クオリア
大きな群から離れた寂しいちぎれ雲は、鮮やかに墜ちる夕焼けの太陽に、たった一人で向かう。その雲の輪郭は西日に吹き飛び、とても不安定に見え、まるで軽く触れても崩れてしまうやわらかい新雪のようにも思えた。
彼は海を眺め、たたずんでいた。
海の面は黒く、嫋やかに吹き付ける朔風に無数の漣が立つ。その漣の頂点は、稲穂が植わる田が緩やな風に色を変えるように、光を反射したり、黒に戻ったりを繰り返していた。
夕日の光が広大な海の本来の色、青を奪っていた。
――――いや、本来の海に色はない。
海の青は、快晴の空が、それに写し見せる幻想である。水が透明なように、海には色はない。
しかし、なだめるようにさざめく潮騒や、涼しげに香る潮風は確固たる実相であり、ゆるぎない海の産物である。そこには虚栄もなく、ただ茫洋な母なる海をそこに感じさせるものに違いない。
「…………」
彼は今日、彼女に告白をした。
だが、彼女は口を閉じたままで、彼にはそれが辛辣な返答のように思えた。
だからこうして、逃げるように思い出が残るテトラポットの浜辺にやって来ていた。
この浜辺は、幼き頃の彼女とのあの約束が交わされた場所である。
あの日、あの時、あの言葉は、真剣な言葉ではあったが、時が経つにつれ、誓った言葉は砂時計の砂がその誓いの上に積もるようにして、見えなくなった。彼女が自分とは違う男と手を繋いだり、抱き合うことに、不快感を覚えながらも、意味もなく茶化して、意地を張り、目をそらした。
そこには罪悪感はなかった。
何故なら、彼女が恋人と別れたことを皮肉っても、彼女はおどけたように笑って答えてくれたからだった。だが、今の彼は彼女を傷付けていたのだと、強く悔いる。
顔を上げると、そこには溶けたアイスのような太陽があった。
夕日の光芒が身に深く突き刺さっていた。
「また一緒に来ようねだっけ?」
彼女の声がしたような気がした。
急いで振りかえる。
そこには、彼女がいた。
色素の薄い長髪は、夕焼け色に染まって、潮風にゆるやかに揺れている。幼げなその瞳は宝石のように輝いていて、何故だか懐かしく思えた。
彼女は笑みを食む。
「覚えてるよ。ずっと。あの約束」
彼女は横につき、広がる海を広く見回した。
「なんで、お前、ここに」
「んーと、」
彼女は背筋を伸ばすように、手を上にやって、胸を張った。
「返事しなくちゃって思ってさ」
ぶらん、と彼女は手を垂れる。
「お前……。あのさッ、やっぱり俺、お前へのこと――――」
――――彼が次の言葉を継ごうとしたその時、視界の端で一羽のカモメが夕焼け空の高みに飛翔したのが見えた。彼は、理由もなくその飛翔に目をやり、空を仰いだ。
空には夕闇の黒があった。カモメの翼の白はその黒によく映えていた。
「…………」
……夜が訪れ、日にちが変わり、曙が訪れ、朝が来る。
それは予定調和的で、機械的で、変わりようのない事実ではあるが、人間は明日が来なければと、今日が終わらなければという摂理に反する願いを、霊験あらたかな神様に祈願する。ある時は星の並びを神の形だとして奉じる。
世界は人々の願いを抱きながら回転を続け、その遠心力に願いは撹拌され崩れても、人々は単なる感覚に気持ちを添え続ける。
「…………」
その日の潮騒は優しく、夕焼けは暖かった。
「私もさ――――」