22章156話 エスタという人格
驚愕した。
「えっ――」
俺からすれば突然の別れだが、エスタは随分前から意識していたのだろう。その口調は淡々としていた。
「もうすぐ、僕は表に出ることがなくなる。そのまま、いつの間にかいなくなるんだ。今のうちに、バイバイって、言いたかった」
「そんな、待ってよ。いきなりバイバイなんて言われたら驚くし寂しいよ……」
「いきなり言って、ごめんね。でもね、少しずつ、そうなるように変化はしていたんだ」
エスタの表情はなんだかくたびれていたが、それ以上に、すっきりして見えた。
「お別れを言うだけならこれで終わりなんだけどね。僕の話、もうちょっと聞いてほしいんだ。いい?」
「もちろんだ。思い切り話してくれよ」
「……ありがと」
エスタが歩きたいと言ったので、裏庭をゆっくり散歩しながら話すことにした。
歩き出してすぐ、エスタが口を開いた。
「話したことあったかな、僕がいる理由」
「いや……ウィルルを守る存在、としか」
「そっか。僕は、ウィルルが本当に小さい頃、お父さんの暴言に耐えるために生まれた。そして、学園でのイジメに耐えるために表に出たんだ」
やりきれない気持ちになり、唇を噛んだ。
金のために娘を売り飛ばした父親という時点で嫌な想像はしていたが、相当な苦痛を与えられていたのだろう。優しく気弱で、まだ幼かった彼女が、家庭内で毎日与えられるストレスに耐えるためにどれだけ必死だったかが窺える。
それに、学園生活は六歳から十八歳まで、十二年もある。クォーターのエルフであるウィルルが何歳で入学したか、いつからイジメが始まったかは分からないが、精神的負荷は大きかったことだろう。
……それこそ、自分以外の強い存在を、心に用意したくなるくらいに。
彼はくすくすと笑った。
「――もう昔の話だなって思わない?」
「え……?」
「今ここには、いじわるな暴力も、ひどい悪口も、理不尽なお説教もない。ウィルルがウィルルで居られなくなるようなストレスっていうのがないんだ。とっても嬉しいよ」
「それは、そうだな」
「実はね、ウィルルと僕が記憶や感覚を共有して、いつでも会話できるようになったのは結構最近なんだ。イルネスカドルに入社して、ウィルルが安心したおかげだ」
いまいち想像がつかなくて、掘り下げる。
「……それまではどうしてたの? 二人の間で意思疎通や交代が上手く出来なかったり、交代してる間の記憶が飛んだりしてたってことか?」
「そういうこと! 特にウィルルの方は、沢山の辛い出来事への対応を僕に預けてたから、記憶が飛び飛びなんだ。最近はカウンセラーのミロナさんの力も借りながら、僕の記憶をウィルルに共有して、過去を飲み込めるようになってきたところさ」
「そうだったんだな……」
理不尽な苦境に立たされ、逃げ込むようにイルネスカドルに入社したウィルル。それからひたむきに闘病を続け、忘れたいほどの辛い出来事を追想する苦しみを乗り越え、今に至るのだ。その努力と成果の一端を知って、しみじみと彼女を尊敬した。
しかし……。疾患、障害として問題になるのは、あくまで本人の社会生活や日常生活に支障がある場合だ。障害と名が付くような特性を持ちながらも、一般社会に馴染んで生きる『健常者』だっている。病名、障害名に関わらず、それは同じな筈。
「……今年の春から見てた俺からすれば、二人格で安定しているように見える。上手く助け合っているし、社会性もあるだろ。記憶の抜け落ちも俺からは分からないレベルだ。エスタが統合しなきゃいけないほどの不都合はあるのか」
エスタは困った顔をしたが返答は早かった。
「このままゆっくりやろうと、僕達も思ってたよ。でも、この前の事件みたいな、子供のイジメの比じゃない危険も出てきた。自分の安全以外に、守りたいものも出来た。僕に記憶と対応を預けて身を守るだけじゃ、解決しない。――ウィルルが、自分を自分で守らなきゃいけない時が来たんだと思う」
理屈は分かる。だが、その状況でエスタを失ったウィルルは、追い詰められてしまうのではないか?
「……逃げても頼っても、いいだろう。ウィルルの性格や特性を無理やり変えるのは賛成できない。あんな事件、何度もあることじゃないよ。それに仕事は、俺達との助け合いが当然だ。エスタが消える必要はないように思うけど」
「そうかもね。今まではそうしてきた。……でも何より、ウィルル自身が、このままじゃダメだと思っているみたいなんだ。それなら、僕は統合すべきだと思った」
そう言われてしまっては……。黙り込んだ。
「元々僕の存在は、ウィルルの抱えた病気だ。辛すぎる毎日から身を守るために、自分の一部を切り離さないと居られなかった。今、この素敵な環境で、元の形に戻ろうとしていってるんだ。それなら僕はその方がいいと思う」
エスタの言う通り、ウィルルが前向きに変わりたいと望み、その結果病気が快方に向かっているのだとすれば、歓迎すべきなのだろう。しかし、その場合、消えてしまうエスタの人格はどうなるのか。
「ウィルルは……エスタとの意思疎通が弱くなってることを不安そうに話してたぞ」
「……うん。見てたよ」
「それにこの前は、事件の話も、入社経緯も、エスタに頼らないと話せなかったじゃないか」
「だって、ウィルルは恥ずかしがり屋だからね。でも本当はもう自分で話せるはずなんだ。――これまでそれが出来なかったのは、ウィルルに力がなくて、味方がいなくて、不安だったから。あの時も結局は自信がなくて、僕に頼った。それだけ」
エスタは冬野菜が植えられた畑の前で足を止めた。
「……僕は消えるんじゃない。ウィルルの一部に戻るんだ。ウィルルと共に生きるんだ。それができれば、ウィルルはもっと強く、幸せになる力をつけられる。だから僕は、統合したい」
「そう、か……」
彼の『お別れ』を言い出すに至った理由と覚悟は、地に足のついた前向きなものだと感じた。だとすれば、俺は、お別れを受け入れ送り出すべきだ。いや……送り出してやりたい。
畑に植えられている、周りより一回り小さいカブの苗。エスタはそれを指差した。
「今ウィルルには、身を守る力と、肯定してくれる味方と、安心できる生活環境、戦ってきた経験がある。全て、僕に頼っていた頃のウィルルにはなかったものだ。まだ足りないのはね、自信と、覚悟。それがないから、沢山ある筈の栄養を上手く吸い上げられずに小さく縮こまってしまっているんだ」
俺を見つめる彼の表情は、胸を打たれる真剣さだった。
「ウィルルの人生は長い。ウィルルには、一人で幸せに生きられるようになってほしい。それが、死んだお母さんと、いなくなる僕の願いだ。――そのために、ルークに少し手助けしてもらいたいんだ」




