五度も処刑されたので王太子への恋は冷めました。今世は生き残るために王弟公爵と偽装結婚いたします。
「ヴァイオレット・アルヴェイン。貴様を国家反逆罪により、死刑に処す」
王太子エドガー・レイヴァルトの声が、石造りの広場へ冷たく響いた。
その言葉を聞いた瞬間、ヴァイオレットの胸の奥に、説明のできない違和感が走った。
処刑台へ立たされるのは初めてのはずだった。
少なくとも、今のヴァイオレットが持っている記憶の中ではそうなっている。
それなのに、目の前に広がる光景のすべてが妙に懐かしい。
膝の下へ伝わってくる石の冷たさも、背後で処刑人が剣を握り直す微かな金属音も、広場を埋め尽くした群衆のざわめきも、どこかで経験したことがあるように感じられた。
正面に立つエドガーの表情さえそうだった。
金色の髪に、澄んだ青い瞳。幼い頃から何度も見てきた顔ではある。けれど今のヴァイオレットには、その見慣れた顔のさらに奥に、どうしても思い出せない何かが引っかかっていた。
「最後に言い残すことはあるか」
エドガーが淡々と告げる。
ヴァイオレットは答えず、ゆっくりと視線を動かした。
広場の向こうには、王都の時計塔が見える。針は正午まであとわずかという位置を指していた。
それを見た瞬間、胸の奥に奇妙な確信が生まれた。
あと少しすれば、エドガーが右手を上げる。
それを合図に処刑人が一歩進み、ヴァイオレットの背後で剣を振りかぶる。
そして、その刃が落ちてくる。
なぜそんなことが分かるのか、自分でも分からない。
頭には記憶がない。
それなのに、身体のほうが知っている。
もっと深い場所にいる自分が、何度もこの瞬間を経験しているようだった。
「……これ」
唇から、掠れた声が漏れた。
「知っていますわ」
エドガーが眉をひそめる。
「何を言っている」
その顔を見た瞬間だった。
何かが壊れた。
頭の奥に幾重にも掛けられていた錠が、一斉に砕け散ったような感覚がした。
押し込められていたものが、濁流のように溢れ出す。
人の声。
泣き声。
裁判官の宣告。
牢獄の冷たい壁。
処刑台。
エドガーの顔。
そして、何度も何度も訪れた死の感覚。
「あ……」
ヴァイオレットは目を見開いた。
思い出した。
自分は一度だけ死んだのではない。
これまでにも、何度もここへ来ている。
◇
一度目の人生で、ヴァイオレットはエドガーを心の底から愛していた。
幼い頃に婚約が決まり、将来は彼の妻として王太子妃になるのだと教えられた。
だからヴァイオレットは、エドガーに相応しい女性になりたいと願った。
王太子妃となる以上、ただ美しいだけでは足りない。礼儀作法を学び、歴史と政治を学び、隣国の言葉も覚えた。有力貴族の家系や領地の特色まで頭へ叩き込み、王家がどのような関係によって成り立っているのかも幼い頃から勉強した。
エドガーが忙しければ邪魔をしなかった。
会えなくて寂しくても、王太子なのだから仕方がないと自分へ言い聞かせた。
彼の好きな菓子を覚え、嫌いな香りを避け、彼が疲れているときには余計なことを言わないようにした。
そうやって努力を重ねていれば、いつかきっと愛してもらえると思っていた。
けれど、王立学院へ入学した後、一人の男爵令嬢が現れた。
身分に似合わぬほど明るく、誰に対しても物怖じしない少女だった。
王太子であるエドガーにも気さくに話しかけ、彼の失敗を笑い、時には叱る。
ヴァイオレットにはできなかったことを、その少女はいとも簡単にやってのけた。
そしてエドガーは彼女に惹かれた。
ヴァイオレットは嫉妬した。
長い年月をかけて、自分の未来だと信じていた場所へ、突然別の女が入り込んできたのだ。
怖かった。
だから男爵令嬢を遠ざけようとした。
彼女がエドガーへ近づかないよう、遠回しに注意したこともあった。社交界で恥をかかないようにと作法を教えたこともある。
けれど、そのすべては悪意として受け取られた。
やがてヴァイオレットは、身分の低い令嬢を虐げる悪女と呼ばれるようになった。
最後には王太子へ害をなす危険人物として断罪され、処刑された。
次に目を覚ましたとき、時間は過去へ戻っていた。
二度目の人生。
今度のヴァイオレットには、一度目の記憶が残っていた。
だったら、今度は嫉妬しなければいい。
男爵令嬢へ優しくし、困っていれば助け、エドガーとの仲にも口を挟まない。
むしろ二人の間を取り持つくらいの気持ちで接すれば、悪女として断罪される理由などなくなるはずだった。
ヴァイオレットはそう考え、実際にその通りに振る舞った。
けれど、それでも未来は変わらなかった。
今度は「善良な令嬢を装い、裏から男爵令嬢を操っている」と疑われた。
そんなつもりはないと訴えても、信じてもらえなかった。
エドガーも助けてはくれなかった。
二度目の人生でも、ヴァイオレットは処刑された。
三度目の人生では、恋愛そのものから距離を置いた。
王太子妃になるのなら、恋人として愛されることより、国のために役に立つことを優先しようと考えた。
領地政策を学び、税制を学び、貴族たちの利害を調整した。エドガーの政務が滞れば手を貸し、外交の席にも同席した。
その結果、ヴァイオレットは以前より遥かに多くの支持を集めた。
皮肉なことに、それが今度の破滅を呼んだ。
王太子以上に支持を得た公爵令嬢が、エドガーを傀儡にして王家を乗っ取ろうとしている。
そんな噂が流れた。
ヴァイオレットは否定したが、エドガーは彼女を守らなかった。
そして三度目の人生でも、処刑された。
四度目は、何もしないことを選んだ。
政治にも口を出さない。
男爵令嬢にも近づかない。
エドガーにも必要以上に関わらない。
自分が動くから未来が変わってしまうのなら、何もしなければいい。
そう考えた。
けれど今度は、王太子の婚約者としての責務を放棄し、王家を軽視した女として責められた。
国政に関わらず、婚約者を支えず、王太子妃になる気もない。
ならば何のためにその立場にいるのか。
そんな理屈で罪を積み重ねられ、四度目の処刑台へ送られた。
そこでヴァイオレットは初めて考えた。
もしかすると、自分が過去を知っていること自体が間違いなのではないか。
これまでのヴァイオレットは、死を避けるために前の人生とは違う行動を選び続けてきた。
嫉妬しなかった。
善良に振る舞った。
政治に尽くした。
何もしなかった。
けれど、そのすべてが新しい破滅を生み出した。
ならば、過去の知識があるからこそ、かえって不自然な行動を選んでしまっているのかもしれない。
何も知らない自分なら、もっと自然に生きられるのではないか。
五度目の人生を迎えるとき、ヴァイオレットはそう願った。
今までのことを忘れたい。
誰に殺されたのかも、何をすれば死ぬのかも、すべて忘れた状態で生き直したい。
そして、その願いは叶った。
五度目のヴァイオレットには、過去四回の記憶がなかった。
けれど完全に消えたわけではなかった。
エドガーと向き合うたび、なぜか胸がざわついた。
王宮へ呼ばれると、理由もないのに息苦しくなった。
男爵令嬢を初めて見たときも、嫉妬より先に説明のつかない恐怖を感じた。
そして何より、王太子妃となる未来を思い浮かべるたび、首筋を冷たいものが這うような感覚が消えなかった。
記憶は失っても、身体と心の奥には何かが残っていた。
だから五度目のヴァイオレットは、理屈ではなく直感に従った。
エドガーから離れなければならない。
理由は分からない。
けれど、この男の婚約者であり続ければ自分は不幸になる。
そう感じた。
そして、婚約解消を申し出た。
結果は、今この場所に立っていることで証明されている。
王太子の婚約者である公爵令嬢が一方的に婚約を解消しようとしたことで、王宮は大きく揺れた。
王太子に問題があるのではないかと噂され、エドガーの評判にも傷がついた。
やがて王家の威信を守るためなのか、ヴァイオレットが反逆を企てていたという証拠が次々と現れた。
もちろん覚えなどない。
それでも罪は認められ、裁判は終わった。
そして今日。
五度目の人生でもまた、ヴァイオレットは処刑台へ辿り着いた。
◇
「……そうでしたのね」
すべてを思い出したヴァイオレットは、小さく呟いた。
今度の自分は何も知らなかったのではない。
知らないようにしていた。
過去の知識を持たない自分なら、別の未来へ辿り着けるかもしれない。
そう望んだのは、ほかでもないヴァイオレット自身だった。
けれど、それでも駄目だった。
一度目は、エドガーを愛した末に死んだ。
二度目は、善良であろうとして死んだ。
三度目は、彼と国の役に立とうとして死んだ。
四度目は、何もしないようにして死んだ。
五度目は、すべて忘れた自分自身に人生を任せて死んだ。
どんな道を選んでも、最後にはここへ戻ってくる。
その事実を理解した途端、悲しみより先に笑いが込み上げてきた。
「……ふふ」
「何がおかしい」
エドガーが不快そうに眉を寄せる。
ヴァイオレットは改めて彼の顔を見た。
自分が愛した人。
幼い頃、初めて手を取ってもらっただけで嬉しかった。
名前を呼んでもらえれば、それだけで一日中幸せだった。
この人の隣に立てるなら、どれほど辛い勉強でも頑張れると思っていた。
そして同時に、自分が憎んでいる人でもある。
五度もの人生で、自分を死へ追いやった男。
もっとも、それをすべてエドガー一人の責任にしてしまうのは簡単だ。
一度目の自分にも愚かな部分はあった。
二度目以降も、判断を誤ったことはあるだろう。
けれど一つだけ、もう疑いようのないことがある。
どれほど生き方を変えても、エドガーの隣にいる限り、自分は最後には切り捨てられる。
それなら、もう十分だった。
「殿下」
「なんだ」
「わたくし、あなたを愛しておりました」
エドガーの眉がわずかに動く。
「今さら何を――」
「本当に、心から愛しておりましたの」
一度目の人生の自分なら、その言葉だけで涙を流しただろう。
今のヴァイオレットには、驚くほど何もなかった。
あれほど大切だった恋が、遠い昔の出来事のように感じられる。
「ですから、もう十分ですわ」
「……何?」
「あなたに愛されようとするのは、もうやめます」
エドガーの表情が強張った。
ヴァイオレットは処刑台の冷たい石へ指を這わせた。
この感触も忘れない。
群衆の声も、処刑人の気配も、首筋を撫でる風も忘れない。
何より、目の前にいる男の顔を忘れない。
五度目の人生では、すべてを忘れることで未来を変えようとした。
ならば六度目は逆だ。
全部持っていく。
「次があるなら、今度こそ忘れません」
「ヴァイオレット」
「一度目から今日までのことを、すべて覚えて次へ行きます」
エドガーが何かを言おうとした。
けれど、もう耳には入らなかった。
愛した記憶も。
裏切られた記憶も。
処刑を待つ恐怖も。
五度の人生で積み重ねた失敗も。
全部覚えて、次へ行く。
「わたくしが愛した人のことも、わたくしが憎んだ人のことも、今度は何一つ忘れません」
処刑人が動く気配がした。
エドガーが右手を上げる。
まさに先ほど直感した通りだった。
剣が振り下ろされる。
それでもヴァイオレットは目を閉じなかった。
「次こそは、必ず生き残ってみせますわ」
視界が大きく揺れた。
意識が闇へ沈んでいく最後の瞬間まで、ヴァイオレットは同じことを願い続けた。
忘れない。
絶対に。
次は何も捨てない。
全部覚えたまま、もう一度生きる。
◇
「お嬢様?」
聞き覚えのある声がした。
「ヴァイオレットお嬢様?」
目を開ける。
薄紫色の天蓋が見えた。
窓から柔らかな朝日が差し込み、鏡台の上には見覚えのある本が置かれている。
傍らでは、侍女のマリーが心配そうにこちらを覗き込んでいた。
「……マリー」
「はい。どうされました?」
ヴァイオレットは答えず、自分の手を見た。
若い。
次に首へ触れる。
繋がっている。
指先へ伝わる自分の体温を確認してから、恐る恐る記憶を辿った。
一度目。
覚えている。
二度目も。
三度目も。
四度目も。
そして五度目の処刑台まで。
何一つ欠けていない。
「今日は何日ですの?」
「光耀月の十二日でございます」
「王国暦は?」
「四百十七年ですが……」
マリーが心配そうに眉を寄せる。
「お嬢様、本当に大丈夫ですか?」
「ええ」
ヴァイオレットは両手で顔を覆い、ゆっくりと息を吐いた。
六度目だ。
しかも今回は、王立学院へ入学する三ヶ月も前まで戻っている。
男爵令嬢がエドガーと出会うのは、さらに半年ほど先のことになる。
そして何より、記憶がある。
「……よかった」
「お嬢様?」
「覚えておりますわ」
「何をでしょう?」
「全部です」
声が少し震えた。
五度も死んだ記憶を抱えたまま生き直さなければならない恐怖は、もちろんある。
それでも、何も知らず同じ場所へ向かうより遥かにいい。
これでようやく戦える。
五度の人生で何が駄目だったのかを、一つずつ確かめられる。
「マリー」
「はい?」
「今日の予定は?」
「午前からレイヴァルト王宮で、エドガー殿下とお茶会でございます」
その名前を聞いた瞬間、かつてなら胸が弾んだはずだった。
今は違う。
脳裏に浮かんだのは、処刑台に立つエドガーの姿だった。
「ああ、ございましたわね。そのようなもの」
「そのようなものって……お嬢様、一ヶ月も前から楽しみにされていたではありませんか」
「そうでしたかしら」
「ドレスを三着もお選びになって、髪型だって昨日の夜まで悩まれていましたよ」
それを聞いて、ヴァイオレットは少し目を伏せた。
この時代の自分は、まだエドガーが大好きだった。
彼とのお茶会一つで浮かれてしまうほどに。
何も知らない。
数年後、その愛した男の命令で何度も命を落とすことになるなど、夢にも思っていない。
そう考えると、かつての自分がひどく可哀想に思えた。
「全部やめます」
「……はい?」
「今日のお茶会には参りません」
「ですが、殿下とのお約束です」
「そうですわね」
「でしたら――」
「体調不良とお伝えして」
マリーが困惑した顔をした。
「今、とてもお元気そうですが」
「五回も処刑された人間としては、驚くほど元気ですわ」
「……はい?」
「こちらの話です」
ヴァイオレットはベッドから降り、鏡の前へ立った。
濃い紫色の髪と、淡い紫色の瞳。
そこには、まだ何も失っていない自分がいる。
ここからだ。
今度こそ考えなければならない。
どうすれば自分は生き残れるのか。
エドガーの婚約者であり続ける道は、これまで何度も失敗した。
彼に愛されようとしても駄目だった。
男爵令嬢へ優しくしても駄目。
政治を頑張っても駄目。
何もしなくても駄目だった。
そして五度目には、婚約そのものを解消しようとして処刑された。
「……本当に、ひどいですわね」
思わず声が漏れた。
何をしても死ぬ。
けれど、五度目の人生には一つだけ大きな収穫があった。
エドガーから離れようとした判断そのものは間違っていない。
問題は、ただ婚約を解消するだけでは足りなかったことだ。
王太子の婚約者であるヴァイオレットが一方的に関係を終わらせれば、王家の威信に傷がつく。
ならば婚約を解消して終わりではなく、その後エドガーが手を出せない場所へ行けばいい。
国外へ逃げる。
それでは公爵家の家族が残される。
修道院へ入る。
国内の修道院なら王家の影響から逃れられない。
アルヴェイン公爵領へ引きこもる。
国王命令が出れば終わりだ。
そこまで考えたところで、ヴァイオレットは鏡の中の自分を見つめた。
「……結婚」
声に出した途端、頭の中で条件がつながった。
「そうですわ。先に結婚してしまえばいいのです」
「誰とですか!?」
後ろにいたマリーが目を丸くした。
「それを今考えています」
「エドガー殿下がおりますよね?」
「いりません」
「お嬢様!?」
通常の貴族では駄目だ。
王太子の婚約者を横から奪ったとなれば、その男ごと王家の敵と見なされる可能性がある。
必要なのは、王太子よりも王家に近い立場を持ち、国王ですら無理を押し通しにくい人物。
独自の領地を持つ。
軍事力もある。
政治的な実績もある。
そして未婚。
条件を頭の中で並べたところで、一人の男が思い浮かんだ。
「……おりますわね」
ルーファス・グランディア公爵。
現国王の弟。
エドガーにとっては叔父にあたる。
十代の頃から北方戦線へ赴き、いくつもの戦争で勝利を重ねてきた男。
銀色の髪と灰青の瞳を持ち、敵軍から恐れられたことから、人々はいつしか彼をこう呼ぶようになった。
――銀狼公。
「あの方、確か女嫌いでしたわね」
ヴァイオレットの記憶にも、いくつもの逸話が残っている。
社交界には滅多に姿を現さず、持ち込まれた縁談はほとんど断る。
ある侯爵令嬢が『閣下のためなら何でもいたします』と告白したところ、『では俺に構わないでくれ』と返した話など、王都では有名だった。
一度目のヴァイオレットなら、なんて冷たい男なのだろうと思ったはずだ。
今は違う。
「随分と誠実な方ですわね」
「どの辺りがですか!?」
嫌なら嫌だと言う。
期待を持たせない。
愛してもいない相手を、自分の都合でいつまでも縛りつけたりもしない。
少なくとも、婚約者を都合よく側へ置き、必要がなくなれば処刑台へ送る男よりは遥かに分かりやすい。
「マリー」
「はい」
「外出の支度を」
「王宮へ行かれるのですか?」
「いいえ」
ヴァイオレットは鏡の中の自分へ向かって微笑んだ。
「グランディア公爵邸へ参ります」
◇
王都北部の高台に建つグランディア公爵邸は、王族の住まいとは思えないほど質実剛健な造りをしていた。
高い石壁と頑丈な門に囲まれ、装飾よりも防御を優先していることが一目で分かる。庭園より訓練場のほうが広く、貴族の邸宅というより小さな城砦と呼んだほうが似合っている。
「お嬢様、本当に入るんですか?」
馬車を降りたところで、マリーが不安そうに声を潜めた。
「もちろんですわ」
「先触れもなしに?」
「先触れを出せば断られるでしょう?」
「それは……そうかもしれませんが」
五回も処刑された女にとって、女嫌いの公爵から追い返されることなど、もはや大した問題ではなかった。
案の定、門番には止められた。
それでもアルヴェイン公爵家の令嬢という身分は便利だった。急ぎの要件だと告げ、引き下がらずに待っていると、しばらくして応接室まで通された。
そこで二十分ほど待った頃、ようやく扉が開いた。
「俺に何の用だ」
低い声が響く。
ヴァイオレットが振り返ると、そこには銀色の髪と灰青の瞳を持つ男が立っていた。
黒を基調とした軍装に身を包み、無駄のない体つきには、社交界の男たちとは違う実戦の気配がある。
記憶の中で何度か見た姿より少し若い。
それでも間違えようはなかった。
ルーファス・グランディア。
王弟公爵にして、戦場帰りの銀狼。
「突然の訪問をお許しください、グランディア公爵閣下」
「許可する前に入っているが」
「ごもっともですわ」
ルーファスの眉が、ほんのわずかに動いた。
「アルヴェイン公爵家の令嬢だったな」
「ヴァイオレット・アルヴェインと申します」
「知っている。エドガーの婚約者だろう」
「今のところは」
灰青の目が細くなる。
「今のところ?」
「近いうちに、そうではなくなる予定です」
「その話は聞いていない」
「まだ誰にも申し上げておりませんもの」
ルーファスはしばらく無言でヴァイオレットを見た。
やがて向かいの椅子へ腰を下ろし、腕を組む。
「それで、王太子の婚約者が何の用で俺のところへ来た」
ここから先で、六度目の人生が決まる。
ヴァイオレットは背筋を伸ばした。
五回失敗した。
ならば六回目は、今まで一度も選ばなかった道へ進む。
「公爵閣下」
「なんだ」
「わたくしと結婚してくださいませ」
「断る」
あまりにも迷いのない即答だったため、さすがのヴァイオレットも一度だけ瞬きをした。
「……まだ何もご説明しておりませんけれど」
「聞く必要があるのか?」
「ございます」
「ない。帰れ」
噂以上だった。
けれど、この程度で引き下がるつもりなら、最初からここまで来ていない。
「では、ご安心くださいませ」
「何をだ」
「わたくし、閣下を愛するつもりはございません」
そこで初めて、ルーファスの動きが止まった。
「……何?」
「恋愛結婚をお願いしに参ったのではありません」
ヴァイオレットは持参していた書類をテーブルへ置いた。
「契約結婚をしていただきたいのです。期間は三年間を想定しております」
ルーファスは書類ではなく、ヴァイオレットのほうを見ていた。
「閣下は王家から持ち込まれる縁談に辟易していらっしゃると伺っております。わたくしと結婚すれば、それらを断る理由としては十分でしょう」
「お前には何の利益がある」
「王太子妃にならずに済みます」
「エドガーが嫌いなのか?」
ヴァイオレットは、少しだけ考えた。
かつては確かに愛していた。
今では憎い。
けれど、それだけでもない。
あの男一人のために、五回もの人生を費やした。
もう、それだけで十分だった。
「……飽きましたの」
「飽きた?」
「はい」
ヴァイオレットは穏やかに微笑んだ。
「五回ほど処刑されましたので、さすがにもう結構ですわ」
さすがの銀狼公も、その言葉にはしばらく黙った。
「……五回?」
「そのお話は、契約が成立した後にいたします」
「待て」
「三年間、わたくしは閣下の妻として必要な役割を果たします。社交も、領地経営の補佐も可能です。幼い頃から王太子妃教育を受けておりますので、王族の妻として恥ずかしくない振る舞いもお約束いたします」
「だから待てと言っている」
「寝室は別。互いの私生活には必要以上に干渉しない。三年後には円満離婚し、その後わたくしは国外へ移るつもりです」
「ヴァイオレット」
初めて名前を呼ばれたことで、ヴァイオレットはようやく言葉を止めた。
「最初から説明しろ」
「あら」
「特に、五回処刑されたという部分だ」
「そちらですの?」
「他に何がある」
確かにもっともだった。
ヴァイオレットは少し考えてから答える。
「今は、すべてをお話しすることはできません」
「なぜだ」
「信じていただけるとは思えませんもの」
「それを決めるのは俺だ」
その言葉に、ヴァイオレットは目を瞬いた。
エドガーなら何と言っただろう。
馬鹿な話をするなと切り捨てただろうか。
くだらないと笑っただろうか。
妄想に付き合う時間はないと言って、最初から聞こうともしなかったかもしれない。
けれどルーファスは違った。
信じるとも、信じないとも言わない。
まず話を聞き、そのうえで自分が判断すると言った。
たったそれだけのことなのに、不思議なほど胸に残った。
「では、一つだけ」
「言ってみろ」
「わたくしは、このままエドガー殿下の婚約者であり続ければ死にます」
ルーファスの表情が変わった。
「誰かに脅されているのか?」
最初に出てきた問いがそれだったことに、ヴァイオレットは少し驚いた。
「いいえ」
「公爵家は知っているのか」
「いいえ」
「なら、まず父親に相談しろ」
「それでは間に合わない可能性があります」
「なぜ分かる」
「五度、経験しておりますので」
ルーファスは黙った。
しばらくヴァイオレットの顔を見たあと、ようやくテーブルの上に置かれた契約書を手に取った。
「三年間」
「はい」
「その後は離婚」
「はい」
「俺を愛する気はない」
「ございません」
ヴァイオレットは迷わず答えた。
もう誰かに愛されるために、自分の人生を使うつもりはない。
今度こそ生きる。
誰かのためではなく、自分自身のために。
ルーファスは契約書を読み進め、やがて一ヶ所で指を止めた。
「これは消せ」
「どちらです?」
「ここだ」
示された部分を見る。
そこにはヴァイオレット自身が書いた一文があった。
互いに恋愛感情を抱かないものとする。
「なぜですの?」
「感情まで契約で命令できると思っているのか」
「ですが、偽装結婚ですもの」
「俺がお前を好きになる可能性もあるし、お前が俺を好きになる可能性もある。そのとき、この条文はどうする」
「なりませんわ」
「なぜ言い切れる」
ヴァイオレットは胸を張った。
「わたくし、もう恋愛には懲りましたので」
するとルーファスの灰青の瞳が、ほんのわずかに細くなった。
笑ったようにも見えた。
「そうか」
「ええ」
「なら書く必要もない。消せ」
「……理屈がよく分かりませんわ」
「俺は分かっている」
随分勝手な男だと思った。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
ルーファスはもう一度契約書へ目を落とし、しばらく内容を確認する。
「条件を精査する」
「では」
「返事はその後だ」
「断らないのですか?」
「最初に断った」
「そうでしたわね」
「今は保留だ」
ヴァイオレットは、思わず笑った。
それで十分だった。
五度の人生では、一度も選ばなかった道が目の前に現れ始めている。
エドガーに愛されるためではない。
王家に認められるためでもない。
誰かが望む令嬢になるためでもない。
生き残るために、自分で選んだ道だった。
「ありがとうございます、グランディア公爵閣下」
「まだ何も承諾していない」
「承知しておりますわ」
ヴァイオレットは立ち上がり、そのまま退出しようとした。
「ヴァイオレット」
背後から呼び止められる。
「はい?」
振り返ると、ルーファスは契約書を手にしたまま、じっとこちらを見ていた。
「一つ聞く」
「何でしょう」
「お前は俺が怖くないのか」
戦場帰りの銀狼。
女嫌い。
冷酷で、血も涙もない男。
社交界では、随分好き勝手な噂を聞いてきた。
けれど今、ヴァイオレットが彼を前にして感じているものは、恐怖とはまるで違っていた。
「怖くございませんわ」
「なぜだ」
ヴァイオレットは晴れやかに笑った。
「五度も死を経験した今となっては、閣下がどれほど恐れられていようと、それだけで足を止める理由にはなりませんもの」
今度の自分は、五度の死をすべて覚えている。
愛した記憶も、憎んだ記憶も、処刑台の冷たさも、忘れてはいない。
だったら六度目は、もう同じ間違いを繰り返さない。
銀狼が一人立ちはだかった程度で怯えていては、今度こそ自分の人生を取り戻すことなどできないのだから。
◇
グランディア公爵邸を出たヴァイオレットは、迎えの馬車へ乗り込んでから、ようやく張りつめていた肩の力を抜いた。
窓の向こうでは、無骨な石造りの公爵邸が少しずつ遠ざかっていく。王族の住まいとは思えないほど装飾が少なく、敷地のあちこちには剣を腰に下げた騎士や兵士の姿が見えた。華やかな宮廷とはまるで違うその空気は、どこか息苦しさがなく、むしろヴァイオレットには心地よく感じられた。
「……生きた心地がしませんでした」
正面の席に座っていたマリーが、胸元へ手を当てながら深く息を吐いた。
「そう?」
「そうです! あの銀狼公ですよ!? お嬢様、よくあんな方を前にして、いきなり結婚してくださいなんて言えましたね!」
「だって、結婚していただくために伺ったのですもの」
「普通は、もう少し段階というものがございます!」
今にも頭を抱えそうなマリーを見て、ヴァイオレットはわずかに口元を緩めた。
言われてみれば、今日の自分の振る舞いは、貴族令嬢として褒められたものではない。
王太子の婚約者という立場にありながら、先触れもなく王弟公爵の屋敷へ押しかけ、その本人と顔を合わせるなり結婚を申し込んだのだ。
幼い頃からヴァイオレットへ礼儀作法を叩き込んできた教師が見れば、その場で倒れていても不思議ではない。
それでも、後悔はなかった。
五度もの人生を経験して、ヴァイオレットは嫌というほど理解している。
悠長に構えていれば、その間にも未来は確実に動いていく。
男爵令嬢が学院へ入学するまで、まだ半年ほどの時間がある。しかし、だからといって半年間のんびり準備していればよいわけではない。
エドガーとの婚約は、すでに存在している。
王家とアルヴェイン公爵家が将来姻戚関係になることは、国内の貴族たちにとってほとんど既定路線として受け止められている。
その関係を終わらせるなら、早ければ早いほどいい。
しかも今回は、ただ婚約を解消するだけでは足りない。
五度目の人生で、それが証明されている。
王家がヴァイオレットを取り戻そうとしても、エドガーが婚約の継続を求めても、簡単には覆せない新しい立場を先に作らなければならない。
その条件を満たせる人物は、ヴァイオレットが知る限り、ルーファスしかいなかった。
「それに、思っていたよりずっと話の分かる方でしたわ」
「どこがです?」
「わたくしを屋敷から追い出さなかったでしょう?」
「基準が低すぎます!」
マリーの反応がおかしくて、ヴァイオレットは今度こそ小さく笑った。
ただ、その言葉は半分ほど本気だった。
社交界で語られるルーファスの評判は、決して良いものではない。
戦場では苛烈で、敵兵には一切の容赦をせず、王都へ戻っても笑顔一つ見せない。近づいてくる令嬢には冷たく、持ち込まれる縁談をことごとく断る。
銀狼公という呼び名には、尊敬よりも恐怖のほうが強く込められていることも多かった。
けれど、実際に会った男は違っていた。
確かに無愛想ではある。
言葉も少ない。
愛想よく相手を持ち上げるような真似もしない。
それでも、ヴァイオレットが自分は死ぬかもしれないと告げたとき、ルーファスが真っ先に尋ねたのは「誰かに脅されているのか」だった。
続けて公爵家へ相談したのかとも確認した。
五回処刑されたという、普通なら一笑に付されても仕方のない話をしたときでさえ、彼は馬鹿にしなかった。
信じるとも、信じないとも言わなかった。
ただ、自分で聞いて、自分で判断すると言った。
それだけでも、ヴァイオレットには十分すぎるほど新鮮だった。
「少なくとも、エドガー殿下よりは話が通じますわ」
「お嬢様」
それまで大げさなくらい騒いでいたマリーの声が、そこで少しだけ低くなった。
ヴァイオレットが顔を上げると、彼女は心配そうにこちらを見ていた。
「本当に、殿下と何かございましたか?」
「これからございます」
「……これから?」
「ええ。だから、それが起こる前に逃げたいの」
ヴァイオレットは静かに答えた。
今は、これ以上話すつもりはなかった。
マリーは信頼できる。
五度の人生の中でも、彼女は何度もヴァイオレットの味方でいてくれた。
それでも、「実はこれまで五回死に、そのたびに時間を遡っています」と突然告げられて、すぐに受け入れられるはずもない。
ルーファスへ処刑の話をしたのは、こちらが切迫した状況にあることだけでも理解させる必要があったからだ。
単なる恋人同士の諍いだと思われれば、王太子の婚約者を横から奪うなどという危険な話に乗ってもらえるはずがない。
家族や使用人には、もっと慎重に話せばいい。
今回は、時間がある。
そして何より、記憶がある。
ヴァイオレットは膝の上で両手を重ね、馬車の窓から流れていく王都の街並みを眺めた。
この景色を見るのも六度目になる。
これまでの人生では、いつもエドガーを中心に未来を考えていた。
どうすれば彼に愛されるのか。
どうすれば嫌われずに済むのか。
どうすれば王太子妃として彼の役に立てるのか。
あるいは、どうすれば彼から逃げられるのか。
結局のところ、愛しているときも、憎んでいるときも、自分の人生の中心には常にエドガーがいた。
けれど、今回は違う。
もう彼を基準に生き方を決めるつもりはない。
自分は生きたい。
それだけの願いを、今度こそ自分自身のために叶えたい。
そのためなら、銀狼公に偽りの妻として嫁ぐことくらい、どうということもなかった。
そこまで考えたところで、ふと別のことが頭に浮かんだ。
「それにしても、あの条文を消せというのはどういう意味なのでしょう」
「条文?」
「互いに恋愛感情を抱かないという部分です」
マリーが一瞬だけ黙った。
それから、何とも言えない顔をする。
「何ですの、その顔は」
「いえ……銀狼公も、思っていたより普通の男性なのかなと思いまして」
「普通?」
「何でもありません」
妙にはぐらかされたが、ヴァイオレットは深く追及しなかった。
どうせ三年間だけの関係なのだ。
契約上の夫婦として役割を果たし、必要な期間を乗り越えた後で離婚する。
ルーファスが言うように、感情まで契約書で縛る必要がないというのなら、それでも構わない。
そもそもヴァイオレットには、自分が今さら誰かを好きになる姿など想像できなかった。
五度も同じ男との関係で死んだせいか、今では恋愛そのものに身体が警戒している。
胸が高鳴るより先に、首筋が寒くなる。
誰かに愛される未来より、処刑台のほうが簡単に想像できてしまう。
そんな自分が、わずか三年間の契約相手へ恋をするなど、あり得るはずがない。
◇
一方、ヴァイオレットが去った後のグランディア公爵邸では、ルーファスが応接室に残っていた。
テーブルの上には、彼女が持参した契約書が置かれている。
「三年間の契約結婚、ですか」
横からその書類へ目を落としたのは、ルーファスの側近であるセドリックだった。
年齢はルーファスよりいくらか上で、戦場では長く副官として彼を支えてきた男である。現在は軍務だけでなく、公爵家の政務にも深く関わっていた。
「随分と大胆な令嬢ですね」
「盗み聞きしていたのか」
「護衛として扉の外にいただけです。王太子殿下の婚約者と閣下を二人きりにして、後で妙な噂でも立てられたら困りますから」
「何も起きん」
「普通ならそうでしょうね」
セドリックは軽く肩をすくめた。
「ところで、なぜ断らなかったんです?」
「断った」
「最初だけでしょう。その後は契約書まで律儀に読んでいた」
ルーファスは答えなかった。
自分でも、少し妙だと思っている。
似たような話なら、これまでいくらでもあった。
王弟という立場に目をつけ、娘を嫁がせようとする貴族。
王族との縁を得ようとする大商人。
本人が本当にルーファスへ恋をしたのか、それとも家から命じられたのかは分からないが、涙ながらに想いを告げてきた令嬢もいた。
そのすべてを断ってきた。
結婚する理由を感じなかったからだ。
戦場へ出れば、いつ死ぬか分からない。
領地へ戻れば、山ほどの軍務と政務が待っている。
妻を迎え、自分の生活を変えてまで結婚する必要が、今まではどこにもなかった。
だというのに、今日突然現れたヴァイオレットの話だけは、なぜか最後まで聞いてしまった。
「五回処刑された、と言っていたな」
「ええ」
「どう思う」
「普通に考えれば、虚言でしょう」
「普通に考えればな」
ルーファスは椅子へ深く腰掛けた。
問題は、ヴァイオレットが嘘をついているようには見えなかったことだ。
もちろん演技という可能性はある。
王太子の婚約者ともなれば、宮廷で表情を作る訓練くらい受けているだろう。
それでも、彼女の態度には何か妙なものがあった。
まず、結婚を申し込んできた令嬢の目ではない。
ルーファスの地位にも、王弟という肩書きにも、容姿にも、ほとんど興味を示していなかった。
むしろ、自分が生き延びるために必要な条件を満たす相手として、ルーファスを見ているようだった。
普通なら、そんな扱いを不愉快に感じてもおかしくない。
けれどルーファスには、その露骨なまでの打算がむしろ好ましかった。
少なくとも、自分を愛しているふりをされるよりは信用できる。
「調べろ」
「何をです?」
「ヴァイオレット・アルヴェインについてだ。最近の行動と、エドガーとの関係を可能な限り詳しく」
「王太子殿下まで調べるんですか?」
「あの女は、自分が死ぬ理由としてエドガーを挙げた」
「そこまでは言っていなかったと思いますが」
「婚約者であり続ければ死ぬと言った。それで十分だ」
ルーファスは感情を表へ出すことが少ない。
それでも長年側にいるセドリックには、その声が普段より低くなったことが分かった。
「エドガー殿下が何かしているとお考えで?」
「分からん。だから調べる」
疑うのも、信じるのも、その後でいい。
戦場では、情報が不足した状態で思い込みによって判断した者から死んでいく。
その点では、宮廷も大して変わらない。
ルーファスはもう一度契約書へ目を落とした。
細かな条件まで、よく考えられている。
アルヴェイン公爵令嬢という立場を考えれば、ヴァイオレットが領地経営や社交の補佐をすると書いていることにも不自然さはない。
幼少期から王太子妃教育を受けている以上、能力だけなら並の公爵夫人より遥かに高いだろう。
ルーファス側にも、利益はある。
国王や大臣から何度も持ち込まれる縁談を断る手間がなくなる。
公爵家の社交を任せることもできる。
政治的にも、アルヴェイン公爵家との結びつきは決して悪くない。
条件だけを見れば、突拍子もない話の割に筋は通っていた。
「閣下」
「なんだ」
「なぜ、ここを消させたんです?」
セドリックの指が、契約書の一文を示した。
そこには、ヴァイオレットが書いた条項が残っている。
互いに恋愛感情を抱かないものとする。
ルーファスは眉を寄せた。
「意味のない条文だからだ」
「ほう」
「何だ、その顔は」
「いえ。閣下が男女の感情について語る日が来るとは思わなかったもので」
「戦場へ戻りたいか?」
「結構です」
セドリックは即座に口を閉ざした。
ルーファス自身、本当にそれ以上の意味はないと思っていた。
感情は命令されてどうにかなるものではない。
嫌いな相手を好きになれと言われても無理なように、好きになった相手を嫌いになれと言われたところで簡単にはできない。
だから契約書へ書く意味がない。
それだけの話だ。
「それより急げ」
「はいはい。アルヴェイン公爵令嬢と王太子殿下についてですね」
「できる限り詳しく調べろ」
セドリックが応接室を出ていく。
一人になったルーファスは、改めて契約書を手に取った。
整った文字だった。
各条項にも無駄がない。
思いつきだけでここへ来たわけではないことが分かる。
その中で、どうしても一つだけ気になる言葉が残っていた。
五回。
五回処刑された。
そんな話を信じるほど、ルーファスは夢想家ではない。
それでも、彼女が最後に見せた笑顔だけは妙に記憶に残っていた。
銀狼公と恐れられる自分を、怖くないと言い切ったときの顔だ。
あれは強がりではなかった。
死を知らない者が口にする「怖くない」と、死を知っている者のそれは違う。
ルーファス自身、戦場で何度も見てきた。
死を目前にした人間には、言葉では隠せないものが目に残る。
ヴァイオレットの目にも、それとよく似たものがあった。
「五回死んだ、か」
馬鹿馬鹿しい。
そう切り捨てることは簡単だった。
それなのに、なぜかそうする気にはなれなかった。
◇
翌朝。
ヴァイオレットが朝食を取っているところへ、王宮から使者が訪れた。
「エドガー殿下が、昨日のお茶会を欠席された理由をお尋ねです」
報告を受けたヴァイオレットは、紅茶のカップを持ったまま一瞬だけ動きを止めた。
来た。
しかも、自分の記憶より早い。
六度目の人生では、ヴァイオレットが最初からエドガーとの距離を取ろうとしている。そのせいで、すでに未来の流れがわずかにずれ始めているらしい。
「体調不良とお伝えしたはずですが」
「はい。ただ、本日改めて王宮へ来るようにとのことです」
「命令ですの?」
「いえ、形式上は招待となっておりますが……」
言葉を濁す執事に、ヴァイオレットは苦笑した。
王太子から公爵令嬢への招待。
表向きはそうでも、実質的には命令と変わらない。
これまで五度の人生で、この程度の圧力なら何度も経験している。
「分かりました。参ります」
「お嬢様?」
隣に控えていたマリーが驚いた顔をした。
昨日はあれほどエドガーを避けていたのだから、当然の反応だった。
「逃げ続けるわけにもいきませんもの。それに、殿下がどのように動くのか確認しておきたいのです」
これまでのヴァイオレットなら、エドガーに呼ばれれば胸を躍らせて王宮へ向かった。
五度目の人生なら、理由の分からない不安を感じながらも、どうにか断る方法を探していたかもしれない。
今回は違う。
何が起きるのかを知っている。
そして、知ったうえで向き合うことができる。
ヴァイオレットは食事を終えると、王宮へ出向く準備を命じた。
◇
王宮の庭園には、記憶の中と変わらない花々が咲いていた。
かつてヴァイオレットは、この場所が好きだった。
エドガーと並んで過ごせる数少ない時間だったからだ。
彼が王太子として忙しいことは分かっていた。多くの責任を背負っていることも理解していた。
だから月に一度、この庭で一緒に茶を飲めるだけでも十分だと自分へ言い聞かせていた。
今となっては、その頃の自分が随分と健気だったように思える。
「昨日はどういうつもりだ」
挨拶を終えるなり、エドガーはそう言った。
ヴァイオレットは向かいの席へ腰を下ろしながら、静かに彼を見つめた。
若い。
当然ながら、五度目の処刑台で最後に見た彼より三年ほど若い。
それでも、表情の癖は変わらない。
自分の思い通りにならないことがあると、右の眉がほんの少しだけ上がる。
昔はそんな些細な変化まで愛おしいと思っていた。
「どういうつもり、と申されましても」
「昨日のお茶会だ。なぜ来なかった」
「体調が優れなかったためですわ」
「今日は元気そうだな」
「おかげさまで回復いたしました」
エドガーは明らかに不満そうだった。
けれど、ヴァイオレットの心は不思議なくらい静かだった。
以前の自分なら、彼に少し不機嫌な顔をされただけでも、どうにか機嫌を直してもらおうと必死になっただろう。
今は何も感じない。
怖くもなければ、悲しくもない。
ただ懐かしかった。
昔、大切にしていたものを久しぶりに見つけたときのような、妙な距離感だけがあった。
「最近のお前は少し変だ」
「そうでしょうか」
「以前なら、私との約束を忘れるようなことはなかった」
忘れたわけではない。
むしろ、覚えすぎている。
この庭で交わした会話も、彼が好む茶葉も、嫌いな菓子も、どんな言葉で不機嫌になるのかも知っている。
そして最後に、どんな顔でヴァイオレットの処刑を命じるのかまで覚えている。
「殿下」
「なんだ」
「一つ、お尋ねしても?」
「ああ」
「もし、わたくしが殿下との婚約を望まないと申し上げたら、どうなさいます?」
エドガーの顔から、わずかに表情が消えた。
「何を言っている」
「仮定のお話ですわ」
「くだらない」
予想通りの答えだった。
ヴァイオレットは紅茶のカップを静かに口元へ運ぶ。
「お前と私の婚約は、幼い頃から両家が決めたものだ。お前一人の意思でどうにかできる話ではない」
「わたくしの意思は関係ないと?」
「そういう意味ではない」
エドガーは苛立ったように言い直した。
「王族の婚姻には責任があると言っている」
聞き覚えのある言葉だった。
五度目の人生で婚約解消を申し出たときにも、似たようなことを言われた。
あのときのヴァイオレットは過去の記憶を封じていたため、理由の分からない息苦しさを抱えながら、自分の考えのほうが間違っているのではないかと悩んだ。
今なら分かる。
少なくとも、この時点のエドガーには悪意がないのだろう。
だからこそ厄介だった。
彼にとってヴァイオレットは、幼い頃から自分の婚約者であることが当たり前だった。
自分の隣にいる。
王太子妃になる。
将来、自分を支える。
それを疑ったことすらない。
そこにヴァイオレット自身の意思が存在するかどうかなど、これまで考える必要もなかったのだ。
「そうですわね」
ヴァイオレットは静かに微笑んだ。
五回もの人生を費やして、ようやくこの男が少し分かったような気がした。
「何がおかしい」
「いいえ。殿下は、やはり殿下なのだと思いまして」
「どういう意味だ」
「そのままの意味ですわ」
これ以上話しても意味はない。
エドガーを説得して婚約を解消してもらうつもりはなかった。
五度目の自分が、すでにそれを試して失敗している。
ならば今回は、彼の許可を求めるのではなく、先に状況そのものを変える。
「今日はお招きいただき、ありがとうございました」
「待て。まだ話は終わっていない」
「わたくしの中では終わりましたわ」
「ヴァイオレット」
立ち上がった瞬間、エドガーの声が強くなった。
その声音を聞いた途端、処刑台で聞いた声が脳裏を掠めた。
それでも、ヴァイオレットの足は止まらなかった。
振り返り、昔なら決して向けられなかった穏やかな笑顔を見せる。
「殿下。わたくし、これから少し、自分の人生について考えてみようと思いますの」
「何を――」
「それでは、ごきげんよう」
返事を待たず、ヴァイオレットは庭園を後にした。
背中にエドガーの視線を感じる。
それでも振り返らなかった。
彼に呼び止められても、自分の意思で歩き続ける。
たったそれだけのことなのに、不思議なほど呼吸が楽だった。
◇
王宮からアルヴェイン公爵邸へ戻る途中、馬車が一度大きく揺れた。
その直後、向かいに座っていたマリーが窓の外へ目を向け、驚いたように声を上げる。
「お嬢様」
「何です?」
「グランディア公爵家の騎士です」
ヴァイオレットは思わず身を乗り出した。
馬車の横を、銀狼の紋章を胸元に付けた騎士が馬で並走している。
御者が馬車を止めると、その騎士はすぐに馬から降り、扉の前で恭しく頭を下げた。
「ヴァイオレット・アルヴェイン公爵令嬢でいらっしゃいますね」
「ええ」
「我が主、ルーファス・グランディア公爵閣下より書状を預かっております」
差し出された封筒には、銀色の狼を象った封蝋が押されていた。
ヴァイオレットはそれを受け取り、騎士が去るのを待ってから封を切った。
中には一枚の紙が入っている。
文章は驚くほど短かった。
けれど、その内容を読み終えたヴァイオレットは、すぐには言葉を発することができなかった。
「何と書かれているんです?」
マリーに尋ねられ、ヴァイオレットはもう一度文面を確認した。
そこには飾り気のない文字で、明日もう一度公爵邸へ来るようにと記されていた。
条件について、改めて話がしたいという。
そして最後には、もう一つだけ文章が添えられている。
今度は正門から来い。門兵が困っている。
「……怒られましたわ」
「当然です!」
マリーが間髪入れずに答えた。
その反応がおかしくて、ヴァイオレットは思わず笑ってしまった。
まだ契約が成立したわけではない。
ルーファスが結婚を受け入れると決めたわけでもない。
それでも、一度は即答で断った男が、今度は自分から話をしようと言ってきた。
六度目の人生で初めて、未来が目に見える形で変わり始めている。
エドガーに愛されるために変えた未来ではない。
誰かが手を差し伸べてくれるのを待った結果でもない。
ヴァイオレット自身が考え、自分で動いたことで、これまでの人生には存在しなかった道が生まれた。
そのことが、何より嬉しかった。
「マリー」
「はい」
「明日の予定を空けておいてくださいませ」
「……また銀狼公のところへ?」
「もちろんですわ」
ヴァイオレットはルーファスから届いた手紙を丁寧に折り直し、胸元へしまった。
今度こそ、契約を成立させる。
王太子の婚約者ではなく、銀狼公の妻になる。
その選択が本当に処刑を回避する道なのかは、まだ分からない。
もしかすれば、六度目にも予想もしない破滅が待っているかもしれない。
それでも、少なくとも今は、五度目までとは違う未来へ進んでいる。
ならば、この道を進むしかない。
五度の死をすべて覚えたまま迎えた六度目の人生を、今度こそ処刑台では終わらせないために。
◇
翌日、ヴァイオレットは昨日とは違い、きちんと先触れを出したうえでグランディア公爵邸を訪れた。
正門へ到着すると、昨日彼女を止めた門兵が揃って礼を取った。その表情には微妙な緊張が残っており、どうやら突然押しかけた公爵令嬢の存在は、すでに屋敷の中でちょっとした話題になっているらしい。
「昨日はご迷惑をおかけいたしました」
ヴァイオレットが馬車を降りながら頭を下げると、門兵の一人が慌てて姿勢を正した。
「い、いえ。閣下より、本日はそのままお通しするよう申し付かっております」
「まあ。今日は追い返されないのですね」
「昨日も追い返してはおりません!」
必死に訂正する姿がおかしくて、ヴァイオレットは小さく笑った。
昨日とは明らかに扱いが違う。
それだけで、ルーファスが何らかの結論を出したことは分かった。
もっとも、それが自分にとって望ましい結論なのかどうかは、まだ分からない。
応接室へ案内されると、そこにはすでにルーファスが待っていた。
昨日と同じ黒を基調とした軍装に身を包んでいるが、今日はその隣にもう一人、見知らぬ男が立っている。
四十歳前後だろうか。落ち着いた物腰と鋭い目をした男で、軍人らしい体格をしている。
「お待たせいたしました、グランディア公爵閣下」
「いや。時間通りだ」
ルーファスが短く答える。
「そちらの方は?」
「セドリックだ。俺の副官兼補佐をしている」
紹介された男が一歩前へ出た。
「セドリック・ハーヴェイと申します。以後、お見知りおきを」
「ヴァイオレット・アルヴェインです。よろしくお願いいたします」
ヴァイオレットが礼を返すと、セドリックは穏やかに微笑んだ。
「昨日のお話は、閣下から伺っております」
「まあ」
「正確には、扉の外でもかなり聞こえていましたが」
「セドリック」
「黙ります」
ルーファスの一言で、側近はあっさり引き下がった。
どうやらかなり気安い関係らしい。
それを横目に見ながら、ヴァイオレットは用意された席へ腰を下ろした。
ルーファスは昨日預けた契約書をテーブルの上へ置く。
「先に結論から言う」
「はい」
「お前の提案を受ける」
ヴァイオレットは一瞬、言葉を失った。
昨日の時点で保留まで持ち込めた以上、可能性はあると思っていた。それでも実際に承諾の言葉を聞くと、胸の奥に張りつめていたものが僅かに緩んだ。
「……本当に?」
「そのために呼んだ」
「ありがとうございます」
自然と深く頭を下げていた。
けれど、ルーファスはすぐに言葉を続けた。
「ただし条件がある」
ヴァイオレットは顔を上げる。
「どのような条件でしょう」
「まず、昨日の話を聞かせろ」
予想していた。
むしろ、それを聞かずに契約を受けるほうが不自然だ。
「五回処刑されたというお話ですわね」
「ああ」
「信じていただけます?」
「まだ分からん」
ルーファスは即答した。
「だから聞く」
その姿勢は昨日と変わらなかった。
無条件に信じるわけでもなければ、最初から否定するわけでもない。
自分で情報を集め、自分で判断する。
戦場帰りの男らしいと言えば、確かにそうなのかもしれない。
ヴァイオレットは少しだけ考え、やがて意を決した。
「分かりました」
どうせ、この男にはこれから自分の盾になってもらう。
ならば、最低限の事情は共有しておいたほうがいい。
「わたくしは、これまで五度死にました。そして、そのたびに時間が巻き戻っています」
セドリックの眉が僅かに動いた。
ルーファスは何も言わない。
ヴァイオレットは続けた。
「最初の人生では、エドガー殿下を愛し、男爵令嬢への嫉妬から失敗しました。二度目は、その方へ優しく接しようとしました。三度目は、政治へ専念しました。四度目は、何もしないよう努めました」
「そして五度目は?」
「過去の記憶そのものを封じました」
そこで初めて、ルーファスの表情が僅かに変わった。
「自分で?」
「はい」
「なぜそんなことをした」
「過去を知っているからこそ、行動が不自然になるのではないかと思ったからです」
ヴァイオレットは静かに答えた。
「ならば何も知らない自分に任せれば、もっと自然に生きられるかもしれない。そう考えました」
「結果は」
「婚約解消を申し出ました」
「記憶がない状態で?」
「ええ。頭では何も覚えていなくても、エドガー殿下と一緒にいると、どうしても嫌な予感がしたのです」
ヴァイオレットは自分の首筋に触れた。
「王宮へ行くと息苦しくなり、王太子妃になる未来を考えると、首が冷たくなりました。過去を忘れても、身体のどこかでは覚えていたのでしょうね」
「それでエドガーから離れようとした」
「はい。そして反逆罪を着せられ、処刑されました」
セドリックが低い声を漏らした。
「反逆罪を、着せられた?」
「わたくしには、まったく覚えのない証拠ばかりでした。けれど裁判では認めてもらえなかった」
「誰が証拠を提出したか覚えていますか?」
「一部は」
ヴァイオレットは記憶を辿った。
「王宮文官が一人。それから、アルヴェイン公爵家と取引のあった商会。それと……エドガー殿下の側近です」
「名前は」
「オズワルド・ベイン」
セドリックの顔から、ほんの僅かに笑みが消えた。
ルーファスも何かを考えるように黙り込む。
「ご存じですの?」
「知っている」
ルーファスが答えた。
「エドガーの側近候補として、最近王宮へ上がった男だ」
ヴァイオレットの心臓が一度だけ強く跳ねた。
「……もう?」
「ああ」
まだ処刑まで三年近くある。
それなのに、五度目の人生で自分の罪を固める証拠を提出した男は、すでにエドガーの近くにいる。
「昨日、セドリックにお前とエドガーの周辺を調べさせた」
ルーファスが続ける。
「調査したのですか?」
「お前の話だけで王太子の婚約者を奪うほど、俺は愚かではない」
「それはごもっともですわ」
「だが、妙なことがいくつかあった」
ルーファスがセドリックへ視線を送る。
それを受けて、彼が一枚の紙を取り出した。
「まず、オズワルド・ベインですが、現在すでに王太子殿下の私的な調査や文書管理の一部を任され始めています」
「この時期から……」
「そしてもう一つ。アルヴェイン公爵家と取引のある商会の中に、ベイン家と繋がりを持つところがあります」
ヴァイオレットは息を呑んだ。
五度目の人生では知らなかった。
知ろうともできなかった。
記憶を封じていた自分は、ただ突然現れた証拠に追い詰められていっただけだ。
「偶然かもしれません」
セドリックは慎重に言った。
「今の時点では、これだけで誰かが令嬢を陥れようとしているとは言えません。ただ、あなたがおっしゃった人物たちの間に、すでに接点が存在することは確かです」
「……そうですのね」
ヴァイオレットは膝の上で指を組んだ。
初めてだった。
これまでの人生では、自分一人で未来を変えようとしてきた。
何をすれば死ぬのかを考え、必死に別の道を選んだ。
けれど今は、自分以外の人間が過去の情報を調べ、そこに実際の繋がりを見つけている。
「だから信じたのですか?」
ヴァイオレットが尋ねると、ルーファスは首を横へ振った。
「まだ全部を信じたわけではない」
「厳しいですわね」
「だが、お前が何らかの危険を察知している可能性は高いと思っている」
彼らしい答えだった。
「五回死んだ話が真実かどうかは、今の俺には証明できない。だが、お前が挙げた人間と現在の状況が一致している以上、全部を妄想だと切り捨てる理由もない」
ヴァイオレットはしばらくルーファスを見つめた。
この人は、本当に一つずつ考えるのだ。
感情だけで判断せず、だからといって目の前の人間を切り捨てもしない。
「もう一つ確認する」
「何でしょう」
「五回の人生で、俺はどうしていた」
予想外の問いだった。
「閣下が?」
「ああ」
ヴァイオレットは記憶を辿った。
ルーファスとは、ほとんど接点がなかった。
「一度目と二度目では、北方にいらしたと思います。三度目では何度か王宮でお姿を拝見しました。四度目も同じです」
「五度目は」
「確か……」
思い出す。
処刑の数ヶ月前。
王都に銀狼公が戻ったという噂を聞いた。
けれどヴァイオレットは牢へ入れられており、その後どうなったかまでは分からない。
「処刑される少し前に、閣下が王都へ戻ったという話だけ聞きました」
「俺がお前の裁判へ関与した記憶は?」
「ございません」
「そうか」
ルーファスは短く答えた。
その表情から感情は読み取れなかった。
「それが何か?」
「いや」
彼はそこで一度言葉を切った。
「もし、お前の話が本当なら、五回とも俺は何も知らないまま、お前が死ぬのを見過ごしたことになる」
ヴァイオレットは目を瞬いた。
「それは閣下の責任では――」
「分かっている」
ルーファスは淡々と遮った。
「だから六回目まで同じようにする理由もない」
その言葉は決して大げさではなかった。
けれどヴァイオレットの胸に、静かに沈んだ。
◇
「それでは、契約内容について話す」
ルーファスは改めて契約書を開いた。
「三年間という期間には異論はない」
「ありがとうございます」
「寝室を分けることにも異論はない。互いの私生活へ必要以上に干渉しないという条件も受ける」
ヴァイオレットは安心した。
そこまでは昨日提示した内容と変わらない。
「ただし、いくつか修正する」
「どうぞ」
「まず、お前が俺の妻になる以上、護衛を付ける」
「護衛?」
「常時だ」
「そこまで必要でしょうか」
「必要かどうかを決めるのは、俺だ」
昨日も似たようなことを言われた気がする。
「わたくし、かなり自由に行動したいのですが」
「止めはしない。どこへでも行け。ただし護衛を連れていけ」
「監視ではなく?」
「お前を監視するほど暇ではない」
「でしたら結構です」
ヴァイオレットは素直に頷いた。
「次に、公爵家の資産と権限について」
ルーファスが続ける。
「正式に結婚した後、お前には公爵夫人として必要な予算と権限を渡す」
「そこまでは必要ございません。わたくしは偽装の妻ですもの」
「外から見て偽装だと分かるようでは意味がない」
言われてみればその通りだった。
「それに、俺の妻が一々俺の許可を取らなければ何もできないようでは困る」
「随分と信用してくださるのですね」
「王太子妃教育を受けてきた女に、屋敷の花を買う許可まで求められたくないだけだ」
相変わらず言葉は素っ気ない。
それでも、内容そのものはヴァイオレットが予想していたより遥かに自由だった。
「そして、最後だ」
ルーファスの声が少し低くなる。
「これが一番重要だ」
「はい」
「お前を殺そうとする者が現れた場合、俺に隠すな」
ヴァイオレットは黙った。
「五回の人生で何が起こったのか、思い出したことも含めてすべて伝えろ。証拠がなくても構わん」
「ですが、未来が変われば、記憶と違うことも起こると思います」
「それでいい」
ルーファスは迷いなく答えた。
「お前の記憶を予言として扱うつもりはない。可能性として使う」
その言葉に、ヴァイオレットは納得した。
なるほど。
過去の人生で起きたことが、今回も必ず起きるとは限らない。
むしろ、すでに自分が違う行動を取っている以上、未来は変わり始めている。
だからこそ「こうなるはずだ」と思い込むのではなく、「こうなる可能性がある」と考える。
自分にはなかった発想だった。
「分かりました」
「それと」
「まだございますの?」
「ああ」
ルーファスは契約書を閉じた。
「お前が俺の妻になった時点で、お前を殺そうとする人間は俺の敵になる」
ヴァイオレットは言葉を失った。
ルーファスは、何か特別なことを言ったつもりもなさそうだった。
「閣下」
「なんだ」
「それは……偽装結婚でも?」
「関係あるか?」
逆に聞き返される。
「形だけであろうと、契約であろうと、公に妻となった人間が害されれば、グランディア公爵家が軽んじられたことになる」
「それは、そうでしょうけれど」
「それに」
ルーファスはヴァイオレットを見る。
「俺は、自分の目の前にいる人間を見殺しにする趣味はない」
あまりにも当然のように言われた。
ヴァイオレットは返事ができなかった。
五回の人生で、自分は何度も助けを求めた。
誰かに信じてほしいと思った。
けれど最後にはいつも、自分だけが処刑台へ立っていた。
だから、いつしか自分が生き残る方法は自分で探すしかないと思うようになった。
実際、それは間違っていない。
今回だって、自分の人生は自分で選ぶつもりだ。
それでも。
自分が死なないように考える人間が、自分以外にもいる。
その事実は、思った以上に胸へ響いた。
「……変な顔をするな」
ルーファスに言われ、ヴァイオレットはようやく我に返った。
「どのような顔です?」
「泣きそうな顔だ」
「泣いておりませんわ」
「ならいい」
ルーファスはそれ以上追及しなかった。
それがかえってありがたかった。
ヴァイオレットは小さく息を整える。
「わたくしからも、一つ条件を追加してよろしいでしょうか」
「言え」
「閣下も危険なことは隠さないでくださいませ」
「俺?」
「はい」
ルーファスが不思議そうに眉を寄せる。
「わたくしばかり守られる契約では、不公平です」
「お前は俺を守るつもりなのか」
「妻になりますので」
今度はルーファスが黙る番だった。
「偽装だろう」
「形だけであろうと、契約であろうと、夫が害されれば妻として困りますわ」
先ほど言われた言葉を、そのまま返す。
セドリックが横で肩を震わせているのが見えた。
「何がおかしい」
ルーファスが低く問う。
「いえ。お二人とも、思ったより相性がよろしいなと」
「セドリック」
「黙ります」
ヴァイオレットは堪えきれずに笑った。
ルーファスは少しだけ不機嫌そうな顔をしたが、契約書に新しい条項を書き加えた。
夫婦双方は、生命に関わる危険を認識した場合、それを互いに秘匿しない。
「これでいいか」
「ええ」
「なら署名しろ」
ヴァイオレットは差し出された羽根ペンを受け取った。
ここに名前を書けば、未来が変わる。
正確には、すでに変わり始めているのだろう。
それでもこの署名は、これまでの人生と六度目を決定的に分けるものになる。
ヴァイオレット・アルヴェイン。
自分の名前を書き終える。
続いてルーファスが署名した。
ルーファス・グランディア。
二つの名が並ぶ。
「これで契約成立だ」
ルーファスが告げた。
「よろしくお願いいたします、旦那様」
「まだ結婚していない」
「練習ですわ」
「必要ない」
ヴァイオレットが微笑むと、ルーファスは小さく息を吐いた。
嫌がっているように見えるが、本気で止めるつもりもないらしい。
◇
契約が成立した後、問題になったのは結婚までの手続きだった。
当然ながら、ヴァイオレットはまだエドガーの婚約者である。
「まず国王陛下へ話を通す」
ルーファスが言った。
「やはり必要ですのね」
「当然だ。俺も王族だ」
「陛下が認めてくださるでしょうか」
「認めさせる」
あまりに迷いなく言うので、ヴァイオレットは思わず笑ってしまった。
「随分と自信がおありですのね」
「兄上は俺の結婚を十年以上望んでいる」
「まあ」
「相手がお前なら政治的にも不足はない。問題があるとすれば、エドガーとの婚約だけだ」
それが一番大きな問題なのだが、ルーファスは大して気にしていないようだった。
「殿下が反対なさると思います」
「するだろうな」
「よろしいのです?」
「何がだ」
「甥御様でしょう」
「それが?」
ルーファスは本気で分からないという顔をした。
「エドガーと仲がお悪いのですか?」
「普通だ」
「普通とは?」
「甥と叔父だ」
分かったような、分からないような答えだった。
「だが婚約は、結婚ではない」
ルーファスが続ける。
「お前が婚約の継続を望まず、王家の別の人間との婚姻を希望しているなら、少なくとも話し合う余地はある」
「そんな簡単にいくでしょうか」
「簡単にはいかん」
そこは即答だった。
「だが、だから俺が必要なのだろう」
ヴァイオレットは言葉に詰まった。
その通りだった。
自分一人では王家と交渉できない。
だから王家と対等に話せる男を選んだ。
「任せろ」
ルーファスは短く言った。
その二文字だけで、不思議と安心できた。
◇
王城への連絡は、その日のうちに行われた。
そして翌日の昼過ぎ。
王宮の一室で、国王夫妻、エドガー、ルーファス、ヴァイオレット、そしてアルヴェイン公爵夫妻を交えた話し合いが開かれることになった。
「ヴァイオレット」
王宮へ向かう馬車の中で、隣に座った父が重い声を出した。
「本当にこれでよいのか」
「はい、お父様」
「エドガー殿下との婚約を解消し、そのままグランディア公爵へ嫁ぐ。あまりにも急だ」
当然の反応だった。
昨日の夜、ヴァイオレットは両親へルーファスとの契約について話した。
さすがに五度の人生についてまでは、まだすべて説明していない。
エドガーとの婚姻に強い不安があり、自分の意思で別の人生を選びたいこと。そしてルーファスとは互いの利益が一致していることだけを伝えた。
父は長い時間考えた。
母も驚いていた。
それでも最後には、ヴァイオレットが自分で選んだ道ならばと認めてくれた。
「後悔はいたしません」
「本当に?」
「ええ」
ヴァイオレットは笑った。
「むしろ、今までで一番後悔しておりませんわ」
五度死んだことは言えない。
それでも、その言葉だけは心から本当だった。
◇
王宮の会議室へ入った瞬間、ヴァイオレットはエドガーと目が合った。
彼の表情は、明らかに険しかった。
「どういうことだ」
挨拶が終わるより先に、エドガーが口を開いた。
「ヴァイオレット。叔父上と結婚するというのは本当なのか」
「はい」
「なぜだ」
「わたくしが望んだからです」
エドガーの顔が強張る。
「お前は私の婚約者だ」
「現在は」
「現在も未来もだ」
かつてなら、その強い言葉に胸が高鳴ったかもしれない。
自分を必要としてくれているのだと、都合よく解釈したかもしれない。
今は違う。
この男は、ヴァイオレットを愛しているから手放したくないのではない。
自分の婚約者が、自分の意思で離れていくことが気に入らないだけだ。
五度の人生を経たヴァイオレットには、それがよく分かった。
「エドガー」
低い声が響いた。
ルーファスだ。
「座れ」
「ですが、叔父上」
「国王陛下の御前だ」
エドガーが口を閉ざした。
その様子を見て、ヴァイオレットは改めて理解する。
王太子であるエドガーが、この男の前ではまだ甥なのだ。
「兄上」
ルーファスが国王を見る。
「先ほど書面で伝えた通り、俺はヴァイオレット・アルヴェインとの婚姻を望む」
国王は難しい顔をしていた。
「本気なのだな」
「ああ」
「お前が結婚すると言い出したこと自体は喜ばしいのだが……よりによってエドガーの婚約者とは」
「婚約は解消すればいい」
「叔父上!」
エドガーが立ち上がりかける。
ルーファスは彼へ一度視線を向けただけだった。
「本人が望んでいない婚約を、いつまで続けるつもりだ」
「ヴァイオレットは一時的に混乱しているだけです」
その言葉に、ヴァイオレットの胸の中で何かが冷えた。
五度目の人生でも似たようなことを言われた。
お前は混乱している。
本心ではない。
考え直せ。
結局、自分の意思はいつも他人に解釈されていた。
「殿下」
ヴァイオレットが静かに声を出す。
「わたくしは混乱しておりません」
「ヴァイオレット」
「自分で考え、自分で選びました」
「なぜ叔父上なんだ」
エドガーの声には、苛立ちと困惑が混じっていた。
「私では駄目なのか」
その問いを聞いた瞬間。
一度目の人生の自分が、胸の奥で泣いたような気がした。
ずっと聞きたかった言葉だった。
自分では駄目なのか。
そう尋ねてほしかった。
自分を選んでほしかった。
けれど今は、もう遅い。
「はい」
ヴァイオレットは穏やかに答えた。
「殿下では、駄目です」
エドガーが絶句した。
部屋の空気が静まり返る。
「わたくしは、殿下の婚約者ではない人生を選びたいのです」
「……なぜ」
今度の声は、ほんの少し弱かった。
ヴァイオレットは五度の人生を思い出した。
すべてを話しても、この男にはまだ理解できないだろう。
だから今は、一番単純な答えだけを伝える。
「もう十分だからですわ」
「何が」
「殿下を中心に生きることが」
エドガーの表情から言葉が消えた。
その隣で、ルーファスだけが何も言わずヴァイオレットを見ている。
「わたくしは、自分の人生を生きてみたいのです」
それは六度目にして初めて口にした、本当の願いだった。
国王が長く息を吐いた。
「ヴァイオレット嬢の意思は固いようだな」
「陛下」
「エドガー。婚約とは双方の合意があって成立するものだ」
「ですが」
「王家の威信だけを理由に、一人の令嬢を縛りつけるつもりはない」
その言葉に、ヴァイオレットは思わず国王を見た。
五度目の人生では、こんな話し合いの場すらなかった。
婚約解消を望んだ時点で、周囲との関係は急速に悪化し、気づけば罪を着せられていた。
今回は違う。
隣にルーファスがいる。
そして彼が先に王へ話を通したことで、ヴァイオレットの意思そのものが正式な議題になっている。
それだけで、未来は大きく変わっていた。
「婚約解消を認めよう」
国王が告げた。
ヴァイオレットは息を止めた。
「ただし、グランディア公爵との婚姻については両家で正式な手続きを行うこと。王家としても承認する」
「ありがとうございます、陛下」
ヴァイオレットは深く頭を下げた。
胸の奥で、何かが解けていく。
五度の人生で、一度も越えられなかった壁。
王太子の婚約者という立場から、ようやく離れることができた。
「ヴァイオレット」
エドガーが呟く。
ヴァイオレットは彼を見た。
その顔には、怒りとも悲しみともつかない感情が浮かんでいた。
けれど、もう戻らない。
「ごきげんよう、エドガー殿下」
今度こそ、本当の意味で別れる。
そう思った。
◇
王宮を出ると、ルーファスが当然のようにヴァイオレットの隣を歩いた。
「閣下」
「なんだ」
「ありがとうございました」
「何がだ」
「陛下へ話を通してくださったことです」
「契約だからな」
またそれだ。
ヴァイオレットは小さく笑う。
「何がおかしい」
「いいえ。閣下は契約という言葉がお好きなのだと思いまして」
「事実だろう」
「ええ」
ヴァイオレットは頷いた。
契約。
そういう関係だ。
三年間。
それだけ。
けれど今日、ルーファスが隣にいてくれたからこそ、五度の人生で越えられなかった場所を越えられた。
その事実だけは忘れたくなかった。
「これで、わたくしはエドガー殿下の婚約者ではなくなりました」
「ああ」
「そして近いうちに、閣下の妻になる」
「ああ」
ルーファスは淡々と答えた。
ヴァイオレットは少しだけ悪戯心を起こす。
「では改めまして、よろしくお願いいたしますね。旦那様」
ルーファスの足が止まった。
「……まだ早い」
「もう婚約者ではございますでしょう?」
「契約上はな」
「でしたら問題ありませんわ」
ヴァイオレットが笑うと、ルーファスは何とも言えない顔をした。
戦場では銀狼と恐れられる男が、呼び方一つで困っている。
その姿が少しおかしかった。
「ヴァイオレット」
「はい?」
「一つ言っておく」
「何でしょう」
ルーファスは少しだけ視線を逸らした。
「俺は、夫というものをやったことがない」
「普通は一度もないものですわ」
「そういう意味ではない」
「では?」
「うまくできる保証はない」
予想外の言葉だった。
ヴァイオレットは目を瞬いた。
銀狼公とも呼ばれる男が、こんなことを気にするとは思わなかった。
「わたくしも妻は初めてです」
「そうだろうな」
「ですから、お互い様ですわね」
ルーファスがこちらを見る。
「契約結婚ですもの。失敗したら、その都度相談いたしましょう」
「……そうか」
「はい」
少しの沈黙の後。
ルーファスは、ほんのわずかに笑った。
ヴァイオレットは一瞬、それを見間違いかと思った。
社交界で笑わない男と呼ばれている銀狼公が、確かに笑ったように見えたからだ。
けれど確認する前に、彼はいつもの無愛想な顔へ戻っていた。
「帰るぞ」
「どちらへ?」
「グランディア公爵邸だ」
「わたくしの家はアルヴェイン公爵邸ですけれど」
「今日から婚礼の準備を始める。打ち合わせがある」
「まあ」
「それに」
ルーファスは何でもないことのように続けた。
「お前の部屋も用意させなければならん」
ヴァイオレットは少しだけ胸が温かくなるのを感じた。
偽装結婚。
三年間の契約。
それ以上にはならない。
そのはずなのに。
五度の人生で一度も与えられなかった「ここにいていい場所」が、少しずつ形になり始めている気がした。
ヴァイオレットはその感覚を、恋と呼ぶことだけはしなかった。
まだ、それを認めるには早すぎる。
何より彼女自身が、もう恋愛などしないと決めたばかりなのだから。




