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僕は普通をやめた。彼女は“できないふり”を始めた。  作者: 妙原奇天


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第4章 鈴木優成、壊れる

 月曜の朝は、鏡の中の自分に人間のふりを教え込むところから始まる。

 ネクタイの結び目を作る手が、今朝もわずかに震えていた。まず大剣を回して、結び目の中心に指を差し込み、そこへ滑らせる。動画の通りに、ゆっくり。けれどゆっくりにすると、震えがよく見える。見えると、震えは勝手に増える。

 止め方を検索した夜のことを思い出す。深呼吸、筋弛緩、四秒吸って七秒吐く。覚えた通りにやっても、手は言うことを聞かない。鏡は正直で、残酷だ。

 「大丈夫。大丈夫」

 声に出してみる。音は出た。けれど、自分の声なのに少し遠い。締めたネクタイの結びを指で押さえて、シャツの襟に収める。よし、と言うかわりに、歯を合わせた。

 玄関の扉を開けると、都会の朝の匂いが流れ込んだ。金属と排気とコーヒーの混じった香り。高架を電車が滑っていく音。リズムは均一なのに、耳の奥では波が立つ。

 雑談の初手は天気。目を見るのは二秒から三秒。笑顔を絶やさない。これをやれば、普通になる。普通に見える。ずっとそう教えられてきた。

 エレベーターの鏡で口角を持ち上げる練習を一度だけして、オフィスのフロアに入る。照明が白く、床のカーペットに足を置くたび、静かな反発が靴裏から返る。デスクへ向かう通路は、月曜の人の流れで狭くなる。肩が触れないように身を薄くしながら「おはようございます」と言う。

 「おはよう、鈴木」

 「おはよう」

 「暑いねえ。もう夏だよ」

 「そうですね。梅雨はどこいったんですかね」

 天気。合格。笑う。二秒。視線を外す。

 よし。まだ大丈夫。

 朝会。部長の冗談で場が和む時間。

 「昨日さ、娘のほうがプレゼン上手いって妻に言われちゃってさ」

 笑いが広がる。

 私も笑う。頭の中でテンポを数える、ワン、ツー、で口角を上げる。けれどコンマ一秒遅れた気がして、笑いの輪から微妙に外れた。輪の外は冷たい。温度が一度下がる。胸の奥で、薄い氷が張る音がした。

 「じゃ、今日の予定。鈴木、お前、午後一の先方対応、頼むな」

 「はい」

 声の高さが少し上ずった。すぐに喉を締め直して、手元のノートに書く。午後一、先方対応。言葉は正しい。できるかどうかは別だ。

 午前の仕事に入る。メールを移動し、案件のリストを更新し、営業資料の最後のページに地図を差し込む。カチ、カチ、とマウスの音だけが小さく響く。集中が続けば、世界は薄くなる。薄くなれば、普通に近くなる。

 だが、蛍光灯の唸りが、ふと音量を上げた。プリンタが紙を吐き出す駆動音が重なる。電話の呼び出し音が、遠く近く同時に鳴った。三つが重なると、耳の中で周波数がぶつかる。

 胸がきゅっと縮む。喉の後ろが砂になったみたいに乾く。指先に汗が出る。

 「すみません、資料……」

 声をかけられて、身体が跳ねた。

 「あ、はい」

 返す声がやけに大きくて、周りの視線が少し集まる。視線は光だ。光は熱だ。熱でさらに汗が出る。

 呼吸が浅い。吸って、吐いて、が上手くいかない。胸の中の蛇口が固くなって、回らない。

 立ち上がる。歩く。トイレに向かう。個室の鍵をかけて、しゃがむ。冷たい床に手をつく。

 目の前の白い壁に、細い線が走っている。傷だ。古い、誰かの爪かもしれない。視界を固定すると、波は少しだけ弱くなる。

 「……」

 涙が出る。泣かないほうがいい。泣くと弱いことになる。弱いことになると、ここにいられなくなる。頭の中でそんな文脈が、勝手にスクロールする。

 息。四秒吸って、七秒吐く。数える。数える声が小さく出る。

 「いち、に、さん、し」

 指先の震えが、ゆっくり弱まる。胸の蛇口が、少しだけ回る。

 収束した。大丈夫、今は大丈夫。紙で目を押さえて赤みを減らす。水で頬を冷やす。鏡の前で笑顔を一つ作る。練習通り。

 席に戻ると、同僚が「大丈夫?」とスタンプの顔で訊いてくる。親切だ。スタンプは軽い。軽さは救いのはずなのに、限界の影を見えなくする布でもある。

 「大丈夫です」

 そう打って、しばらく画面から目を離す。

 午前の終わりに、小さな誤送信をした。別の部署へ送るはずの資料を、同姓の人へ送ってしまったのだ。

 「ドンマイ」

 上司は笑う。肩を軽く叩く。

 「気にするな。お前は考えすぎ」

 考えすぎる脳を止めるスイッチがあるなら、誰か教えてほしい。

 「すみません」

 謝ると、楽になる。けれど、謝ることは、ここにいる権利を一枚ずつ薄くしていく感覚もある。薄くなっていく紙を、指先で数えるみたいに、私は爪を立てて机の角を押した。

 午後一の先方対応は、緊張の割に短く終わった。名刺を交換し、挨拶をし、必要な情報を確認する。相手の目を見る。二秒から三秒。笑う。相槌。ほどよい沈黙。

 会議室を出ると、足の裏に砂を詰めたみたいな重さがあった。椅子に座ると、その砂はすっと消えて、代わりに背中が冷えた。空調の風向きが変わったのだ。

 「大丈夫か?」

 上司が通りすがりに言う。

 「はい、問題ありません」

 言葉は正しい。身体は、正しくない。けれど言わない。言わないことは、ここでは技術だ。

 終業前、チェックしたメールの件名が二つ並んでいた。

 先方至急/対応。

 先方至急/対応(再)。

 再、を見た瞬間、指先から肩まで、血が逆流したみたいに熱くなる。体内にある全ての警報が鳴る。落ちつけ、と心のどこかが命令する。落ちつけの声は小さい。警報は大きい。

 「鈴木」

 呼ばれて、顔を上げる。

 「あの件、先方が内容確認もう一回って」

 「すぐ対応します」

 声が自動で出る。椅子を引いて立ち上がり、画面に向かう。手が、また震えた。震えた手でタイピングをしながら、心のどこかで思う。よくもまあ、こんなに毎日、壊れずに動くな、と。壊れているのに、動くな、と。

 帰り道、電車の窓に映る顔は、会社の蛍光灯より優しい色で照らされているのに、疲れは隠れない。家に着いて、シャツを脱ぎ、ソファに沈む。スマホを手に取る。

 検索履歴の欄に、今日の私が整列していた。

 仕事 行けない

 息苦しい 止め方

 動悸 止める

 発達障害 大人

 指先でタップすると、記事が開く。自閉スペクトラム。ASD。特徴の項目に、私の一日が並んでいる。音や光に過敏。予定外に弱い。雑談の文脈を読むのが遅い。

 胸の奥が熱くなる。熱いのに、少しだけ楽だ。名前がある。これは怠けでも、性格でも、気合い不足でもない。脳のつくりだ。構造だ。

 ページを閉じて、天井を見上げる。石膏の細い継ぎ目が、ゆっくりと輪郭を持つ。

 明日、病院に行こう。そう決める。決めると、決めたことの重さで目が閉じる。眠りは浅い。それでも眠る。浅い睡眠にも名前があると、どこかで誰かが書いていた。

 翌日。午前休を取り、精神科のクリニックへ向かう。

 待合室は、白い椅子と植物の緑で、つくられた安らぎの形をしていた。壁には「こころの不調」というポスター。こころの形は見えないのに、「不調」という語はやけに具体的に思える。

 受付で名前を書き、番号札をもらう。呼ばれるまで、壁の時計の秒針を数える。秒針の音はしないのに、頭の中で音がする。

 順番が来た。診察室のドアが静かに閉まる。白衣の医師は、落ち着いた声で、淡々と質問を重ねる。

 「小さいころから、音に敏感でしたか」

 「はい。運動会のピストルの音が、とても苦手でした」

 「雑談は得意ですか」

 「得意ではないです。何を話せば正解か、分からなくなることが多いです」

「予定外のことが起きたとき」

 「硬直します。身体が、止まります」

 医師は頷き、メモを取る。

 「最近、呼吸が苦しくなったことは」

 「昨日、会社で。トイレでしゃがみました」

 「そうでしたか」

 質問は続く。私はできるだけ“素のまま”に答えようとする。けれど“素”が何か、もう分からない。普通のふりを塗り重ねた層の下に、何があるのか。何層も重なって、境目が曖昧だ。

 それでも、医師の方は迷わない。困ることの具体を、一つずつ棚に置くみたいに並べていく。

 「検査をいくつかさせてください」

 アンケート。図形を並べる課題。次々に出され、私は次々に埋める。正解や不正解の話ではなく、傾向を見るためだと、医師は言った。

 待合室に一度戻され、また呼ばれた。

 「鈴木さん」

 診察室の椅子に座る。

 医師は紙をめくり、こちらを見る。

 「自閉スペクトラム。いわゆるASDの傾向が、はっきり出ています」

 瞬間、肩から何かが落ちた。重りをずっと持って歩いていたことに、やっと気づく感じ。落ちた音はしない。けれど、胸の真ん中が、少し広くなった。

 涙が出る。抑えようとすると、余計に出る。

 「名前がつくことは、助けになることが多いです。説明がしやすくなりますし、何に困りやすいかが共有できます」

 医師はティッシュを差し出す。手の甲で涙を拭いて、それからティッシュを受け取る。

 「ありがとうございます」

 お礼の言葉は、ただの礼ではない。動いてくれた何かに対して、こちらが今できる最小の動作だ。

 診断名は、紙の上の活字になって手渡された。印字された自分の名前と、そのすぐ下にあるASDという四文字が、奇妙に相性がいいように見える。私の人生のフォントを指定し直されたみたいな感覚。

 医師は続ける。

 「職場では、感覚過敏の対策を。イヤホンや席の配慮、予定の事前共有。雑談に関しては、負担にならない範囲を自分でも線引きして良いと思います。『今は集中したいので後で』などのフレーズを用意しておくと、楽になることがあります」

 私は頷く。頷く動作に、少しだけ熱が戻る。

 「薬も選択肢ではありますが、生活の調整から始めるのが良いでしょう」

 「はい」

 「家族や会社への説明、必要でしたら文書の形でこちらからもお手伝いします」

 「……お願いします」

 医師はパソコンに文面の雛形を呼び出す。短い文章。配慮の必要事項。客観の語り。私がいつも欲しかった“第三者の言葉”。

 診察が終わって、会計を済ませると、外の空は低かった。けれど、少しだけ高くもあった。言葉に矛盾があるけれど、身体はそう感じた。

 公園のベンチに腰を下ろし、紙袋から診断書を取り出して、もう一度読む。活字は静かだ。静かなのに、心臓の音が近くなる。

 スマホを開いて、メモに書く。

 「やっと名前がついた」

 打ち終えた瞬間、指先の震えが止まった。

 ここから、どうするか。

 母に言うべきか。会社に言うべきか。言えば、何かが守られる。何かが失われる。守られるのは、私の呼吸。失われるのは、普通の仮面。

 仮面がなければ、私はここにいられなかった。仮面があるから、壊れた。

 ベンチの上で、手のひらを上に向けて開く。風が通る。風には性格がない。通り過ぎるだけだ。

 私は小さく笑う。笑顔に意味をつけない、という練習を、ここでもやってみる。誰かに向けた笑顔じゃない。誰にも見えない笑顔。

 「大丈夫」

 言葉は小さい。小さいけれど、今日の自分にはちょうどいい。

 夕方、母に電話をかけるか迷って、やめた。準備のない会話は、怪我をする。明日、言葉を用意してからにしよう。

 代わりに、会社へメールを打つ。

 件名:診断についてのご報告とご相談。

 本文。自閉スペクトラムの診断を受けたこと。感覚過敏と予定外への対応の難しさ。配慮があれば、業務の継続が可能であると医師が述べていること。必要であれば障がい者雇用枠での検討も視野に入れること。

 送信ボタンを押す指は、今朝のネクタイよりも静かだ。

 すぐに返信が来た。

 了解。無理のない形を一緒に考えましょう。障がい者雇用枠も検討してみよう。

 画面の文字は優しい。優しいのに、胸の奥で別の感情が立ち上がる。枠、という言葉。枠に押し込まれれば、守られる。押し込まれれば、囲われる。

 「ありがとう」と返して、スマホを伏せる。

 テーブルに置かれた診断書の端が、ほんの少し反り返っていた。紙も、疲れると丸くなる。私と同じだ。

 夜。簡単な夕飯を済ませ、シャワーを浴びて、床に座る。

 今日のことを、箇条書きにする。

 ・朝、ネクタイで手が震えた。

 ・午前、音の重なりでパニック。トイレで収束。

・誤送信。ドンマイ。

 ・検索。ASDのページ。

 ・診断。名前がついた。

 ・会社に報告。枠、という言葉。

 最後の行だけ、ゆっくり書く。

 ・不安も始まった。この名前を、社会に見せたとき、何が起きるのか。

 ペンを置く。

 部屋の隅に置いた観葉植物の葉が、エアコンの風でわずかに揺れている。揺れは規則的ではない。予告はない。けれど、見ていると落ち着く。

 私の人生にとって、規則は救いだ。規則のない揺れも、救いになるときがある。

 ベッドに横になり、天井を見上げる。

 明日は、必要な配慮を自分の言葉で伝える。できるだけ短い文にする。

 「電話は三コール目で取ります」

 「席は、通路から一つ内側を希望します」

 「雑談は、午前中は控えたいです。午後に余力があれば」

 フレーズを繰り返す。声には出さない。口の中で転がす。

 大丈夫。

 息を吸う。四秒。吐く。七秒。

 眠りは浅いかもしれない。それでも、眠る。浅いのに、意味はある。

 目を閉じる直前、スマホが震えた。画面を見れば、交流会で会った支援センターの担当からメッセージが来ていた。

 「診断、お疲れさまでした。明日、もし時間があればお電話ください」

 ありがとう、と打つ。

 おやすみ、と打たない。まだおやすみと言えるほど、今日を使い切った気がしない。

 それでも、電気を消す。

 真っ暗ではない。カーテンの隙間から、街の灯が細く入ってくる。

 世界は明るいのに、暗い。暗いのに、少し明るい。

 矛盾の中で、私は呼吸する。

 それが、今の私にできる全部だ。

 そして、それで、今日は十分だと思うようにする。

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