月が初めてです」

 僕は驚きに目を見張った。

 親の薦めや決定で会ったばかりや会ったこともない男と結婚する女性は少なくない。ただエミリーがそれに該当するとは思いもよらなかったのだ。

「相手の人はどうなんだ?」

「誠実そうで良さそうな人柄の方でした」

「……好きなの?」

 エミリーは顔を強張らせた。それが返事の全てだったに違いない。

「好きになれるよう努力します」

 『夫婦は愛より慣れ』だと聞いたことがあるが、好きと嫌いをはっきりとさせるエミリーには似合わない言葉だと思った。親の薦めだからと言ってエミリーが結婚を承諾したなんて信じられない。

「エミリー、もしかして相手の人に脅されてるとか、そういうことじゃないよね?」

 そう僕が訊くと、エミリーはじっくりと見つめ返してきた。

「脅されて結婚しろ、とか言われてるとか」

「違いますよ」

 エミリーが口元を緩めた。彼女が笑うところを見るのは久しぶりで、その笑顔が見られてちょっと嬉しかった。でも笑われたのは腹が立った。

「……私、出来る限りこのお屋敷で働きたかったです」

 エミリーが窓の外に顔を向けた。僕の部屋からは中庭が見える。

「でも母の病気が芳しくなくて……。もしかしたらあまり長生きできないかもしれないとお医者様に言われました」

 エミリーは俯いた。

「わたし、小さい頃母と約束したんです。大きくなったら花嫁姿を見せてあげるって。母が倒れてから急に思いだしたんです、その約束」

 部屋は静かだった。

「仕事が楽しくて結婚はまだいいと思っていました。でも母に花嫁姿を見てもらえないって思ったら……。私、どうしても母に自分の花嫁姿を見てもらいたいんです」

「……だから、結婚するの?」

「最低な女、ですよね……」

「エミリー」

 エミリー・ムーンは立ち上がった僕を見上げた。この時、僕はエミリーはこんなにも小さかったのか、と思った。

「今まで本当に……ありがとうございました。坊ちゃん」

 僕は苦しくて、胸を押さえずにはいられなかった。



 エミリー・ムーンの結婚の話はすぐに屋敷に広まった。

 彼女は、数週間後に生家に戻ることになっていた。その後、挙式を上げるとのことだった。

 いなくなってしまうエミリーの代わりに、僕には新しい従者が付くことになった。

 だから、エミリーが結婚を告げた日から僕たちはまともに言葉を交わしていなかった。

 話そうと思えば、できた。

 廊下でエミリーを捕まえればできた。

 でも、僕にはそれが出来なかった。

 「おめでとう」以上に、何を言えばいいか分からなかった。

 はじめは、あの小うるさいメイドがいなくなって清々すると思った。

 でもふとした瞬間にエミリーを呼ぼうとして、でももう傍には居ないと分かったとき、清々なんかしなかった。

 そして、呆気なくエミリーとの別れの日が訪れた。

 屋敷の門の前で、エミリーは多くの使用人たちに囲まれた。中には泣き出すメイドさえ居た。そのメイドの背中を、エミリーは優しくさすっていた。

 僕はその塊から離れたところでエミリーを見ていた。

 若草色の衣服を身に纏ったエミリー。僕が彼女の私服を見ることは、ほとんどなかった。

 エミリーとの本当の別れの時がきた。

 彼女は使用人たちから離れ、僕の前に来た。

「坊ちゃん。こうして坊ちゃんとお話ができるのも最後でございますね」

「……またこっちに寄ることがあったら馬車でも貸してあげるよ」

「ありがとうございます」

 エミリーは両手を胸に当てた。

「オルト様」

 ああ、と僕は思った。

「いままで、たくさんの暖かい気持ちを、ありがとうございました」

 そして、エミリーは僕たちに見送られ、長いときを過ごした屋敷を離れた。

 僕は、もう「坊ちゃん」と呼ばれることはないのだと、痛感した。




 使用人たちを仕事に戻し、一人でどれくらい屋敷の外に居ただろうか。

 門の外からすごい速さで馬が駆けてくることに気が付いた。

 その馬は僕にぶつかる直前で停止した。

「オルト!」

 馬上にいたのはアランベールだった。その顔はいつも飄々としている彼にしては険しかった。

「お前はなにしてるんだよ!」

 僕はなぜアランベールに怒られたか分からなかった。

「エミリーちゃんが今日帰郷するって聞いたのに、なんでお前がここに居るんだよ!」

「なんでって……」

「お前、エミリーちゃんを引き止めなかったのか!?」

 僕は混乱した。

「なんで僕がエミリーを引き止めなきゃいけないんだよ」

 アランベールは眉間に皺を作ると馬から下りて、勢い良く僕の胸倉を掴んだ。

「ふざけるな! お前はいいのかよ。このままエミリーちゃんと離れ離れになって!」

「……エミリーは結婚するんだから仕方がないだろ!?」

「エミリーちゃんが結婚していいのかよ!?」

「それは本人が決めたことで」

「俺はお前が良いかどうか聞いてんだよ!」

 僕は咄嗟に返事ができなかった。

 アランベールは柄にもなく頭を掻き毟った。

「お前は本当に鈍い! 馬鹿だ!」

「なんだと!?」

「腹が立った。殴らせろ」

 抵抗する前に僕はあっけなくアランベールに殴られた。

 地面に転がる僕を睨みつけながら、友が叱責した。

「エミリーちゃんのことが好きなんだろ!? それなら引き止めろ!」

 僕はまじまじとアランベールを見上げた。

 エミリーを、僕が、好き? 

 だって?

「なんだそのアホ面は! 本当に今まで分からなかったのか?」

 僕がエミリーを好き。

 もちろん、エミリーのことは好きだ。幼馴染みたいにずっと一緒に居たんだ。

 でもアランベールが違う意味で言っていることは分かる。

 ……一人の女性として、好きだ、ってことだろ?

「でも、エミリーはメイドで……」

 アランベールがしゃがみこむ。

「お前、本当にただのメイドだと思ってたのか? エミリーちゃんは他のメイドと一緒だったか?」

 それは、違う。

 エミリーは他のメイドとは違う。

 ずっと傍に居て。そして、ずっと傍に居ると思ってた。

 僕のことを理解して、支えてくれていた。

 ……僕は、彼女が「坊ちゃん」と呼ぶのが、本当はそんなに嫌じゃなかった。あの慣れ親しんだ声で呼ばれるのは、嫌いじゃなかった。

「お前、エミリーちゃんがデートしてるって聞いたとき、嫉妬してただろ?」

 その言葉はすとんと胸に納まった。

 嫉妬。

 言われてみれば、そうなのかもしれない。

 エミリーが男とデートしていると言う事実を、認めたくなかったのかもしれない。

『坊ちゃん』

 エミリーの優しい声が耳の奥で響く。

 それだけで、胸がいっぱいになった。

「僕は……」

 のどが焼けるように熱い。

「僕は、エミリーが、好きだ……」

 言葉にして、初めて認めることが出来た。

 僕は、エミリー・ムーンが好きなんだ。

 一人の女性として、好きなんだ。

 怒っていたアランベールが表情を和らげた。

「ったく、鈍いにも程がある。それで、お前はどうする?」

 僕は立ち上がった。

「……エミリーを引き止めたい」

 彼女が、僕のことをどう思っているかはわからない。

 でも、僕は彼女を引き止めて、自分の想いを告げたい。

 好きだって、彼女に伝えたい。

 僕は急いで懐中時計を取り出した。

 今は十五時二十一分。エミリーが蒸気機関車に乗車するのは十五時三十五分。

「馬車だととても間に合わない」

 舌打ちをしたくなる。どうしたらいい。

「オルト! 早く乗れ!」

 顔を上げるとアランベールが馬上で自分の背後を親指で指した。

「間に合わせるぞ!」

 僕は頷いて素早く馬上に上がった。



 僕は知らなかった。

 本気を出した馬というのはとんでもなく速いということを。

 周りの景色がすごい勢いで去っていく。恐怖さえ感じるくらいだ。

「落ちんなよ! 落ちたら多分死ぬから!」

 アランベールの言葉が冗談でもないことは十分肌で感じている。

「見えてきたぞ!」

 駅が前方に現れた。

 僕は振動に耐えながら懐中時計にもう一度目を向ける。

 十五時三十六分。

「もう機関車が出てる!」

「あれだな!」

 駅から離れたところを進む機関車が視界に入る。

 まだ加速しきっていない蒸気機関車との距離を詰める。

 どうか、間に合ってくれ!

「エミリー!」

 僕は隣に並んだ機関車に向かって叫んだ。

 車窓からは驚いたような乗客たちが僕たちを見返していた。一人ひとりの顔が分かる距離だ。でもその中にエミリーは見つからない。

「エミリー!」

 お願いだ。どうか神様。エミリーともう一度会わせてください!

「エミリーッ!」

 その時。

 後方の窓から誰かが身を乗り出した。

 その人の黒髪が風で舞い上がる。

 瞳を大きく見開いて、彼女は僕を見つめていた。

 アランベールが速度を少し落とす。

「なんで……」

 すぐ隣でエミリーが驚きに顔を強張らせていた。

 ずっと傍にいたけど、こんなに驚いたエミリーを見たのは初めて見た。

 そして僕は、もっとエミリーの色んな表情を見てみたいと思った。

「エミリー! 聞いて欲しいんだ」

「危ないです、もう止まってください!」

「お願い、聞いて!」

 僕は思いっきり息を吸った。

「僕は、エミリーが好きだ!」

 エミリーは呆けたように僕を見返した。こんなエミリーも初めて見た。

「君が好きなんだ! だから行かないで欲しい! 結婚するな!」

 エミリーは口元に手を当てた。

「お願いだ! ずっと、僕の傍に居てください!」

 エミリーの目に涙が浮かぶ。ゆるく首を横に振る。

「でも……」

「もし! 君が僕と同じ気持ちなら! 僕のところに来て欲しい!」

 僕は大きく手を広げる。

「君が居なくなったら、誰が僕のタイを結んでくれるんだよ!」

 エミリーは顔を手で覆った。肩が震えている。

 駄目だろうか。

 もう、遅いのだろうか。

 エミリーは、僕のことをただの「坊ちゃん」としか思っていないのだろうか。

 それでも――。

「僕は君を愛して……」

 若草色が空を舞った。

 僕は咄嗟にそれを抱きとめた。

「うわぁあっ」

 馬が大きくよろめいて倒れるかと思った。

 しかしアランベールが奇跡的なテクニックで体勢を立て直した。

 馬は速度を落とす。もう、走る必要はないのだ。

 エミリーは僕の腕の中で泣いていた。

「エミリー……」

「坊ちゃん……私……」

 僕はエミリーを強く抱きしめた。

「愛してる。エミリー」

 腕の中の温もりが、確かにエミリーがここにいるんだと告げる。それが、これほどまでに嬉しいことだと、僕は今まで知らなかった。

「私も」

 エミリーが顔を上げた。

 涙を流しながら、エミリーは笑っていた。とても美しい笑顔だった。

「私も、ずっとお慕いしておりました」

 彼女のその言葉に、僕は胸がつかえた。息が止まったみたいだった。

「坊ちゃんを愛しております」

 僕はただただ、エミリーを抱きしめた。

 こんなに嬉しくて、幸せを感じたのは生まれて初めてだった。全身が震えるようだった。

「好きだよ、エミリー」

 僕は何度もそう呟いた。




 二人の未来には、いくつもの試練があるだろう。

 でも、きっとエミリーと一緒なら、なんだって乗り越えられる。

 僕はそう信じている。

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