33章272話 俺の家族愛
母さんが真っ先に悲しげな返事をした。
「どうして? 今日、元気な姿を見れて嬉しかったよ。皆揃って、凄く楽しかったじゃない」
俺は全く楽しくなかったよ、母さん。
「……元気に見えただろ? 色々と頑張って闘病を進めた成果なんだ。でも全然元には戻ってない。薬だって飲んでる」
精神への薬物療法を疑う彼女はあからさまに顔を顰めた。その隙に父さんが口を開く。
「ルークが今の職場に満足してるのは分かった。でも病人の集まりだって事を忘れるな。染まる前に出るべきだ。治るのはいつ頃を見込んでる?」
実家よりずっとマシだよ、父さん。
「……いつまでかは分からない。でも、急いで出る必要もないと思ってる。病気との付き合……治し方も今の仲間に色々教わってるところだしさ。社外にも付き合いはあるし、都会の生活自体を楽しんでるから、心配しないで」
治るじゃなく、寛解って言うんだよ、一生気をつけて過ごすんだよ、なんて言っても無駄だよな。流石に俺も学習した。
全て本当の気持ちで話した。でも、ごく浅い部分だけ。誠実でありたくても、現実的にはこれが限界だ。
しかし、俺の葛藤と配慮の一割すら想像できてなさそうなエアリアが地雷を踏んだ。
「あのさー。苦労して都会に住んでまで、病んだ奴らと甘やかし合ってたいワケ? 報道で病人ですって晒し上げられたのに懲りてないんだね。バカみたい。親が許可してんだから、素直に脛齧ってた方が利口だと思うけど」
湧き上がった強い怒りで全身が粟立つ。ぶちまけたい。少し前の俺ならやっていたかもしれない。
しかし何とか、伝わるような説明に留めた。
「今のは言い過ぎだ。すぐに撤回しろ」
自分でも驚くほど冷淡な声。エアリアと両親は怪訝そうな見慣れない表情になった。俺が必死に伝えてきた感情がいかに聞き流されてきたか、よく分かったよ。
妹はそれでも、父譲りのプライドで対抗し嗤おうとする。
「何? 間違った事言ってないけど」
「撤回しろと言った」
「やだ。なんで」
「俺と仲間を侮辱した事、絶対に許せない。何も知らねえくせに。そんな軽率な発言ができるお前こそ甘やかされてんだよ。撤回しろ」
強く睨む。全開にした殺意に、流石の妹も怯んだように見えた。やはり所詮は、命懸けで闘った事のない奴だ。
「……いきなりキレないでよ。やっぱオカシイんじゃん」
「いいから撤回しろ」
「そればっか――」
「今はそれしか用がねえ」
ここで母の仲裁が入った。
「ちょ、ちょっと。せっかくの旅行なのに、喧嘩はやめて頂戴!」
また俺の方を向いて言う。話が楽に通じそうな方を黙らせに来るんじゃねえ、と言いたいところだが、泣かれて面倒になるのは見えてる。目の前に、不都合な正論を理解できる人間はいないと思え。
母さん向けの、悲しそうな苦笑と優しそうな説明を返した。
「母さん。俺だって喧嘩したくないよ。はるばる来てくれたんだから楽しんで欲しい。でも俺、病気のまま頑張って、やっと家族に認められて……嬉しかったんだよ。馬鹿にされたら悲しいじゃん。取り消してくれるだけでいいんだ……」
母さんには情に訴える手法が効く。そして俺は、この人の理想を会得させられ済みだ。反吐が出るよ。
その証拠に、効果ははっきりと出た。
「……エアリア。兄さんに謝って?」
「は? 何? 母さんまで……」
「頑張ってる兄さんを馬鹿にしたのは、エアリアが悪いよ」
母にまで諭されたエアリアは、やっと苦々しい顔で吐き捨てた。自分の非を内心では認めていたらしい。
「……はいはい! 言い過ぎた。……実家での兄さんを見てたから、こっちで一人は無茶だと思ったの。ごめん。本当は、そんなに馬鹿にしてない……」
こうして、憎めないような素直さを出すあたりが憎たらしいよ。返事はせずに、手元のビールを勢いよく飲んだ。せっかく酒が美味い店なのに、文字通り苦汁を飲んでいる気分だ。
珍しく父さんがフォローに入った。俺が怒ったこと自体が珍しいからな。
「まあまあ。良かれと思って、だよな。エアリアは昔から気が強すぎるから、結婚生活では気をつけろよー?」
「うざ。余計なお世話」
「そういうとこだ! 全く、ははは」
やっぱり嫌な妹だ。なのに生意気を許されていて、自己肯定感がある。納得いかない。
──認めるよ。エアリア、俺はお前を見ていると悔しくて羨ましくて堪らなくなる。
好き勝手な言動で親にストレス溜めて、それが俺に跳ね返ってきて。どの立場で俺を嗤ってんだ。たかが四年後に生まれただけで、甘い汁吸いやがって。お前は俺に死ねと言ったけど、ならば俺は、お前が産まれなければ良かったと思うよ。
でも同時に、今日分かった事もある。……お前も両親が好きじゃないんだろ。かつての俺を見て、自分もこうなると思ったんだろう。
だから根気強く両親とぶつかって自分を理解させた。結果、頑固な親から『こういう子だ』という無条件の愛を勝ち取った。自分を貫き愛される方法を習得したから、早々に新しい家族を見つけ、この歪んだ家庭から抜けられた。
いいよなぁ。俺という失敗例を踏み台に出来たんだから。充分だろ? これ以上、足蹴にすんなよ……。
拳を強く握る。爪が掌に食い込む痛みがせめてもの自己表現だと感じると、心地良くすら思う。お陰で『兄』を最後まで貫けそうだ。
これまで家族には見せた事がないほどに憤った。それを察して重んじる人はいない。小手先で機嫌を取ろうという考えが見え透いている。
有耶無耶にされるわけにはいかない。未だ煮立っている腹の底すら勢いに利用して、今一度はっきりと言った。
「とにかく! 俺は今の生活を本気で頑張ってるんだ。病気になる前に戻れはしないけど、毎日進んでる。そこから抜けろなんて言われても悲しいだけでついていけない。少なくとも今は、ここで成長していきたいって意志を尊重して欲しい。……分かって、くれよ……」
結局は尻すぼみになったが、全ての感情を強く込めて、両親を見つめた。
どれだけ伝わったのかは知らない。けれど父さんは、困ったように少しだけ笑った。
「……分かったよ。長いこと詭弁ばかり聞いてきたが……そうか、お前、やっと進んだんだな……。わざわざ顔を見に来てやった価値はあったことにしよう」
母さんが大袈裟なため息で続く。
「もおぉ、何がそんなにいいのか……。でも……うん、進むまで苦労したもんね。成長したいと思えてるなら、親として見守ろっか。まぁ、満足するまでは頑張ってみなさい」
それぞれの言い草は細かく色々引っ掛かる。でも、自分のための訴えを受け入れられたことが何より意外で、やっぱり嬉しくて。
ふんと鼻で笑った妹が、両親へ言った。
「また親元で寝てるだけに戻られたら私も困るし、放っといてみていいんじゃない? 言うだけの事はあるんでしょうねって事で」
相変わらず尊大だが、俺の選択を味方したように聞こえる。両親もまた、首を竦めながらも彼女の意見を否定しなかった。
こうなれば、俺はやっぱり頭を下げてしまう。俺の人生に親の許可なんて、もう必要ないと分かっているのに。
「理解してくれてありがとう」
そして家族は団欒に戻る。やっぱり不満はあるらしく、小言やお節介を挟まれたけど、もう今の俺の生活を否定し取り上げようとはされなかった。
俺は家族を相手に冷静に主張し、要求を通したのだ。本当に何年ぶりだろうか。成長の大きな手応えを感じた。
もしこれが、実家にいた頃から出来ていたなら──? いや、考えても仕方ないよな。
過去の俺だって精一杯やっていた。……労ってやろうよ、あの報われない努力を。それができるのは、今の俺しかいないみたいだしさ。
夕飯は済んだが、家族三人はもう一軒お酒を飲みに行くらしい。俺は案内の手札も尽きたから帰ると申し出た。
夜の街道の端で、いよいよくっきりと三対一に向かい合う。しばしお別れだ。
妹の対応は異様にさっぱりとしていた。粘着質な両親への反発とも感じる。
「あんまり変な報道で有名にならない範囲で、頑張ってねー」
「ハハ、ありがとう。もうあんな大きな仕事、そうないよ。……多分」
濁したのは、すぐそこにウッズとの対面が迫っているから。結局、家族には伝えなかった。
父さんの少し寂しそうな笑顔は、一年前にロハを出た時と同じ。胸が締め付けられる。
「ルークならどこでも何とかやっていけるさ。心身が資本なんだから、健康第一でな!」
「分かってるよ。その心が怪しいからまだまだ頑張らなきゃいけないんだってば」
「全く、なんでそんなに拗らせたんだか。……ま、人生長いからな。気長にやれ」
「……そうだね」
今も俺が実家にいたら、そんな悠長なセリフは出て来なかっただろうね。
俯きがちになって苦々しい思考を続ける頭を、突然、乱雑に撫でられた。
途端にぶわっと蘇った、不器用な父の愛情の記憶。確かに与えられてきたんだ。……分かってたよ。分かってたから、俺は……。
母さんは目を潤ませる。場面と自分に酔っている事は分かっても、母の涙にはどうも弱い。
「やっぱり心配。また定期的に連絡しなさいよ? 父さんも母さんも、あなたを思ってるんだから。手紙でもいいし、連絡機だって今は遠距離に対応してるのだし……」
「もう……。分かったよ。なるべく連絡するようにはする」
「こんな遠くに一人置いていってごめんね。でも、強くなったんだよね。応援してるから」
「……ありがとう。励みになる」
やっぱり押し付けがましい。容易にひっくり返る掌の上に乗せて愛でられているだけだ。油断ならない。……なのに母の愛情が痛いほど伝わってくるのは、何なんだよ。
「いつまでも大事な息子だもの」
また勝手に、大切そうに抱き締められる。少しして離されたけど、朝とは違う理由で不快だった。
俺の内側の子供の部分が、俺なんて要らなかったくせに! と泣き喚いたから。
父さんが、まるで別れを惜しむかのように再度口を開く。
「あまり無理をするなよ。何かと気をつけるんだぞ! お前はたまに鈍臭いから」
無理やり整えた苦笑で返した。
「大丈夫だよ。あまり心配しないで。俺だってもう、結構な大人なんだ」
もっと子供として甘えたかった。本当はして欲しかった事が沢山ある。……けれど、もう、求めない。
わだかまりもしがらみも、何もなくなっていない。けれど、それを彼らにぶつけはしないと、自分で決めた。諦める。受け止める。認めるよ。
母さんも食い下がるように付け足した。
「また今度ロハに、お家に帰ってらっしゃい。帰省くらい良いでしょう」
それは――。口を何度か小さく開け閉めした末に、笑って、言った。
「うん。気が向いたらね」
今は、もう帰りたいと思えない。……でもいつかは、そう願う時があるかも知れないから、曖昧さを残させて下さい。
さようなら。また会えたらいいとは思うけれど、会いたいと思えるかは分からない。
「じゃあ。またな」
父さんが踵を返しながら手を振った。
考える前に、言葉が出ていた。
「会えて良かったよ! 俺に会いに来てくれて、ありがとう!」
笑って手を振る。三人もそれぞれの複雑そうな笑顔を見せながら、手を振り返してくれた。
三人の家族は、何度か振り返りながら夜の人混みへと消えていく。
その場で手を振りながら見送った。やがて完全に見えなくなった時、振っていた手が、笑えるほど力なく落ちた。
「……疲れた。……帰ろう」
呟いて、ゆっくりと踵を返した。
飲食店の並ぶエリアを出て、少し歩くと、ラタメノ広場とマイゼン大通りが視界に入った。もうすっかり見知った、新生活の帰り道だ。
広場を抜けて、河沿いの道を歩く。街灯はあるけど、大通りや繁華街に比べれば暗い。賑わいや明るさから遠ざかっていく感覚が、いつもに比べてやたらと気になる。
……足が重い。一歩進めるたびに、その重さで胸が痛む。遅い歩みが誰かの迷惑になる気がして、道の端に寄った。
黙っているのも苦しくて、溢した。
「これが俺の家族愛の結末かぁ」
ああ、失敗した。言葉にすべきじゃなかった。とうとう足が止まってしまっただろ。
俺の家族はあの人達で、俺の居場所はあの家にあったんだ。歪んでたって、苦しくたって、自分の全てを投げ打って守りたいほどの理由が、沢山そこにあったんだよ。
でも今は、その全てに、意味を感じない。
かと言って、どこにも代わりなんてない。唯一のものが失われて、それっきり。とっくに失われていたことを、ようやく認めただけ。
後はもう、自分の脚で立つ場所に落ち着いて、他人と共に別物を築いていくしかない。それがどこで、誰で、どうやって何を築くのかは、指示してもらえない。
俺は、独りだ。
そんなに遠くないのに、帰れないと感じた。街路樹の陰、野晒しのベンチに腰掛ける。
力が抜けるままに俯いたら、膝の間に涙が落ちた。
理屈も感情も、もう言葉の形になってくれなかった。ただただ、涙だけが少しずつとめどなく溢れ続けた。火照って震える身体は、立ち上がりたくないといつまで経っても弱音を吐いていた。
数多の人が行き交う夜の闇の中で、独りで静かに泣いている俺を気に留める人はいない。それが途方もなく寂しくて、誤魔化しようがないほどに身軽だった。
出立した日から一年。俺はこの日、やっと故郷を離れた。




