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僕は普通をやめた。彼女は“できないふり”を始めた。  作者: 妙原奇天


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第九章 君たちが思う障がい者って

 夜。

 アパートの一室に、冷蔵庫の低い唸りが漂っている。

 机の上には小さな録音機。赤いランプが、眠らない瞳のように点っている。


 安西直は、マイクの前に座っていた。

 指先でボタンを押す。カチ、と小さな音がして、部屋の空気が固まる。


 「……私は、君たちが思う“障がい者”を演じています」


 自分の声が、マイクの奥に吸い込まれていく。

 言葉は冷たく、震えない。

 「泣き虫で、喋れなくて、困ってばかり。そうすれば君たちは安心する。君たちの優しさが、傷つかずに済む」

 言葉を吐くたび、胸の奥が静かに削れていく気がした。


 「本当は、私は早口で、説明好きで、論理的です。でも、それを出すと“偉そう”“男っぽい”って言われる。だから、“女らしくて”“素直”な障がい者を演じてる。……演じると、褒められるんです」


 録音を止めた。

 再生ボタンを押す。


 スピーカーから、自分の声が流れ出す。

 それは、まるで他人の声だった。

 少し高く、少し柔らかく、どこか「正しい声」に聞こえる。


 「……障がい者って、可哀想な方が愛されるんですよ」


 吐き捨てるように呟いて、電源を切る。

 音が途切れる。部屋の中に、急に“現実”の音が戻ってくる。

 冷蔵庫の音、外の車のタイヤの摩擦、上の階の足音。どれも生きている音だ。

 けれど、安西は自分の声だけが、どこにも存在していない気がした。


 窓の外には、冬の街灯。

 光がアスファルトを照らすたび、影が流れる。

 「演じなければ、生きられない。でも、演じている限り、本当の自分はどこにもいない」

 呟きは音にならず、喉の奥で霧散した。


 翌朝。

 職場の空気は、いつも通り柔らかかった。

 朝礼が終わると同時に、古川理紗が笑顔で振り向く。

 「直ちゃん、昨日のデータ整理ありがと。助かったよ」

 「いえ、大したことじゃないです」

 定型文の返答。


 会議の時間になる。

 新しいプロジェクトの資料作成。

 課長が軽い口調で言った。

 「この件、安西さんにお願いしようか。大丈夫? できる?」


 安西は微笑む。

 「はい、できます」

 声のトーンを0.2下げ、語尾をやわらかくする。


 心の中では別の声が響く。

 “やってみれば、わかる”


 会議が終わり、自席に戻る。

 モニタの光の中で、キーボードが静かに打たれる。

 手は完璧な速度で動くが、途中であえて誤字をひとつ混ぜる。

 数字を一桁ずらす。ミスではない。計算された“失敗”。

 完璧であれば、「彼女にもできる」と認識が変わる。

 それは、善意を不安に変える危険を孕む。


 「#正確さを抑えることは、生存戦略」


 帰宅後、黒ノートの見出しにそう書く。

 ペン先がわずかに震え、紙に細い跡が残る。

 「自分の能力を隠すことが、社会適応になる」

 その言葉を見つめるうちに、胸の奥が冷たくなった。


 テレビをつける。

 ニュース番組。

 「障がい者雇用のいま」と大きく書かれたテロップが流れる。

 スタジオには笑顔のアナウンサー。

 画面の中では、若い男性がインタビューに答えている。

 涙ぐみながら言った。

 「支えてくれる人に感謝したいです」


 その瞬間、安西の手が止まった。

 リモコンを握りしめる。


 「感謝の強制」


 小さく呟く。

 誰も聞いていない部屋で、その言葉だけが響いた。


 感謝を言わなければ、恩知らずになる。

 恩を示さなければ、居場所がなくなる。

 「ありがとう」は、免罪符であり、鎖でもある。


 画面の中の男性の涙が、誰かの安心に変わっていくのが分かった。

 「泣く彼」を見て、「よかったね」と言う視聴者の顔が目に浮かぶ。

 それが、番組の作りたかった“希望”なのだろう。


 だが、その希望の下で、何人の“沈黙”が切り捨てられているのか。


 安西は立ち上がる。

 鏡の前に行く。

 薄暗い照明の中、自分の顔がぼんやり映る。


 「君たちが思う障がい者って、誰?」


 問いかける。

 鏡の中の唇が、同じ形で動く。

 答えは、どこにもない。


 沈黙。

 静かな部屋の空気が、心臓の鼓動を大きくする。


 「泣かないと、優しくされない」

 「笑わないと、安心してもらえない」

 「できすぎると、異物になる」

 「できなさすぎると、排除される」


 そのすべての狭間で、今日も私は“調整”をしている。


 ――ほんとうの私は、どこにいるのだろう。


 椅子に戻り、ノートを開く。

 インクが乾く前のページに、さっきの言葉を重ねるように書く。


 「#障がい者:他者の想像によって作られるキャラクター」


 手が止まる。

 目の奥が熱くなる。

 ペン先が小刻みに震え、インクがにじむ。


 泣くつもりはなかった。

 でも、涙は勝手に落ちた。


 「……私は、誰のために泣いているんだろう」


 窓の外では、冬の風が鳴っていた。

 遠くで救急車のサイレンが聞こえる。

 それは、誰かを助けに行く音なのに、

 なぜか自分を置き去りにしていくように聞こえた。


 テレビの音を消す。

 画面の中の若者が、無音で「ありがとう」と言う。

 唇の形だけが、はっきり見える。


 安西は深呼吸をして、目を閉じた。


 「ありがとう」

 自分の口で言ってみる。

 けれど、声にはならない。

 その言葉の中に、あまりにも多くの“意味”が詰め込まれすぎていた。


 “ありがとう”は、もう祈りではなく、服従の合図になっている。


 「君たちが思う障がい者って、誰?」

 再び問いを投げかける。

 返事は、やはりない。


 でも、鏡の奥の瞳だけは、確かに揺れていた。


 安西は照明を落とし、ベッドに腰を下ろす。

 録音機を手に取る。

 もう一度、録音ボタンを押す。


 「私は、今日も演じました。少しだけ失敗して、少しだけ笑って、ちゃんと“感じのいい子”をやりました」

 淡々と語る。

 「でも、もし世界が一度だけ私に質問をくれるなら――」


 息を吸い、ほんの少し笑って言った。


 「君たちは、誰を見て優しくなったの?」


 録音を止める。

 部屋の中で、静寂が膨らむ。

 それは、痛みでもあり、救いでもあった。


 ノートを閉じ、ペンを置く。

 目を閉じたまま、安西はゆっくりと呼吸を整える。

 その呼吸のリズムの中に、かすかな希望が混じっていることを、

 彼女自身はまだ知らなかった。


 ――次の朝、また“感じのいい子”を演じながらも、

 安西はほんの一瞬、会議の中で“言い切る声”を出す。


 その一秒の変化が、彼女の仮面に小さなひびを入れることになる。


 世界は気づかない。

 でも、そのひびの音は、確かに彼女の胸の奥で響いていた。

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