7章34話 いくじなしなの
7章 涙の理由
デコイス市から帰ったすぐ後から、雨季に入った。
俺はこの季節の変わり目に見事にやられて、鬱々と引きこもる日が続いた。
休んだ日は部屋のドアに『今日は休みます』と貼り紙をした。
だが、来る日も来る日も、ベッドから起き上がれない。起き上がれても、身だしなみを整えられない。人に会う怖さに打ち勝てない。
ついに諦めて『二週間休みます。ごめんなさい』という紙を貼った。
メモに『生きてます、食事は不要です』と書いて小窓から出す事だけは毎日やった。自殺疑惑はお互いの為にならないからだ。
寝たり起きたりの不規則な生活を続けた。皆が寝静まったであろう午前三時頃にこっそり出ていき、洗濯と食料確保を一気に済ませた。食品倉庫の自分のスペースに、保存のきく食べ物をストックしておいて良かった。
雨音を聞きながら一人でいると、孤独感が強まった。辛いのは俺だけではないと理性では分かっているのに、感情がついてこない。
寂しい。でも誰かに助けを求めるのも怖い。ただただ涙を流し続けた。
久しぶりに憂鬱が強まったこの三週間は、本当にキツかった。自分が嫌で、社会が怖くて、時間が経つ事が不安で、全てから逃げるために死にたかった。でも生きてさえいれば良い事もあると知っていたから、耐えた。
ほんの一週間前。午前中全部を使って準備を整え、ドアの前で立ち竦んだ後、ようやく部屋の外に出た。
皆に笑顔を向けられて本当にほっとした。会わない間に嫌われているかもと、酷く不安だったからだ。
本格的に夏が始まった。カーテンの隙間から明るい朝日が差し込んでいる。今日も快晴らしい。
「だる……あっつ……しにてえ……」
弱音だらけの心身に鞭打って着替える。暑いが、短いズボンは好みじゃない。半袖と七分丈のズボンで耐えてみせる。
食堂に入ると、夏の装いの四人が既に揃っていた。エプロンを着けたケインがムニエルを並べている。
「おはよう。ごめん、寝坊した」
皆がぱらぱらと挨拶を返してくれる。
こちらに背を向ける形で座るカルミアさんが、半身で微笑みかけてくれた。
「最近調子悪そうだねえ。やっぱ、最近の暑さにやられてる?」
「そうらしい……ロハって本当に涼しかったんだなぁ」
言いながら端の席に着いて気づいた。ウィルルの表情が酷く暗い。
それだけではない。紺のブラウスから伸びる細い腕には力が入り、微かに震えていた。身を縮めて怯えているのだ。俺達を慕ってくれていた筈なのに、自分から進んで除け者になろうとしているように見えた。
「いただきます」
挨拶を最後に、広い食堂に食器の音だけが響く。
――こういう食事風景は、時々ある事だ。誰かの機嫌が悪いと、皆が察して無言になる。心配しているものの、気持ちを想像しすぎる故に関わり方を悩んでしまうのだ。
今回その雰囲気を破ったのはケイン。彼女はスープを掬いながら、心配そうに尋ねた。
「……ルルちゃん、何かあった? 顔色悪いよ。良かったら、聞かせて?」
ケインの優しい声が、ウィルルの涙を堰き止めていた何かを崩したらしい。
「うっ……ひっく……うぅ……」
顔を覆って嗚咽を堪えようとしながら、苦しそうに泣く彼女。ログマがため息をついてケインへ言った。
「泣かせんなよ」
「泣きたい時は泣いた方がいいの!」
「……そうですかい。よく分かんねえな」
皆で宥めてなんとか朝食を完食し、洗い物は後回しで懇談スペースへ集まった。
色白の顔を赤く火照らせたウィルルの背中に、隣のケインが手を添える。
「話せるところからでいいから、聞かせて?」
ウィルルはこくんと頷いてスカートを握り、細い声で話し出した。
「嫌な夢を見て、沢山思い出しちゃった。皆にも嫌われちゃったら、寂しくて耐えられないって――怖くなっちゃった」
思い出した、と。皆にも、と……。
彼女は深く頭を下げた。
「ごめんなさい。皆に気を遣わせたいわけじゃなかったの。でも、泣いちゃって。ごめんなさい……」
黙って背をさするケイン。何処かを見て考える顔をしているログマ。眉尻を下げるカルミアさん。皆、それぞれの形で心配している。
カルミアさんが優しく語りかける。
「ウィルル。君が入社して、二年とちょっとだね。こうして泣くこと、何回かあったでしょう?」
ウィルルはびくっと身体を強ばらせて顔を上げ、怯えきった目でカルミアさんを見た。
彼は笑顔で両手を振って見せる。
「怒ってないし、嫌ってないよ。心配なんだ。何か辛いことを抱えてるなら、頼って欲しいな」
ウィルルは顔を歪め、嗚咽を漏らし始めた。
裏表を作らない彼女の言動は、いつも真っ直ぐに俺の心へ届く。それは今も同じだ。
「ふぐっ……うっく……」
悲しくて苦しくて寂しくて。行き場のない辛さが伝わる。なのに皆に心配をかけたくない一心で、嗚咽を噛み殺そうとしている。彼女の優しさが痛々しくてたまらない。
俺には何も言えなかった。無理に話さなくてもいい。とにかく泣いて楽になって欲しいと思った。
しかしログマは違った。
「おい、腑抜け」
つい、感情のままに咎めた。
「ログマ、口の悪さが過ぎるぞ!」
「黙れ。俺はそこの弱虫に話してる」
「この……!」
弱りきった彼女に、その弱さを詰るような言葉を投げかけるログマを許せなかった。でも、身を乗り出しかけた俺の腕を、隣のカルミアさんが引いた。そして彼は、ゆっくりと首を横に振った。
……泣いている彼女の横で喧嘩するのも、違うか……。言葉を呑み込み、腰を落ち着けた。
ログマは平坦な調子で話す。
「ウィルル。お前、中途半端なんだよ」
彼女は顔を上げ、潤んだ紅い瞳をログマに向けた。
「中途半端……?」
「そうだ。お前は意気地なしだろ?」
「うぅっ……いくじなしなの……」
「それが分かっているのに、なんで甘えないようにしてるんだ?」
ウィルルはその言葉を受けて目を強く瞑り、両側のこめかみをとんとんと指で叩く。彼女が考えている時の癖だ。
「えと……いくじなしだけど甘えないようにしてるのは、迷惑かけたくないから、だよ」
ログマは容赦なく舌打ちを返し、膝を揺らしながら言った。
「ここで泣いてる時点で、迷惑かけてんの。甘えてんだよ。そのくせに頑なに頼ろうとしねえ。どっちかにしろ」
「う、うう……迷惑かけて、甘えて、ごめんなさ――」
「ああクソ! そこじゃねえよ! もう甘えてんだから、全力で寄りかかってもいいだろって言ってんだ!」
「ふえぇ! 怖いよぉ! ごめんなさいぃ!」
そこそこ良いことを言っているのに、全然伝わらないログマの不器用さが不憫になってきた。勿論、その不器用さをぶつけられているウィルルも不憫だ……。
そっぽを向いてしまったログマの言葉を代弁しようかと考えていたら、ケインが優しく話し出した。
「ルルちゃん。ログマは、甘えてもいいって言ってるんだよ」
びしょびしょの顔を向けたウィルルに、ケインは数枚のちり紙を差し出す。
鼻をかんだウィルルの肩を、ケインが優しく抱いた。
「私達の前で泣いてくれて、すっごく嬉しいよ。もう泣いちゃったんだし、思い切って甘えん坊になってみない?」
抱きしめられたウィルルは、俯いて震えた。
「甘えていいの……?」
「もちろんだよ。私達は、ルルちゃんが頼ってくれるのを待ってるんだよ」
ケインはウィルルの身も心も包み込みながら、向かいのログマを睨んだ。
「ね、そう言う事でしょお? ログマ?」
彼女の優しくも通る声には、いいえと言わせない圧があった。
流石のログマも素直に答えざるを得ない。
「チッ……そうだよ……寄りかかれって言っただろうが……」
せっかくちり紙で綺麗になったウィルルの顔がまた歪む。彼女はケインを抱き返し、わんわんと泣いた。
ひとしきり泣いた後、彼女は笑った。愛嬌のある泣き笑いは、朝露に濡れた可憐な白い花のようだった。
「えへへ。そばにいてくれてありがと、皆。泣いてもいいんだって安心したの。私、これからも嫌われないように頑張るね」
彼女につられて、皆の顔も緩んだ。
しかし俺は、上手く笑えなかった。嫌われないように頑張る、は危うい。それ即ち、頑張らないと嫌われるという考え方だ。……俺と同じ、苦しい考え方だ。
ログマがわざとらしいため息をついて立ち上がる。
「やれやれ、時間食ったな。そろそろレイジとダンカムも出勤だ、仕事するぞ」
皆が掲示板へと向かう。少し遅れて続いたウィルルの華奢な背中は、しゃんと伸びて頼もしかった。
それからウィルルは泣かなかった。生き生きと様々な事に取り組み、成果をメンバーに報告して、自慢げに胸を張る姿をよく見た。
そしてある日の裏庭。引きこもって鈍った身体を鍛え直していた俺に寄って来て、真剣な顔で言った。
「あのねルーク。私、試したい技が色々あるの。きっと前より役に立てると思うの。でもやっぱり自信はなくて。もしよければ、実戦で試したくて……。あの、お仕事……」
とても前向きな相談に、俺の気持ちも上向いた。木剣を下ろして汗を拭い、笑って見せる。
「いいね、やろう。皆のお財布事情もそろそろ気になるところだ。近々調整するから、待ってて。頼りにしてるよ!」
「……えへへ、嬉しいな。ルーク、ありがと! 私、頑張るからね!」




