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僕は普通をやめた。彼女は“できないふり”を始めた。  作者: 妙原奇天


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第十一章 偏見の再生産

 週明けの朝、支援センターからの一斉メールが届いた。件名は「サイト更新のお知らせ」。洗面台の縁にスマホを置き、口をすすぎながらスワイプする。トップに大きな画像が並び、その一角に見覚えのある輪郭があった。肩をすぼめ、両手を前でそっと組み、口角だけを控えめに上げた人物。淡いベージュのカーディガン。薄いピンクのリップ。視線はカメラの真ん中ではなく、レンズの少し外。

 安西直――私だった。

 《働く発達障害者の成功事例》という見出しの下で、私の写真は柔らかな照明を浴びていた。撮影のとき、スタッフに言われた言葉を思い出す。「おどおどした感じが出てて、印象いいですよ」。褒め言葉に変換された指示。私は笑ってうなずいた。拒絶のための言葉を持ち合わせていなかった。あの場では、断ることが「空気を壊す人」になる合図だった。

 記事をスクロールする。《がんばる発達障害女性・安西直さん》。キャプションの文字は丸く、励ましの色で塗られている。本文はセンター職員の言葉で書かれていた。「彼女は控えめで、優しい性格。苦手を受け入れ、努力して成長している」。

 画面の中の私は、できのいい“物語の人物”だった。読みやすく、安心でき、最後に「希望」を配布できる、都合のよい登場人物。

 電車の揺れの中でスマホを伏せ、窓に映る自分の顔を眺めた。映像の私は、ほんの少しだけ上唇が震えている。震えに気づくのは、私だけだ。そう決めた瞬間、胸のあたりで小さく音がした。何かが欠ける音。いや、何度目かの、同じ音。

 出社して、朝礼が終わる。いつもより視線が集まる気がした。気のせいかもしれないが、気のせいでない場面が続いて、それは気のせいでなくなっていく。午前はルーチンを淡々と進め、画面上の数字の粒を揃える。指先はいつも通りに動く。頭の奥では記事の文字が白く光り続ける。

 昼休み、食堂の入り口で古川理紗がスマホを掲げて駆け寄ってきた。

 「直ちゃん、見た見た? 載ってるじゃん! すごいね!」

 周囲からも顔がのぞく。

 「え、安西さんって発達障害なんだ?」

 「見えないねー」

 「努力してるんだね」

 笑い声と軽い感嘆が混ざる。笑いの合間に「へえ」の高さがいくつも揃う。私は笑って言う。

 「ありがとうございます」

 いつもの柔らかい声。語尾に丸み。肩の角度を二度調整。役の段取りは、身体が覚えている。

 「いやあ、こういうの大事だよ」と新任課長が箸を持ったまま言う。「多様性の時代、ね。がんばってる人が見えるのは、職場の士気にもなるし」

 士気。私は笑う。士気を高める写真の中の私は、確かに“役に立って”いた。だから、その価値を疑うのは自分の席を蹴ることに等しい。

 「直ちゃん、“無理しないでね”。しんどい時は言って。記事にも書いてあったけど、素直に頼るのって大事だよ」

 理紗の声は真剣だった。檻の鍵は、いつだって光って見えるように磨かれている。

 トレーの陰で爪を握る。親指の腹に人差し指の爪が食い込む感覚は、痛みというより合図。今は、演じる。返し台詞は短く。

 「はい、ありがとうございます」

 午後、若手社員からチャットが飛ぶ。「記事読みました! めちゃくちゃ勇気もらいました!」。続けて、「障がいがあるのに頑張ってて尊敬します」。

 その“のに”は、ひらがなでもカタカナでもなく、骨だった。軽く見えるのに、折れない骨。私は指先で打つ。「ありがとうございます、まだまだです」。

 送信してすぐ、PCの前で両手を膝に置く。何かが内側でわずかに泡立って、それから静かに沈む。心の底にパッキンを敷くように、泡の跡を押さえ込む。

 夕方、トイレの個室に逃げる。バッグから黒ノートを取り出して、ページの端に短く書く。

 《#偏見の再生産:善意経由の暴力》

 善意は通行証だ。どの扉も簡単に通れる。だからこそ、誰かの居室にまで入ってしまう。靴を脱がないまま、ベッドの端に座ってしまう。

 ドアの外で蛇口の音が鳴る。紙を閉じ、深呼吸して鏡に戻る。目の縁が赤い。赤いのは、疲れの色だ。泣いてない。泣かない。それは私の役のルール。

 定時を少し過ぎて帰宅する。部屋の明かりをつけ、靴を脱ぎながらスマホの通知をまとめて開く。センターのサイトのリンクがXで拡散されていた。記事の下にコメント欄が伸びている。「健常者の私もがんばらなきゃ」「かわいい人だね」「優しい目をしてる」。

 悪意はない。むしろ、丁寧に選ばれた言葉たち。包み紙は薄桃色。開けば砂糖。だけど、舌がないとき、砂糖は窒息の粉だ。

 指が勝手にスクロールを止める。コメントをひとつひとつ、声に出さずに読み、喉の奥で砕く。砕いた粉は一度肺に入り、目の奥に滲む。私は声を出さない。声は音になり、音は証拠になる。証拠が増えるほど、物語は硬くなる。

 「優しい目」。

 私の目は、優しく写るように角度を調整された。照明の向きも、カメラの位置も、スタッフの声の高さも、全部、優しい目のために設定された。

 「かわいい」。

 かわいいは扱いの単語だ。軽い物を片手で持ち上げる時に出る声の高さ。かわいいものは軽い。軽いものは、投げても傷つかないと思われる。

 「健常者の私もがんばらなきゃ」。

 それは呪文だ。唱えている人にとっては自分の背中を押す魔法。唱えられているこちらにとっては、名札に針を刺す手の動き。

 机に向かい、白ノートを開く。ページの中央に線を引き、左右に書き分ける。

 左側に《効用》。右側に《代償》。

 効用の欄には短く。「攻撃回避」「道が一本増える」。

 代償の欄には長く。「偏見維持」「“のに”構文の増殖」「かわいいの固定化」「優しさの監視」。

 ペン先が紙の繊維を拾って、インクがじわりと広がる。広がるのを止めない。広がった形で残す。広がり方こそ、今日の記録。

 スマホが振動した。メッセージの差出人は鈴木。

 《記事、見たよ》

 《笑えるでしょ》と返した指が、打ち終えてから止まる。“笑える”は、私が自分を守るために使う仮面の言い回し。鈴木には、もう少し薄い仮面でもいいのかもしれない。それでも、癖は先に出る。

 間を置かずに返事が届く。

 《いや、笑えなかった。君が苦しそうで》

 “苦しそう”。他人の視線の単語。胸の内側で小さな軋みが走る。見抜かれる痛みと、見てくれる救いの間で、肋骨がきしむ。

 さらに続く。

 《でも、君はそこに立ってる。それは強い》

 《演技してるだけ》と私は返す。

 数分の沈黙。画面の右側の三点リーダが点く。消える。点く。消える。

 やがて来た一文。

 《その演技が、僕の現実を守ってる気がする》

 メッセージを見つめる。目が乾く。乾いた目で、涙は出ない。代わりに、肩に溜まっていた力がふっと抜ける。

 机の端に黒ノートを引き寄せ、新しい項目を加える。

 《#演技の副作用:誰かの希望になる》

 希望。

 希望は、怖い言葉だ。期待と同じ棚に並べられ、時々、刃を持つ。けれど、希望がまったくない場所は、息を吸う前に肺が萎む。

 私の演技が、誰かの現実を守る。そうだとしたら、それは私にとっての救いになるのか。あるいは、さらに重い役を渡されることになるのか。

 ノートに続ける。

 「偽りが、他者の真実を支える。支えてしまう。支えられてしまう」

 支えられる、という受け身の音に、ようやく小さな温度が灯る。今日はそれでいい。明日は別の温度かもしれない。

 その夜、私は記憶の再生ボタンを押すように、撮影の日を思い出した。白い背景紙。折り畳み式のレフ板。スタッフの明るい声。「もう少し肩、すぼめてみましょうか。あ、いいですいいです。かわいい」。シャッター音のあと、モニタに映る私。「印象がやわらかくて、すごくいい」。

 あの場で、私は一度も「やめてください」と言えなかった。写真が嫌だったわけではない。ただ、写される“私”が自分でないことを知っていて、それでもその“私”を他人に配布する役を引き受けた。それが構造の中で生きる方法だと理解していた。理解していたから、余計にしんどかった。

 撮影後、レフ板の縁に指を添えたときの感触だけは、妙にはっきり覚えている。アルミの冷たさ。軽さ。軽いのに、広げると世界の光を変える。道具のまわりで、現実が少し正される。正し方はいつも、“みんなが見やすい方向”だった。

 スマホを伏せ、窓を開ける。夜風がカーテンを揺らす。遠くで誰かが笑っている。笑い声は、善意に似ている。軽く、よく響き、誰の心にも入り込む。入ったあと、どこへ行く?

 鏡の前に立ち、写真のポーズを真似してみる。肩をすぼめ、目線をレンズの少し外に。唇だけで笑う。

 「印象いいですよ」

 口の中だけで再生した言葉に、背中の筋が冷える。次に、意識的に肩を下ろす。顎をわずかに引き、目線をまっすぐ鏡へ。口の角を上げない。

 そこに映る私は、記事の中の私より“わかりにくい”。わかりにくい顔は使いにくい。だから、使われない。使われない顔で街に出るのは、少し怖い。

 でも、わかりにくいことの中にしか、呼吸の隙間がない日がある。

 机に戻り、改めてコメント欄を読み返す。「勇気もらった」「私もがんばる」「かわいい」。スクロールを止め、目を閉じる。

 心の中で、見えない赤ペンで線を引く。

 かわいい──扱いの単語。

優しい目──演出の成果。

のに──関係助詞の刃。

 勇気──消費されやすい燃料。

 がんばる──義務の言い換え。

 全部に「×」を付けるわけではない。全部に「○」を付けることもしない。今日は、ただ注釈を入れる。注釈の多い世界で、私はやっと息ができる。

 ベッドサイドにスマホを置く前に、鈴木へもう一通だけ送る。

 《写真の私、借り物なんだよ》

 すぐ既読がついて、返事が来た。

 《借り物でも、君の持ち方は本物だと思う》

 持ち方。

 そうだ、持ち方だ。私たちは、配られた言葉や枠や写真を、持ち方で変える。軽そうに持つと軽く見える。丁寧に持つと丁寧に見える。怒って握ると、凶器に見える。

 私は今日、笑って持った。それが誰かの現実を守り、誰かの偏見を強化した。両方いっぺんに起きることを、私はようやく言葉にできるようになってきた。

 電気を消し、暗闇で目を閉じる。

 浅い呼吸。耳の奥の静けさ。

 眠りに落ちる前、黒ノートの最後の行に小さな文字で足す。

 「今日の演技:職場で“ありがとうございます”二回。記事についての質問に“がんばります”一回。内心の反論、声に出さずゼロ回。泣きそう一回、未遂」

 未遂。

 未遂で終わった涙が、眼窩のどこかで眠っている。次に起きるとき、誰の前で、どの役で、どんな言葉と一緒に出るのだろう。

 わからないままで、目を閉じる。

 善意の街は眠らない。眠らない街で、私の仮面は今日も呼吸している。息の通り道は細く、時々詰まる。それでも、ここを通る空気だけが、確かに私のものだと思える瞬間がある。

 その瞬間のために、明日も私は、演じることを選ぶ。選んだことを、またノートに書く。ノートに書くことを、私の“反撃”と呼ぶ。

 反撃は静かで、長い。長い反撃の途中で、誰かの希望になってしまう日がある。私はその日を、ただ受け入れる。受け入れて、注釈を入れる。注釈の余白に、小さな印を付ける。

 「ここに息がある」と。

 印は他人には見えない。見えないけれど、私には光って見える。

 それで今日は、十分だった。

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