待ち望んでいた婚約破棄、私が認めても周りは許さないようです
「聖女リリアナ——今日をもって、お前との婚約を破棄する!」
高らかに響いた宣言に、夜会の広間が一瞬で凍りついた。
先ほどまで流れていた楽団の演奏は止まり、笑い声も囁き声も、まるで嘘だったかのように消え去る。
無数の視線が集まる先は、広間の中央で胸を張る男。
恥ずかしながら、この男は私の婚約者——ディランである。
私たちの婚約は、彼の両親によって決められた、いわゆる政略的なものだった。
国に仕える聖女という立場にあっても、公爵家の嫡男との婚約を拒めるほど、私の立場は自由じゃない。
最初の頃は、それなりに穏やかに過ごしていたと思う。
だが最近は、彼の判断力のなさや責任感の欠如が目につき、正直なところ辟易していた。
だからこうして、彼の方から別れを告げてくれたことは——驚くほど、私にとって都合がよかった。
断る理由は特にない。
むしろ即答で婚約破棄を受け入れようと、私は口を開きかけた。
その瞬間だった。
「ディラン様、聖女様との婚約破棄って本気でしょうか?」
背後から聞こえたのは、落ち着いた男性の声。
彼はディランの領地に仕える近衛騎士——バールだ。
ディランとは幼少期からの友人で、何でも言い合える仲だと聞いている。
冷静で、周囲への気配りは欠かさず、職務に忠実な騎士。
少なくとも私の見立てでは、ディランよりずっと優秀だと思っている。
そんなバールからの疑問に、なんの違和感を持つ様子なくディランは答えた。
「あぁ、もちろん本気だ。逆に問おう、バール。ここまで無能な婚約者がこの世に存在するだろうか?」
その言葉を合図に、広間がざわめきを取り戻す。
貴族たちが顔を見合わせ、ひそひそと声を潜めて囁き合う。
「と、言いますと?」
「まず、こいつはほとんど家に帰ってこない。料理はおろか、家事もまったくしない。最後に会話したのがいつだったかも覚えていないくらいだ! 俺は他の男と不貞を働いてるのではないか、と疑っている。なぁバール、これが俺の婚約者って、おかしいと思わないか?」
一瞬、理解が追いつかなかった。
家に帰ってこない? 料理や家事をしない?
挙句の果てに、私が浮気している可能性がある、と言っているの?
この男は何を言っているのでしょうか。
反論しようとした私よりも先に、バールは口を開いた。
「おかしい、でしょうか? リリアナ様は聖女であって、ディラン様の侍女ではありませんよ?」
「な! バール、お前はどっちの味方なのだ! このポンコツ聖女の肩を持つのか!」
ディランの声が裏返る。
バールは呆れたように小さく首を振った。
その直後、右側から別の声が上がる。
「この国を最前線で守る聖女様になんという不遜な態度……」
「あぁ? 国を守る聖女様?」
さらに左から、背後から。
次々と声が重なり、場の空気が変わっていく。
……そういえば。
私は彼に、自分が日々何をしているのかを詳しく話したことがなかった。
聖女という存在を、当然理解しているものだと思っていた。
だから説明する必要すら感じていなかったのだ。
けれどどうやら——
彼は最初から、私という存在を理解していなかったらしい。
周囲の視線が自分に向けられていることに、ようやく違和感を覚え始めた頃には、
もはや婚約破棄の話題など、誰の関心からも消えていた。
私は小さく息を吐き、せっかくの機会なのでこの場で私の忙殺とした日々を説明してあげることにした。
「ディラン様、私は聖女ですよ。私の仕事、わかりますか?」
「なっ、もちろんわかっている……この国の結界を維持するだけの……」
「だけの」ね……。
その言い方が、すべてを物語っていた。
「はい、結界は維持します。でも、ディラン様が思っているほど、楽ではありませんよ」
それに、と私は続ける。
「私はそれ以外に魔物の討伐に参加したり、困窮している村へ行くことも少なくありません。屋敷へ帰る暇がないほど、とても忙しい日々を過ごしているのです」
「だ、だからどうしたというのだ!」
ディランの苦し紛れの反論は、会場にいる貴族たちから冷ややかな視線を向けられることなった。
そんな彼を同情した。
だけど、私のブレーキは彼の態度で壊れたらしい。
過去の不満を清算するように、私は続けた。
「あなたが家で寝転んで、仕事を他人に押し付けている間に、私は私しか出来ない仕事をしているんですよ? わかります? わかってくれますか?」
答えは返ってこなかった。
代わりに、重たい沈黙が広間を満たす。
やがて、誰かが小さく呟いた。
「……婚約破棄、ですか」
その声の主は騎士団長のジークだった。
彼がこの茶番に参加してくれることに、私は思わず驚いてしまった。
「リリアナ殿は、この国にとって不可欠な存在ですよ。ディラン様の婚約者として、多少不足はあったかもしれません。ですが、聖女としての彼女を馬鹿にするのは、ディラン様であろうと私は一切許しません」
ジークは騎士としての実力を認められ、国王から直々に推薦された人間だ。
生まれは庶民である彼だが、王族を守る立場でもある彼からの言葉には、さすがのディランも反論できなかった。
思わぬ援護に、ディランの顔は見る見るうちに青ざめていく。
そしてようやく、周囲の空気を汲み取ったのか。
拾われた犬のように大人しくなったディランは、私に頭を下げてきた。
「俺の勘違いだった、君がそこまで優秀だとは思いもしなかった……婚約破棄は取り消そう、また一からやり直そう」
説得される形で吐き出された言葉。
そこに誠意がなかったとは言わない。
けれど——もう遅い。
「謝罪は受け取れないです」
その声は、自分でも驚くほどに冷たかったと思う。
「あ、誤解されても困るので最初に言いますが、怒っているわけではありませんよ」
不満が溜まって、婚約破棄をしたかったのは彼だけじゃない。
婚約破棄できる立場になかっただけであって、できるのであれば交際一ヶ月目には婚約を解消したかったくらいだった。
だから、このチャンスは逃さない。絶対に。
「婚約は、破棄しましょう。いえ、した方が絶対に好都合です! お互いに!」
私は強く、その言葉を強調した。
彼に引き止めるように促す者や、呆れてため息しか出ない者など。
この広間は先程よりも賑やかになった。
晴れて、自由の身になった私はその場をあとにした。
それからしばらく、この話は貴族の間で持ち切りだった。
聖女に婚約破棄を突きつけた公爵家嫡男。
その判断の愚かさは、瞬く間に噂として広がった。
一方で、ディランから離れることに成功した私のもとに、次々と縁談の話が舞い込んできた。
家格も人柄も申し分のない相手ばかりだ。
悪い気はしない。
自分の価値が正しく評価されていることは理解できた。
けれど、釣書に目を通すたび、心は不思議なほど動かなかった。
誰かの隣に立つ未来を思い描こうとしても、頭に浮かぶのは魔物と相対する自分の姿ばかり。
恋をして、結婚して、子供に恵まれる。
それが幸せだという価値観を、否定するつもりはない。
ただ今の私には——
それらより優先すべきものが、あまりにも多かった。
今日も今日とて、魔物は待ってはくれない。
夜明け前の冷たい空気の中、馬車に揺られながら私はあの日の夜を思い出していた。
この手で守れるものがある限り、立ち止まる理由はない。
「……恋愛なんて、つまらないものね」
誰に聞かせるでもなく、ぽつりと呟いた。
この国には、守るべきものが多すぎる。
誰かの婚約者でいる暇など、今の私にはないのだから。
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