10章54話 精神の限界と暴走
構えを解く。腰元を探って音を止めたレヴォリオに尋ねた。
「延長戦、するか?」
「……必要ない。引き分けだ」
気をつけ、礼をした後、二人ともその場に崩れ落ちた。
歯を食いしばる。五分間、ギリギリまで使ってようやく一本。それに、先制された。実戦なら既に死んでいる。
確かに強敵だった。でも上回れる部分があった以上、勝てない相手だったとも思わない。もう少し集中力が生きていれば。これまで休んだ日の一日でも稽古ができていれば。悔しくて、仕方なかった。
だが、夕日に照らされたレヴォリオの顔もまた、悔しそうだった。彼は正直に感情を吐き出した。
「くそっ! 後半の俺はお前の掌の上だった。余裕で勝てると思ってた、屈辱だよ……」
どちらが先ともなく立ち上がった。
息を整え、レヴォリオの目を見る。
「レヴォリオは強い。見事に急所を刺されたよ。満足か」
彼は剣を納めて項垂れた。
「ああ、もうムカついてはいない……でも、納得はいかねえよ。ルークは、もっと日の当たる場所で、評価されるべきだ」
俺も剣を背中に納める。
「ありがとう。お前ほどの剣士に褒められたら悪い気はしないよ。……でも俺は、色々と不自由だ。身の程は弁えなきゃな」
レヴォリオは、剣を交えた相手として、俺の事を案ずるような声色で食い下がった。
「お前の戦闘力ならいくらでも稼ぎ方はあるだろ。個人での傭兵稼業も悪くないらしいから、やってみたらどうだ? 名が売れるぞ」
それは、俺も考えたことがある。
「……俺は田舎者だ。ゼフキにはコネもツテもないから、信頼は一から築く事になる。住む所や資金だってない。病気で体調も覚束無いどころか、偏見まで持たれる。自力で安定して食えるようになるまで、どれだけかかると思う?」
自分に言い聞かせるように噛み締めた。
「戦えるだけじゃ、生きていけない」
無理やり生きてる自分への嫌悪が心を締め付けて、呼吸が浅く細くなる。苦しくて、胸を押さえた。
レヴォリオは悔しそうに俯いて、言葉を続けた。
「そもそも、なんで心の病なんかになったんだよ。これだけ強くなるまで頑張れる奴なんだろ? 何があったんだ、誰のせいなんだ」
「えっ……」
俺は強い? 頑張れる奴? 何があった? 誰のせい?
頭が熱くなって凍る。自分の心の中で硬く絡まった糸を、無理やり引っ張られているようだ。口だけが馬鹿みたいにカタカタと動いて、息ができない。
だが、彼の言葉は止まってくれない。
「しばらく落ち込んで、立ち直った知人がいる。お前に何があったか知らないが、そういう時期がある人は珍しくない。気にしすぎなんじゃないか」
立ち直れない俺が悪いってこと? 気にしすぎな俺が悪いってこと? だから俺はずっと苦しいの? 視界が揺れて狭まっていく。
ああ、どこかで逃げておけば良かった。チャンスはあっただろう。経験上、不躾なこいつの態度が柔らかくなった時点で、激痛を伴う気遣いを食らうことくらい想像できた筈だ。会話なんてする必要なかった。俺を認める言葉に絆されて油断してしまった。昼の時は警戒していたから余裕を見せられたんだ、完全にやられた。
今からでも逃げるべきだが、身動きが取れない。彼を制する声すら出せない。耳も塞げない。
なのにどうして、あいつの言葉だけはっきりと聞き取れるのか。頼むレヴォリオ、どうか俺の様子に気づいてくれ。やめろ。分かった、分かったから――。
「気持ちの持ち方や考え方を変えたらどうだ。悩みを解消して、沢山食って寝れば、あとは時間が――」
限界だ。もう耐えられない。
その感覚を最後に頭の中が弾けて、身体がおかしくなる。
「……ひひっ。はっ、はあっ、ヒュッ――ふぅっぐ、うっぷ――」
はっと顔を上げたレヴォリオが困惑している。ふらつきながら、両腕で体を強く抱いた。僅かに残った理性で心身の暴走を抑える。
「げっほ……うっ、ふぅっ。はっ、はあー……あっへへへ、ははは」
ああ、止まらねえ。レヴォリオが一歩足を引いた。そうだよな。今の俺、やべえよな。それだけは分かる。見ないでくれよ。
どうした俺。しっかりしろ。抑えろ抑えろ抑えろ、止まれ止まれ止まれ!
「あああ。うー。あー…………ひくっ、うっ、ううっ、ぐ」
頭の暴走が収まったのと入れ替わりで、涙と嗚咽が吹き出た。
拳を強く握って背を丸め、腹の底から叫び散らす。
「あああああぁうるさいうるさいうるさい! あっは、はははは! 馬鹿なこと言ってくれるよなあ! そんなこと、もうとっくに、死ぬほどやってんだよ!」
感情の昂りが声を震わせる。喜怒哀楽のどれで叫んでるかも、今俺がどんな顔をしてるのかも分からないが、レヴォリオが俺に向ける表情は竦然としていた。
「沢山食って寝て! 気にすんな忘れろって言い聞かせて! 考え方や気持ちを変えて! 考えすぎて何に悩んでるかも分からなくなって! 時間だって充分過ぎるほど経ったっての!」
涙が次々と頬を伝い、声が湿る。
「――それでも、俺は病気なんだよ! 治んねえんだ! …………治んねえんだよ……」
レヴォリオは何も言わない。俺も、もう続ける言葉はない。
黄昏が、俺の影を目の前に黒く伸ばしていて、気味が悪かった。
痙攣する体で必死に吸った息を、吐き捨てる。
「俺のことも、病気のことも、理解してくれなくていい。だから、もう、触れないでくれ」
目元を拭い、過呼吸で痺れる頭と身体を引き摺りながら、足を前へ運ぶ。
「――仕事の話は、明日の朝十時、ここに集合で」
立ち尽くす彼の横を通って、歩み去った。
宿に戻り、一人でのろのろと食事を済ませた。胃が痛くてつらかった。
受付に預けた荷物を受け取って、二階へと上がる。デコイス市の時と同様、男女に分けて部屋を借りているので、カルミアさんとログマと同室だ。
綺麗で広い部屋だ。暖色の照明が心を癒す。トイレとシャワーも別のようだし、一通りの宿泊用備品が揃っていた。結構、いい宿なのではないか。
洗面所やトイレ、クローゼットを開け閉めして進み、ようやくベッドのスペースに着く。
一番奥のベッドに寝転んだログマが、俺を見るなりニヤッと笑った。
「よお、お帰り。左肩、見てみろよ」
言う通りにすると、肩当の下のシャツ部分に翡翠のピンが付いていた。――霊術力で使える盗聴器。
ピンをむしり取って投げつけた。
「なんでこんなもん持って来てんだよ! ああもう、お前はいっつも俺を面白がりやがって!」
ケタケタ笑うログマが憎らしい。
一方、椅子に座って晩酌するカルミアさんは、苦笑して俺を労った。
「先に帰ってごめんね。きっとあの時かわして一緒に帰っても、今後しつこくルークを攻撃すると思ったんだ。これでも俺達なりに心配して、聴かせてもらってた。あんなの、よく一人で対応したよ。本当にお疲れ様」
本当に心配してたのか? 夜の分の薬瓶の栓を抜きながら、不貞腐れた口調で返した。
「ご心配どうも……結構はっきり言ったし、これで、あいつの不躾な言葉が無くなるといいんだけど」
ログマがまたふざけた声を上げる。
「言ってたな。あーうるさいうるさいーって」
カルミアさんに羽交締めにされたせいで、ログマを殴れなかった。




