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僕は普通をやめた。彼女は“できないふり”を始めた。  作者: 妙原奇天


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第2章 普通のふりの効用

 朝礼の輪は、いつも同じ速さで回る。掛け声、ラジオ体操の楽曲、笑うところで笑う人の位置。私は輪の外側に立つ。声出し担当に当たらない立ち位置は、床の模様で覚えた。非常口マークの三歩手前、柱の影の角度がちょうど顔を半分隠すあたり。そこだと、目が合わない。目が合わないのは、今日の私には都合がいい。

 新任の課長が輪の中心で手を叩く。軽い音が天井へ跳ねて、また降りてくる。

 「多様性の時代だからね」

 課長はそう言う。声は明るく、言葉は軽やかに滑る。「誰でも活躍できる職場に」

 拍手。周囲の掌の音に、私の掌も合わせる。音が合うと安心される。

 そのすぐあと、冗談が飛ぶ。

 「安西さんはムリしないで、重いものは男子に」

 笑いがひと呼吸遅れて波立つ。

 私は笑って頷く。枠の内側に身体を畳む。枠の外に立つ姿勢は、今日の私には用意されていない。

 メモを握る手に汗がにじむ。紙は湿ると強くなる。破れにくくなるのが、少し好きだ。

 自席に戻ると、午前のメニューはデータ整理。整然と並ぶ行と列は、今日の私にやさしい。順番に従えば、たいていのものは収まる。収まらないのは、突発の電話。電話は私の耳から侵入して、頭の中の配線を少しだけ焼く。その焼け跡は、午後まで痛い。

 片耳にイヤホンをさす。音楽は流さない。侵入経路を塞ぐための栓としてそこにある。画面の端に小さく付箋を貼る。「電話は二コール以内で取らない」。

 二コールで取ると「機敏」に見える。機敏は次の期待を呼ぶ。期待は峰の位置を上げる。峰の位置が上がると、そこから転げ落ちたときの音も大きい。だから三コール目に柔らかい声で出る。すると「慎重で丁寧」に見える。ラベルは貼ってもらうより、自分で選びたい。選べるものが少ないほど、選んだラベルは強くなる。

 画面の中の数字は、私に従順だ。セルを跨いで数式を引き、桁を揃え、端を整える。整う音はしないのに、耳の奥で確かに何かが「カチ」と鳴る。

 「直ちゃん、体調どう?」

 総務の古川理紗さんがデスクの淵に手を置いて覗く。

 「大丈夫です。ありがとうございます」

 語尾を柔らかく落とす。相手の目は眉間の一センチ下まで。二秒。

 「無理しないでね」

 理紗さんの「無理しないで」は、優しい。優しい言葉は檻の形をしている。金属ではない。肉眼で見えない柔らかな格子。肩にふわりとかけられるひざ掛けのふりをして、動ける範囲を静かに狭める。

 「はい」

 私は笑って頷く。笑って頷くと、檻はますます私にぴったり合う。“ぴったり”は安全の別名だ。

 十時。電話が鳴る。一度目の呼び出しの間に、私はカーソルを保存ボタンの上で止める。二度目の呼び出しで、画面を閉じる。三度目、受話器を持ち上げる。

 「お電話ありがとうございます。総務の安西です」

 声の高さを半段落とす。

 「あの書類、急ぎで……」

 依頼者の早口の波を、メモの線で受け止める。復唱は一つ飛ばす。すべてを復唱すると、安心されすぎて、次からも電話が来る。安心は時々、呼び水だ。

 「承知しました。お時間、少しいただいてもいいですか」

 「いつまで?」

 「本日中に」

 “今すぐ”と言わない。言えばできる。できると、できる扱いが続く。できる扱いは、私の身体をゆっくりと削る。

 受話器を置くと、心拍が二つ早い。椅子の背に一度もたれて、視界の端に観葉植物の緑を入れる。葉の縁は鋸のように波打っている。その規則が目を落ち着かせる。

 昼。食堂は油と湯気の匂いで満ちている。席を選ぶとき、私は壁側に座る。背中を空間に向けるのは苦手だ。向けると、背中の皮膚に目が生えたみたいに騒がしい。

 理紗さんがトレイを持って向かいに座る。

「直ちゃん、無理しないでね」

 今日は朝にもらった言葉を、昼にもらう。

 「ありがとうございます」

 スプーンで味噌汁の表面を一度だけ撫でる。油が小さく割れて、またくっつく。

 「今度、支援センターの交流会あるんだ。直ちゃんも話してみない?」

 「えっと……人前は苦手で」

 台本の通りに断る。

 「だよね」

 理紗さんは笑って、納得する。

 “納得の容易さ”が、演技の成功を証明してしまう。うまくやれている、と確認できる。うまくやれてしまう自分が、時々嫌いだ。嫌いは、でも、役に立つ。嫌いの正体を眺めると、危ない場所がわかる。そこを避けて歩くのが、今日の生き残り方だ。

 食後の廊下は明るい。窓からの光で床に四角い列ができる。四角を踏まないように歩くと、気持ちが整う。

 社内チャットが鳴る。若手のアイコンが小さく跳ねる。

 安西さん、資料の精度すごいですね。

 褒められることは嫌いではない。息が少しだけ温かくなる。

 続けて一文。

 障がいがあるのに、努力していて尊敬します。

 “のに”。

 平仮名三文字が膝の上に落ちる。落ちて、重さだけが残る。

 「ありがとうございます、まだまだです」

 返してから、膝の上で手を強く握る。強く握ると、人差し指の骨の角がはっきり分かる。骨の形は嘘をつかない。その硬さに、今だけ寄りかかる。

 私が演じている“わかりやすい弱さ”は、相手の中にあるステレオタイプを健全化する危険を持っている。知っている。それでも、演じなければ「障がい者に甘えてる?」という刃が戻る。二択の拷問。刃と檻。どちらに触れても痛む。

 午後三時。コピー機の前で紙を揃えていると、背後で誰かが小さく噂をする。

 「直ちゃんって、落ち着いてていいよね」

 「うん、控えめで優しい感じ」

 優しい、という形容は、私の周囲にクッションを置く。クッションは転ばないように置かれる。転ばないのはいいことだ。けれど、走れない距離が増える。

 私は紙束の角を揃えながら、呼吸の速度を落とす。角がぴたりと揃う瞬間の音を、耳の奥で聞く。音はしない。けれど私は聞く。自分が整えたという感覚は、耳に似ている。

 定時。デスクの引き出しを閉める。机の上に付箋を残す。「明日:電話三コール」。この小さな字を明日の私が見つけることで、明日が少し安全になる。

 帰路はバスを選ぶ。座席の布は、洗剤と古い日光の匂い。前方に公共広告が貼ってある。

 障害は個性。

 軽い標語に、苛立ちが走る。個性と言い換えられたとき、制度や構造の責任はどこへ行くのか。言葉が軽いと、誰かが楽になる。楽になる誰かの顔は、たいてい善良だ。

 黒ノートを膝に開く。

 #効用:攻撃回避。

 #代償:偏見維持。

 両者を天秤に置く。今日も前者を選んだ自分を責めるのはやめよう、と書き足す。

 “やめよう”。

 自己慰撫の言葉は柔らかい。柔らかいのに、どこか嘘の匂いがする。

 窓の外、夕焼けの色が看板の角で折れる。折れ目に影が溜まる。影は、私の中にも同じ形で溜まる。

 部屋に戻る。玄関で靴を脱ぐ時間を長めにとる。靴の縁に指をかけ、ゆっくり引き抜く。ゆっくりやると、身体が温度を取り戻す。

 白ノートを開く。今日の作戦の欄に、新しい行を入れる。

 明日は“ゆっくり話す”比率を下げ、言い切り文を一回だけ入れる。

 小さな反逆。仮面の内側に、素顔が呼吸する隙間を一ミリだけ作る試み。

 鉛筆で線を一本引く。線は短い。短い線でも、明日はそこを目指せる。目指す地点がある日は、夜が少し軽い。

 冷蔵庫の中身は少ない。豆腐、卵、ポン酢。豆腐を皿に移し、ねぎを散らす。咀嚼の回数を数える。数えると、胃の中の気配が穏やかになる。

 スマホのタイムラインに記事が流れてくる。

 発達障害女性の成功体験。

 眩しい見出しの中に、整った笑顔と達成の言葉。

 彼女たちの努力は尊い。尊いのに、私はざわつく。

 社会は“頑張ればできる”の物語だけを選んで増幅し、“できない日の現実”を切り捨てる。切り捨てられた現実は、雨の日に置き去りにされた傘みたいに、誰かの足元で静かに濡れている。

画面を閉じる。

 窓を開ける。夜の空気が、部屋の壁紙の匂いを薄める。遠くで犬が吠える。風の音。

 静けさは、嘘が混じらない数少ない情報だ。

 呼吸が少しだけ深くなる。

 「俺は明日、言い切りを一回だけ言う」

 暗闇に向かって、低く短い宣言。声は部屋の角でほどける。ほどけた音は、床に沈んで見えなくなる。見えないのに、たしかにそこにある。

 翌朝。朝礼の輪は、やはり同じ速さで回る。私は外側に立つ。非常口マークの三歩手前。柱の影の角度。

 「直ちゃん、声出しお願いしていい?」

 いつもと違う声が飛ぶ。新任の課長がこちらを見る。

 胸の奥の歯車が一つ、逆回転する。

 「……はい」

 声は少し震えた。震えたのに、私の足は前に出る。

 全員の視線が一斉にこちらに集まる。光が反射して、瞳の中が明るい。

 「おはようございます」

 言い切りの形を探す。探しながら、見つける。

 「今日の安全目標は、『確認を一度で終わらせず、二重に行う』です」

 語尾を伸ばさず、まっすぐ置く。

 空気が少しだけ揺れる。

 「ありがとうございます」

 課長の声が被る。

 私は持ち場に戻る。心拍のリズムが乱れて、耳の奥が熱い。

 でも、言えた。一回。

 付箋に小さく書く。

 言い切り×1。成功。

 “成功”の二文字を、自分で与える。誰かからの評価ではなく、今日の私から今日の私へ。

 午前の電話は、三回鳴った。私は三回目で出た。「安西です」

 「至急、お願い」

 「至急ですか。午後一でお持ちします」

 “今すぐ”と言わないことを、今日も選ぶ。選ぶことそのものが、身体の体温を保つ。

 エクセルのセルの端にカーソルを置く。角が黒く太る。小さな四角が、今日の私の四角だ。

 昼、食堂の湯気。理紗さんがまた言う。

 「直ちゃん、無理しないでね」

 返事をする前に、私の舌の上に言い切りの形が乗る。

 「大丈夫です。必要なときは、私から言います」

 自分でも驚くほど、声は静かだった。

 理紗さんが少し目を丸くして、それから微笑んだ。

 「うん、分かった」

 椀の表面の油がまた割れて、くっつく。くっつく線が、さっきの言葉をなぞる。

 言い切り×2。成功。

 付箋に書く。指先が少し震える。震えは緊張だ。緊張は、まだ正しく生きているという証明に見える。

 午後、社内チャットのDM。

 安西さん、お願いしていた件、助かりました。

 ありがとうございます、と返す前に、画面の向こうの誰かが続ける。

 障がいがあるのに、ほんとに助かります。

 “のに”。

 私は一度だけ目を閉じる。まぶたの裏に血の色が広がる。

 そして、タイピングする。

 「こちらこそ。配慮をいただきながら成果を出せるよう、進めています」

 “配慮”という語を自分の口から出す。自分の口から出すと、その言葉は少し私のものになる。他人の口から出された“のに”よりも、少しだけ重さを変えられる。

 夕方、小さなミスを一つだけ見つける。小数点の桁が一つずれている。誰も気づかないだろう。気づかれないミスは、時々、必要だ。完璧に仕上げると、ラベルが外れる。外れたラベルの代わりに貼られるのは、素顔だ。素顔は、刃の前に立つには薄い。

 私は桁を直す。直して、備考欄に「再確認済み」と書く。

 今日は、演技で守るより、作業で守る。守り方は一つじゃない。守り方の種類を増やすことが、私の生存戦略の更新になる。

 退勤時間。バスの窓に顔を映す。映る顔は“感じがいい”の角度から、ほんの少しだけずれている。ずれは、今日の言い切りの分だけだ。

 広告の「障害は個性」が、夕日の色を吸って淡くなっている。

 黒ノートをまた膝に開く。

 #効用:攻撃回避。

 #代償:偏見維持。

 行の間に、一行を差し込む。

 #微調整:自己定義の奪還(1ミリ)。

 一ミリ。笑ってしまうほど小さい。けれど、一ミリずれると、次の日の立ち位置はもう同じ場所じゃない。非常口マークの三歩手前が、二歩半になる日がいつか来るかもしれない。私がそれを見落とさなければ。

 夜。部屋の明かりは低い。白ノートに、明日の作戦を書く。

 ・ゆっくり比率をさらに下げる(二割→一割)。

 ・言い切り文をもう一回。

 ・「無理しないで」に対して「必要なときは伝えます」を固定文に。

 ・電話は三コール。

 箇条書きの最後に、ひとつだけ線を引かない項目を置く。

 ・笑顔の回数、減らす。

 笑顔は鍵。鍵を持つのは私。でも、鍵を回すのは、私だけじゃない日がある。鍵穴の位置を私が決められる日を、増やしたい。

 シャワーを浴びる。三十八度。水滴の音がタイルの上で規則正しく跳ねる。数えない。数えないことを選ぶ夜もある。数えないと、身体のほうが勝手に数をやめる。

 ベッドに入って、暗闇に向かって言う。

 「俺は、明日も一回、言い切る」

 今日は“俺”で言った。

 カーテンの隙間から入る街灯の光が、天井に薄い四角を描く。四角は昼の床と違って、踏めない。踏めない四角を見るのは、案外安心する。

 胸の真ん中で、小さな音がする。

 それは、明日の合図みたいに聞こえた。

 翌日、朝礼の輪は相変わらず回る。非常口マークの手前に立つ。私は二歩半で止まる。昨日より半歩、内側。

 課長がまた言う。

 「多様性の時代だからね」

 言葉は、昨日と同じ速さで滑る。

 私は、昨日とは違う速さで頷く。頷きの角度が、少しだけ小さい。

 「安西さん、昨日の資料、助かったよ」

 「いえ。次回は、確認の手順を最初から二重にします」

 言い切り×3。成功。

 誰も拍手はしない。しないけれど、私の内側で小さな拍手の音がした。耳の奥、骨の間。

 “普通のふり”は今日も効いている。効いているからこそ、私は一ミリずつ配合を変える。ふりをやめる勇気は、まだない。やめない選択は、恥ではない。やめないことで生きられるなら、それでいい。

 でも、一ミリのずれは、私が私に返す小さなプレゼントだ。

 たとえそれが、誰の目にも見えないとしても。

 見えないまま、明日の私を暖める種火になる。

 私の胸の中で、火はまだ小さい。けれど、消えない。

 消えない火の前で、私はノートを閉じ、ゆっくり息を吸う。

 息を吐く。

 それから、笑わずに廊下を歩く。

 笑わない私を、誰も責めなかった。

 誰も気づかなかった。

 それでいい。今日は、それで十分だ。

 十分という言葉を、私は今日の最後の付箋に書いた。

 付箋は小さい。小さいけれど、紙は湿ると強い。

 今日も少し汗を吸って、角がやわらかい。

 やわらかい角は、指に馴染む。

 その感触のまま、私は定時を越えない時間にパソコンを閉じた。

 閉じた音が、やけにきれいに響いた。

 きれいな音は、今日の終わりの合図だ。

 合図に従って、私は帰る。

 帰る場所が一つでもあるのは、やっぱり強い。

 その強さに少しだけ甘えて、私はバスの席で目を閉じる。

 目を閉じたまま、次の一ミリのことを考える。

 明日も、言い切りを一回。

 それだけ。

 それだけを、私は今日の私に約束した。

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