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僕は普通をやめた。彼女は“できないふり”を始めた。  作者: 妙原奇天


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第六章 出会い

 土曜の朝の公民館は、雨上がりの匂いが薄く残っていた。自動ドアの向こう、掲示板の画鋲の周りには色あせたチラシが重なり、角がふわふわとめくれている。地域就労支援センターの交流会は、三階の小会議室。エレベーターの鏡に映った自分の顔を見て、安西直は一度だけ頬を指で押さえ、口角の位置を決めた。

 ドアを開けると、長机がコの字に並べられている。薄茶色のカーペットは前の回の湿気をまだ覚えているのか、繊維がところどころ重たく寝ていた。窓際には観葉植物。葉の先に小さな水滴が一つだけ残り、冷えた室内の風に合わせて震えている。

 「こんにちは。名札、こちらです」

 職員の女性がプラスチックのケースを手渡しながら、やわらかい声で言った。「緊張しなくていいですからね」

 その言葉と同時に肩に置かれた手の重さで、胸の奥のスイッチがかちりと入る。緊張している人、として扱われる場では、身体はその役割を探し当ててしまう。呼吸の速度が一段落ち、視線は相手の頬のあたりに固定される。

 「……はい、ありがとうございます」

 演技用の声が自然に出た。名札には「安西直」とひらがな付きで印刷されている。ケースの角が光をのせ、机の表面に細い白い線を描いた。

 席へ向かう途中、背の高い男性が荷物を椅子の脚に立てかけているのが視界に入る。黒のメモ帳。キャップの固いペン。席の端、壁側。自分が選びがちな場所は、もう埋まっていた。

 安西は窓側に回り、コの字の短い辺の角に座る。背後が起点になる位置は落ち着く。椅子を引く音をできるだけ短く切って、腰をおろす。手のひらの温度が名札の透明な表面に移って、すぐ曇った。

 開始時刻。司会が自己紹介を促す。時計の針が分を指す音は聞こえないのに、胸の中でだけカチカチと響く。参加者は十人ほど。年齢も雰囲気もばらばらだ。話し手の前に置かれた紙コップの水面が、言葉の抑揚ごとに小さく揺れるのを眺めていると、順番が近づいてくる気配が手の甲から伝わった。

 「では、そちらの方からお願いします」

 視線が一斉に移る。安西は紙コップを両手で包み、定めた台本の最初の行を舌の上に出す。

 「あの、私は……緊張しやすくて……えっと……前の職場では……」

 声帯の震えは設計通り。語尾を少し曖昧にする。目線は相手の眉間。沈黙を空気に含ませる。司会がすぐに微笑む。

 「ゆっくりでいいですよ」

 場が和らぐ音がした。成功。観測できる空気の温度が、ほんのすこしあたたかくなった。安西は内側でチェックを入れる。今日の「オド」は効いている。呼吸の幅が広がったふりをしながら、胸の奥では別の声が薄く笑う。

 「ありがとうございました。では、次の方」

 反対側の長い辺。黒いメモ帳の男性が立たずに座ったまま、名札を軽く指で押さえる。

 「鈴木です。最近、診断を受けました。……正直、ホッとしました。やっと、名前がついたので」

 声は硬いのに濁っていなかった。まっすぐな棒をすっと置くみたいな音。空調の風が一瞬だけ止まったように思える。安西の指先に、微小なざわめきが走る。思った以上に飾りがない。演技の匂いがしない。かといって、こちらの無理を煽る種類の素朴さでもない。

 嫉妬、と言いかけて、隣の紙コップの縁に目を落とす。嫉妬は筋肉を固くする。演技の邪魔になる。視線を逸らすのは台本通り。鈴木の側から見れば、目を逃がす人、と映っただろう。その逃がされた視線に、救われる人もいる。

 自己紹介はひと通り終わり、司会が小休憩を宣言する。椅子が床をこする音。紙コップのこすれる音。廊下から差す冷気。自販機へ向かう行列ができ、安西は三歩分だけ距離をとって並んだ。スイッチの光が縦に並び、ブラック、カフェオレ、ミルクティーの順に点滅している。

 「さっきの話、印象に残りました」

 肩の横に並んだ声。鈴木だった。名札の角度を調整するみたいに、軽く会釈を交わす。

 「えっ……」

 コップに落ちるコーヒーの筋を目で追う。熱の匂いが立ちのぼる。

 「名前がつくって、安心しますよね。僕も同じで」

 安西は演技用の相槌を探す。いつもなら、笑って、そうですよね、と言う。けれど舌がうまく回らなかった。言葉を探しているあいだの沈黙は、普通なら埋めるべき空白だ。ここでは、埋めない訓練をしている人がいるのかもしれない。鈴木は沈黙を壊さない。壊さないことが会話を続ける方法になる瞬間がある。薄い驚きが喉に落ちる。

 「……僕、前は健常者のふりをしてたんです」

 「ふり、ですか」

 「そう。誰にもバレないように。でも疲れて」

 紙コップの縁が指に触れて、熱が皮膚にのる。安西は笑いそうになった。笑ってしまうと、設計した「おどおど」が崩れる。笑わないで言葉にする。

 「私は逆なんです。障がい者のふり、してます」

 鈴木の瞬きが一回、はっきり増える。「どういう意味?」

 「らしくしないと、信じてもらえないから」

 言葉を置くと、目の前の空気が少しだけ沈んだ。鈴木は何も言わず、紙コップの中の黒を見つめる。沈黙は続くが、焦りは起きない。不思議だ。互いの仮面の形は違う。それでも重なって影になる部分は、確かにある。

 会場に戻る通路は狭い。壁の掲示に貼られた「誰でも話せる場に」という文字の横で、二人は並んで歩く。コの字の内側に戻る前、鈴木が小さく言う。

 「自然なんて、やめました。演技のほうが正直ですよ」

 足が止まる。安西は振り向き、彼の名札の字を読む。ゆっくり、いつもより低い声で言う。

 「その言葉、わかる気がします」

 喉の奥から出たその音は、準備していない高さだった。観測記録の用語で言えば、これは「おどおど」ではない。自分の声だ。驚いて、少しだけ笑ってしまう。笑いの震えが救いに見えないかどうか、内側の観客に確かめる余裕はもうない。

 席に戻ると、司会が「テーマトークに移ります」と言った。紙に印刷されたお題は三つ。仕事で助かった配慮、困った出来事、今ほしいもの。順番に話して、隣の人が一つだけ質問するというルール。簡単そうに見えて、この簡単さの中にはたくさんの拒絶の余地が仕込まれている。安西は、質問の角を丸めながら投げ返す練習をした。受けて、返す。硬い球は柔らかい布で包んでから。

 「助かった配慮、は、席の場所です。通路側は落ち着かないので、壁を背にすると仕事がしやすいです」

 安西が言うと、司会が目を細める。「なるほど。質問は」

 斜め前の女性が手を上げる。「壁を背にしたいって、どうやって言いました?」

 「具体的に、理由を一行にしました。通路で人が通ると集中が切れるので、と」

 「一行、いいですね」

 メモを取る音が重なった。その重なりの中に、鈴木のペン先の乾いた音も混ざっている。壁を背に、という言葉が彼のノートにどんな字で刻まれていくのか、ふと気になる。

 鈴木の番になる。彼は紙を見ない。

 「困ったのは、場の笑いに遅れること。遅れて笑うと空気が硬くなる。無理に笑うと吐き気がする。だから、笑わない練習をしています」

 部屋の空気が一瞬止まり、すぐに流れ直す。司会が「質問は」と促すと、若い男性が手をあげた。

 「笑わないと、感じ悪いって言われません?」

 「言われます。だから、言われたら『今日は笑わない日です』って答えることにしました」

 笑いが、今度はゆっくり広がる。鈴木は笑わない。笑わないで、肩の位置も変えない。作り物の冗談ではないけれど、空気は少しだけ軽くなった。

 そのあとの自由時間、安西は窓際に立ち、観葉植物の葉の先の水滴をもう一度確かめた。まだ残っている。落ちるタイミングを逃して、形が歪になった水滴は、光を不器用に集めている。指を近づければ、触る前に表面張力がほどけてしまいそうだった。

 「それ、気になります?」

 横に来たのはやはり鈴木だった。壁にもたれかかり、目線を植物と同じ高さに落とす。

 「落ちないな、と思って」

 「落ちないの、いいですね」

 「良くないときもありますよ」

 「あります」

 二人の会話は、短い。短いまま、にじむ。安西は深く息を吸って、すぐに吐いた。演技の配分をこの部屋の空気に合わせて変えることはできない。今日の自分は、ここに来るだけで一つ消費している。

 「直さん」

 名を呼ばれた。名札を読めば誰でも呼べるのに、その呼び方が上滑りしないのは珍しい。

 「僕、たぶん、君を見てると安心すると思う」

 「どうして」

 「君の『おどおど』は、僕の『素直』より計画的で、見ていて安全だから」

 安西は、笑いそうになって、笑わなかった。笑わないで首を傾ける。

「計画的な弱さ、ってことですか」

 「うん。でも、それを弱さと呼びたくない」

 「私も。あれは弱さのふりをした、防壁ですよ」

 「防壁」

 鈴木の目がわずかに柔らぐ。名付けがうまくいったときの手応え。安西は自分の胸の前、空中に線を描くみたいに指を動かした。

 「厚みがある。傷もある。だけど、誰かの頭上にまで伸びて影を作るときがあって、その影に他の誰かが入ってもいい」

 「僕、今日はその影に入ってます」

 「私も、誰かの影に入ってます」

 「直さん、演技が上手い」

 「あなたも、演技が上手い」

 「僕、演技してますか」

 「素直の演技」

 沈黙。二人で窓の外を見た。隣の建物の壁に、曇り空が薄く映っている。色はないのに、離れがたい。

 終了の合図が鳴る。司会が「次回も、話しても話さなくても大丈夫です」と締めくくる。参加者たちが順番に名札を返却し、アンケートを書き、帰り支度をする。通路で肩が触れないように、安西は少し歩幅を狭めた。ドアの前で振り返る。鈴木が係の人に何か礼を言っている。声は聞こえないが、口の動きがはっきりしている。ありがとう、の形。

 廊下に出ると、冷たい空気が肺に刺さった。安西はエレベーターを待たず、階段を選ぶ。下りの音を一段ずつ確かめる。階段の踊り場の窓から見える街路樹の葉の端が、さっきの観葉植物よりも乱暴に揺れていた。

 一階で外に出る。雲がほどけて、少しだけ光が覗く。公民館の前のベンチは濡れていない。座ろうかどうか迷っているうちに、足が勝手に止まった。

 「直さん」

 背後からの声に振り返る。鈴木が数歩離れたところで立ち止まり、距離を測るように一度足元を見る。

 「さっきの、『らしくしないと信じてもらえない』、あれ、すごく覚えておきます」

 「覚えなくていいですよ。疲れるから」

 「疲れても、覚えてたい」

 「どうして」

 「今日、僕は『自然を装わない』って決めてきたので。装わないために、誰かの言葉が要るから」

 安西は、笑った。今度は笑った。風が頬に当たって、笑いを少しだけ流してくれる。笑っても、壊れないと知っている笑い。

 「じゃあ、お互い、練習ですね」

 「練習」

 鈴木はうなずき、胸ポケットから小さなノートを出した。表紙の角がすでに擦れている。ボールペンで何かを一行書き、見せないまま閉じる。

 「今のを、書きました」

 「私は、持ってくるのを忘れました」

 「次、見せ合います?」

 「見せ合うのは緊張しますけど」

 「緊張しないで、は言いません」

 「それ、安心します」

 二人の会話は短いまま、まっすぐだった。

 信号が青になる。車の音が一瞬増え、また引いていく。鈴木が小さく手を振る。安西も、名札の代わりに自分の胸元を押さえながら手を上げた。

 「では」

 「では」

 それだけで別れる。名前を呼ばない。連絡先を聞かない。聞けないのではなく、今はここで止める練習をしているのだと、安西は自分に言い聞かせる。歩き出すと、ポケットの中のスマホが一度だけ振動した。センターからの「今日は来てくださってありがとうございました」という定型文だ。画面を伏せて、しまう。

 バス通りへ出る角で、安西は足を止めた。ガラスに映った自分の顔は、焦点を決めかねていた。唇は、やや下がっている。演技の角度だった。指でそっと触れ、少しだけ上げる。すぐ戻す。戻した自分の顔を、じっと見る。

 「自然なんて、やめました」

 さっきの鈴木の言葉を、小さく真似してみる。口の中で転がすと、思ったより苦くない。むしろ甘い後味が残る。演技のほうが正直。そうかもしれない。正直という言葉は刃物だけれど、刃の角度を変えれば、紐を切るための道具になる。

 家に着くまで、喉の奥に何度か言葉が浮かんでは消えた。黒い表紙の「観測記録」と、白い表紙の「役柄指示」。机に置いた二冊のノートは朝からそのままだ。椅子に座って、まず白を開く。今日の役名「オド」。設定の欄に、薄く斜線を引く。役は終わりじゃない。更新だ。更新の欄に書く。

 「交流会:演技の比率を下げても、破綻しない」

 黒いノートに移る。今日の言葉の欄に、二行。

 「演技のほうが、正直」

 「らしくしないと、信じてもらえない」

 行間を広く取った。呼吸がしやすいように。ページの隅に、小さくもう一つ加える。

 「初めて『おどおど』じゃない声が出た」

 ペン先のインクがわずかに滲み、紙がほんの少し波打つ。波打つページを手のひらで押さえ、目を閉じる。浮かぶのは、薄い光の差す窓と、黒いメモ帳の乾いた音。そこに、消耗の気配はある。あるのに、なぜか吸い込む息は軽い。

 スマホが一度だけ鳴った。知らない番号。胸の芯が固くなる。出ない。留守電に落ちる短い電子音の間、窓の外の雲が、遠くでやっとほどけた。薄い青が一枚だけ見えた。今日は、それで十分だと思うことにする。

 夜。湯を沸かし直して、マグに注ぐ。湯気は相変わらず性格がない。まっすぐ上り、途中でほどける。そのほどけ方は毎回違うのに、安心するという結果だけは同じだ。机の端に名札を伏せる。透明のケース越しに、自分の名前が裏から読めなくなる。読めないのは不安だが、裏返して休ませる時間も必要だとわかってきた。

 窓辺に立ち、夜気を吸い込む。口の中に、今日の会場のコーヒーの苦さが少し残っている。安西は小さく呟く。

 「おやすみ」

 誰に向けてもいない。届かなくてもいい。声は弱く、しかし演技ではない。ガラスに映る口が、それを確認するみたいにゆっくり閉じた。

 ベッドに横になってから、もう一度ノートを手に取る。ページの余白に、明日の自分への短い指示を書く。

 「目を見過ぎない。沈黙を怖がらない。ふたりぶんの影を、少しだけ広げる」

 ふたり、の文字を消して、一人、と書き直す。すぐまた、ふたり、に戻す。手の中のペンが笑った気がして、安西も笑った。笑う練習は、今夜はもういらない。目を閉じる。世界は静かではない。でも、静かになる場所を今日は一瞬だけ見つけた。そこへ戻る手順を、身体が覚え始めている。

 眠りの手前で、鈴木の声がもう一度、部屋の空気の中に浮かぶ。

 自然なんて、やめました。演技のほうが正直ですよ。

 その言葉は、刃でも嘘でもなく、今日の自分の枕の高さにぴたりと合った。安西は深く息を吸い、ゆっくり吐いた。吐いた先に、薄い光がにじみ、そこで章が静かに途切れた。

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