16章97話 カルミアの指輪
皆の首は、当然縦に振られる。カルミアさんが自分のことを長く話すのは珍しいことだ。皆、俺と同じく、気になって仕方ないという目をしていた。
彼は意を決したような勢いで、強い酒の小瓶を原液のまま飲み始めた。皆が悲鳴を上げたが、止める間もなく小瓶は空になってしまった。
カルミアさんはゆらゆらと頭を振った後、苦笑を浮かべる。あれだけ飲んでいた酒は、それでも回っているように見えなかった。
「最初に、ケインとウィルルに謝らなくちゃ。今から話すことには、男連中にだけ話した内容がある。意地悪じゃなくて、なんとなくビビってたんだ。……許してね」
ケインとウィルルが頷く。
「目標の話だけど。俺自身にはないんだよ。本当に、なんにもないんだ。――その代わりに、息子の独り立ちを見届けたいと思ってる。俺の夢は他力本願なんだ」
ケインは察していたかのような表情で黙り、ウィルルは小さく驚きの声を上げた。
「息子さん、いるの? どこ?」
「……バヤトの西の端の方。アリラス共和国との国境付近」
「へ? 遠い……なんで――」
と言ったところでウィルルは口を噤んだ。
「ごめんなさい、カルミアさん……話したいところから話して」
カルミアさんは苦しげに笑い、ありがとうと呟いた。
「……軽くだけど、答えるね。息子が暮らすにあたっては俺の存在が不都合だから、田舎で義父と義母に面倒を見てもらってるんだ」
唇を噛む。病気に関わる事情な気がしたから。皆も同じような顔をしていた。
「まあそうなれば当然の疑問があるよね。先延ばしにしてたけど、これが聞いてもらいたい話の本題だ」
カルミアさんは左手の薬指に光るプラチナの指輪に触れながら、低い声で言った。
「妻は死んだ」
短く、重い沈黙が流れる。
「もう十年前になるけどね。息子がまだ五歳の時。……しんどかったよ。ああ、はは、過去形じゃないね。今もしんどい」
聞いているだけで苦しい。彼本人の苦しみなんて想像を絶する。
「俺の病状の大半はここから来てるんだ。でも、口に出したくなかった。レイジとダンカムは雇用契約絡みで知ってるけど、それだけ。……なのに最近、なぜか一人で抱えてるのが居心地悪くなってね。思い立ってレイジに相談して、今回皆に聞いてもらおうって決めたんだ」
カルミアさんは、ここで一度明るく笑った。俺はこの笑い方を知っている。ケインがよくやる、苦しみを誤魔化す笑い方だ。
「一応ね、仕送りとして毎月送金しているんだ。今の俺じゃあ父親らしいことなんて何一つできないから、金の苦労だけは軽減してやりたくて」
彼は、憂いを帯びた微笑みと共に、淡々と話し続ける。
「息子は先月で十六だけど、今後のあの子にとって特に俺の存在が邪魔になるのは、就職と結婚の時だろう。それらの報告を、俺が生きているうちに受けられたらいいなと思ってる。――それが夢だ」
俺には何も言えなかった。皆も同じのようで、一様に俯きながら黙って聞いていた。
でもカルミアさんにとっては、その静かな雰囲気が話しやすかったのかもしれない。
「あと、恩返しも、生きる目標だね。義父母は勿論だけど、独身時代の友人も、防衛団時代の元同僚も、子育て時代の親仲間も、妻の友人達も、行きつけの店の常連も、この会社の皆も――挙げたらキリがないくらい、沢山の人間関係に恵まれてる。……死んでも返しきれないから、目標として丁度いいよ」
だんだんと俯きがちになっていたカルミアさんは顔を上げ、左手を目の前に翳した。
「きっと俺は、過去を精算できない。でも、それでいい。この結婚指輪を外せないのが、俺の弱さで、力の源でもあるから、抱えていたいんだ」
彼は先程飲み干した小瓶をゆらゆらと振って見せる。
「……抱えたままでいたいけど、それのせいで前を向けない時がある。正直、愚痴りたい時や弱りたい時があるんだ。ずっと酒に頼って一人で我慢してたけど、歳のせいかね、疲れてきちゃって。皆に甘えて、自分を分かってもらいたくなったんだ」
そして、眼鏡を上げ直していつものように微笑む。
「……聞いてくれてありがとう。変な空気にして、ごめんね」
いやいや……と言いながら、ちょっと熱くなってしまった鼻をすすった。ケインが目を伏せたまま言った。
「話してくれて嬉しいよ。カルさんはいつも皆を助けてくれるけど、私達はカルさんの力になれてるのかなって、ずっと気になってたから。……あ、お酒の後始末だけは何回助けたか分からないけど」
「あはは! これからもよろしく!」
「ちょっと! ちゃんと自重して! ――ふふふ!」
ケインの冗談に皆乗って、テーブルは暖かい笑い声に包まれた。
勿論俺も笑った。話してくれたカルミアさんが気まずくならないように。ケインが作った明るい流れを活かすために。皆の暖かい雰囲気に参加したくて。努めて明るく笑い声を上げた。
――でも、なんだろう、この苦しさは。
カルミアさんの話なのに、目標も夢も他人のこと。彼自身について話してくれたのは、抱えたものが重いということだけ。まるで、カルミアさんは誰かの人生の脇役で、自身はもう一線を退いたかのような話し方だった。
俺が大事に思っている仲間は、他でもないカルミアさん、貴方なんだよ。分かってくれてるか? ――喉元まで出かかった気持ちを飲み込んだ。適切な言葉が、見つからなかった。
ああ、俺にもう少し勇気があったら、自信があったら、もう一歩踏み込めたのかな。自分自身のために生きてくれと訴えて、彼の心を動かすことだってできたのだろうか。
もどかしさはあっても、それ以上に、怖かった。想像すらできない苦しみを背負った彼を、何も分かっていない俺の言葉で更に傷つけてしまう可能性が。
今日の俺には、話を黙って聞くだけが精一杯。きっとそれが最善の行動なんだ、余計なことはするなと、自分を落ち着かせるしかなかった。
深夜の静かなコテージの中。水筒を持ち、壁に寄りかかって欠伸をした。正直眠い。だが、今は寝れない。
カルミアさんが潰れてトイレとお友達になってしまったからである。女性二人と、外泊時は特に不眠がちなログマを寝室に追いやって、今日は働かなかった俺が付き添いを買って出た。
まあ今日は飲み過ぎも看過しよう。あの話をするのに、強い酒の力を借りたのは理解できる。ただ、話し終わった後あたりから急激に酒が回って様子がおかしくなっていく様はちょっと怖かったな……。
青い顔のカルミアさんがトイレから出てきた。水筒を差し出すと、受け取って飲んでくれた。
「ごめんねルーク……」
「気にすんなよ。大丈夫? 少しは楽になった?」
「だいぶ、ね。吐き切った感じはする……」
「そっか、よかった。ベッドに行く前に少し休みなよ、そこのソファに横になる?」
「……そうしようかな」
カルミアさんは俺の肩を借りて歩き、二人がけのソファに身体を横たえた。俺もその近くの一人がけのソファに腰掛ける。彼が自力で歩けるまでは付き添いたい。
灯りはテーブルの上に置いたランプだけ。外からは秋の涼やかな虫の声が聞こえる。静かで暗い空間が心地よく、夜更かしをしているのも悪い気分じゃなかった。
カルミアさんが濁った声で話しかけてきた。
「ルーク」
「うん?」
「目標。見つかりそう……?」




