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僕は普通をやめた。彼女は“できないふり”を始めた。  作者: 妙原奇天


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第八章 仮面の会話

 土曜の午後、風の匂いが少しだけ甘かった。

 安西直は、カフェの窓際の席で指先をそっと膝に置いた。

 駅前の雑踏がガラス越しにゆっくり遠ざかっていく。鈴木優成が店のドアを押して入ってくる。灰色のパーカーにシャツを重ねて、やや無防備な姿。


 「待たせました」

 「いえ、私もさっき来たところです」


 小さな会釈。二人のあいだに、カップの並ぶ音が割り込む。

 会うのは、これが二度目。交流会のあとから、メッセージは途切れなかった。最初は他人行儀なやり取りだった。「次の会、出ますか」「天気、崩れそうですね」。

 けれど、ある夜、鈴木から「眠れない夜、ありますか」という一文が届いた。それが境界を変えた。

 安西は“おどおど”を少し緩めると決めていた。


 「ここ、静かでいいですね」

 「音が少ない方が、考えられます」

 鈴木は答えながら、ノートを取り出した。紙の端がめくれていて、使い込まれた跡があった。


 「君も書いてるの?」

 「え?」

 「自分のこと。僕、メモ魔なんです。これがないと頭がぐちゃぐちゃになる」


 安西も迷いながらバッグの中を探り、黒いノートを出した。偶然の一致に、小さく笑いが漏れる。


 「やっぱり」鈴木はうなずいた。「君、演技してるでしょ」


 安西の手が止まる。ペン先が紙に音を立てた。

 「どうしてそう思うんですか」

 「間の取り方が、訓練っぽい。それに、笑うときだけ肩が動く」


 安西は視線を落とし、笑顔を整えた。

 「観察力、すごいですね」

 「ごめん。でも、そういうの、気づいちゃうんです」

 「大丈夫。……あなたも、演技してるように見えます」

 鈴木が少し照れたように笑った。

 「まぁ、僕のは“素直なふり”かな」


 カフェのBGMが遠くに流れる。午後の日差しがカップの縁で揺れた。

 「演技してない人って、いないですよね」

 「そう思う。でも、僕はもう仮面を脱ぎたい」

 「私は逆です。仮面がないと死にます」

 「死ぬ?」

 「“甘えてる”って言われたくないから」


 鈴木は息をのむ。

 「……甘えって言葉、殺す力がありますよね」

 安西は静かにうなずく。

 「だから、私は先に“弱く見せる”。そうすれば、殺されずに済む」

 鈴木はカップを握る指先を見つめ、かすかに頷いた。


 「その方法は、君を守るけど、君を閉じ込めてもいる」

 「わかってます。でも、あなたの“素直”も、社会じゃ危ないですよ」


 二人は目を合わせないまま、互いを否定し、同時に理解していた。

 沈黙が、どちらの側にも傾かないまま続く。

 外の光がテーブルを這い、ノートの上に溶ける。


 鈴木がゆっくりノートをめくりながら言った。

 「僕、これ書いたんです。診断を受けた日の夜」

 ページには大きく書かれている。

 《#やっと名前がついた》

 「その時、すごく救われたんです。名前があるって、生き物に戻れた気がして」


 安西は自分のノートをめくり、昨日のページを見せる。

 《#優しさ:管理装置 #笑顔:鍵》

 「私は、名前を隠して生きてきました。出したら壊れる気がして」

 「出すか隠すか、どっちも生きるための技術ですよ」


 鈴木の声は穏やかだった。

 「でも、技術だけじゃ疲れる。君の声で、言葉を聞きたい」


 安西は息を飲んだ。

 「私の声、ですか」

 「君の素の声。演技じゃなくて、ただの声」


 喉の奥が熱くなる。言葉が浮かんで、すぐに沈んでいく。

 代わりに、カップの中でスプーンを回した。金属の音が、逃げた答えのかわりに鳴る。


 「……もし、その声が嫌われたら、どうしますか」

 「嫌われたら、また作り直します。僕は器用だから」

 鈴木が笑う。その笑いに、安西は少しだけ救われる。


 外の光が傾き始める。窓際の席に長い影が落ちた。

 「ねぇ」安西が口を開く。「あなた、どうしてそんなに平気なんですか」

 「平気じゃないですよ。ただ、壊れるのが怖くなくなっただけ」

 「怖くない?」

 「壊れたら、また組み直せばいい。ほら、仮面って、作り直せるでしょ」


 安西は黙って頷いた。

 カップの中のコーヒーはもう冷めていた。


 店を出ると、空が薄紫に染まっていた。

 駅までの道を並んで歩く。

 信号の赤が青に変わる。その瞬間、鈴木が立ち止まった。


 「君の素の声、好きだよ」


 安西は答えられなかった。青信号が点滅を始める。

 車のライトが横を過ぎる。世界が、わずかに眩しすぎた。


 夜、部屋に戻る。

 机の上で黒ノートを開く。

 震える手で一行を書く。

 《#素の声:他者の定義に奪われる危険》


 ページを閉じ、目を閉じる。

 今日の会話の残響が、耳の奥でまだ形を変えずに残っていた。

 あの言葉は、優しさにも似ていた。でも同時に、刃のようにも思えた。


 安西は深呼吸をする。

 呼吸のたびに、仮面の裏の肌が少しずつ温まる。

 彼女は思う。

 ――この仮面を脱ぐ日は、たぶんまだ先。

 でも、今日の会話は、その日へつながる最初の穴かもしれない。


 窓の外の街灯が、夜風に揺れた。

 安西はペンを握り直し、最後の一文を書き足した。

 《#仮面:呼吸の形。外せなくても、生きていける。》


 書き終えると、胸の奥の鼓動が少しだけ落ち着いた。

 遠くで踏切の音が鳴る。

 その音が、まだ誰にも奪われていない自分の声のように聞こえた。

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