機能上、愛することも可能です。
何に腹が立つと言って、この期に及んで人の顔色を窺っている自分に一番腹が立つ。
折角の高級馬車に乗りながら、窓を開けもしないで、真っ暗闇の中を俯いている。御者はさぞ恐ろしいことだろう、とアルネは思う。花嫁を乗せるためのぴかぴかの馬車を牽く仕事で、これほど重苦しく得体の知れない客がかつていたか。それでも大して車を揺らしもしないで着実な仕事をしているのが、むしろアルネにはもどかしい。これで自分のことを「貴族の娘といってもどうせ平民の出」と侮ってくれたら、怒りの当てどころもあるというのに。
アルネは、かつて平民の娘であり、現に伯爵家の娘であり、そしてこれから、辺境伯夫人になる。
始まりは、母の再婚だった。
実の父のことを、アルネはよく知らない。訊ねれば母の機嫌が目に見えて悪くなるから、訊きたいとも思わなくなった。いまだに存命なのかも定かではないが、周囲の評判をそれとなく耳に挟む限り、ろくでもない人物だったのだろうと思う。一方で、母の評判は良かった。稼ぎ手を失った家庭を保つため、母は裁縫の腕を活かして仕立て人になり、そのうえ経営の才能もあったものだから店まで持った。あっという間に有名店。あの頃、街一番のデザイナーといえばアルネの母のことを指した。美貌も相まって、街を治める伯爵の目にも留まった。
母が伯爵夫人になれば、自然とアルネは伯爵家の養女になる。
そんな柄ではないのに。
大体が、とアルネは母の顔を思い浮かべて吐き捨てる。あの人とはまるで気が合わない。仕立て人としての腕は尊敬している。経営者としての手腕も見事なものだと思う。母ひとりで自分を育ててくれたことも感謝している。けれどあのいかにも「感謝しろ」と言いたげな態度が鬱陶しくてたまらない。自分が生まれてきたことも、生まれてきた子どもが何かに頼らないと生きていけないことも、家庭が失敗したことも全部自分のせいじゃない。自分で決めたことじゃない。「平民から伯爵令嬢になれたんだから感謝してよね」と言わんばかりの態度を取られても、豪華な食事も宝石も、大変高貴な新しい家族も頼んでない。義理の姉と自分を比べて惨めになるなんて気持ち、きっとあの人には一生わからない。打ち明けても「情けない」と切って捨てられるに決まってる。それにあれは忘れもしないまだ自分がいずれあの店の仕立て人として生きていくのだろうと信じて疑わなかった頃の初仕事、自分と同じくらいの年の女の子が持ち込んできた『お祖母ちゃんが昔着ていたとっておき』を仕立て直そうとふたりでわくわくしていたときあの人は横目でちょっと見ただけで言うに事欠いて「好きな男の子にアピールするならそんな古い――
がたん、とようやく馬車が揺れた。
止まった。
細く長く、溜息を吐いた。
これからアルネは、結婚をする。
一度も会ったことのない辺境伯と。
どうしてこうなったのかというと、こういう話だ。貴族の家に生まれた娘は、別の貴族と結婚することになる。まずは義理の姉から。彼女は大層出来が良かった。明るく思慮深く、容貌は早逝された前伯爵夫人と瓜二つで、突如現れた気の強い義母や得体の知れない義妹と上手くやるだけの社交性もある。縁談がいくつも舞い込む。最終的に彼女は、昔馴染みでもあるという宰相子息からの縁談を受けた。麗しい話だとアルネも思う。残りの縁談にはお断りの連絡が送られることになる。こんな文句だ。このたびは折角のご提案ではございますが、すでに我が娘は別の方とのご縁を結んでいるところでございます。しかしながら当家にはもうひとりの娘がおりますので、もしまた機会がございましたらご縁を賜れますと幸いです。当然ながら、あの義姉を求めておいて「じゃあこっちの平民出の娘の方でいいや」なんて大胆な妥協をする家はない。ただの社交辞令のワンフレーズ。
それでもいいです、と言った家がひとつだけあった。
大胆な妥協の結果として今、アルネは国の外れの辺境伯領に降り立っている。
「ようこそいらっしゃいました。アルネ様」
馬車から降り立つと、使用人一同が勢ぞろいだった。
アルネは、はっきり気圧されている。どう考えても自分より、目の前で自分に頭を下げている執事長の方が育ちが良い。どんよりとした空模様の、いかにも自分の門出にふさわしい曇り空の下ながら、あたりの庭園は伯爵家のものよりも遥かに華やかで、お屋敷はてっぺんまで見上げようとすれば後ろに転んでしまうほど大きい。
こんな良縁二度とない、と母は驚喜した。
私結婚なんかしたくない、の一言がアルネには言えなかった。
いつもこうだ。義姉に練習に付き合ってもらった挨拶もそこそこに執事の後を行きながら、やはりアルネは腹を立てている。どうしていつもこうなんだろう。頭の中には、こんなに言いたいことが山ほどあるのに。喉か舌が壊れているとしか思えない。いつもいつも何も言えないままでずるずる流されていってしまう。これまでも酷かったけれど、今回は特に酷い。
だって、これから一生、『流された先』で『流された人』として生きるのだから。
執事が、大きな扉をノックした。
一、二、三回。それが何かのカウントダウンのようにアルネには聞こえた。一度俯く。心臓は別に高鳴ってはいない。代わりに、いつものあの「もしかしてこれって嫌な夢なんじゃないのかな」と「早くここから出して!」のふたつの気持ちに襲われている。
襲われ続けているわけにはいかない。
「入ってくれ」
声がしたら、全部呑み込んだ。
「失礼いたします」
執事が扉を開けてくれる。練習してきたとおりのカーテシー。床に爪先を引っ掛けそうになって冷や汗が出て、でも引っ掛けなくて、ほっとしたのも束の間で、
顔を上げて、
やっぱり夢なんじゃないか、と思うくらいの美形だった。
年はかなり若い、とは聞いていた。
相当の器量らしい、という話も聞いていた。
全部、嘘だと思っていた。
「どうも初めまして。花嫁殿」
だって、本当にそんな人なんだったら妥協なんかする必要がないから。
義父と義姉の言いぶりは単に自分を不安がらせないためのものだと思っていたし、母のはあの大袈裟に自分の選択の正しさを盛り立てるいつものやつだと思っていた。
それが今、窓辺の光を背に受けたこの人はどうだろう。
髪は長い。立ち上がれば、予想していたよりずっと背も高い。たれ目がちの、どこか艶めかしい気配のある瞳を始めとして、顔のパーツが精巧に整っているだけではない。そのパーツを収める額の部分、顔の土台も輪郭も、まるで陶器のように滑らかで、美しい曲線を描いている。
美術品が歩いてる。
歩いてきて、自分の手を取って、その甲に口づけをした。
「――――」
声も出なかった。
使用人一同よりも、庭園よりも、大きな館よりも、何よりこの辺境伯に気圧されていた。
どうしてこんなことになっているのかわからない、と思う。義姉との縁談がダメだったから平民出の妹の方でいい。この時点でおかしい。ちなみにうちは辺境伯です。もっとおかしい。結婚式の費用なんかはうちで持つので生活が落ち着いてきてからゆっくり打ち合わせして内容を決めましょう。こんなことを言う貴族はいない。
とにかく来てくださったら、それで構いません。
「さて、アルネさん」
ありえない、
「君には恋人はいるかな?」
「――は?」
話には、いつも裏がある。
手は、握られたままだった。身長差のせいで、至近距離で向き合うとアルネはすっぽりと辺境伯の陰に隠れる。
見下ろすようにして、彼は言う。
「いやね。これから共同生活をするに当たって、あらかじめ訊いておこうと思って」
美しい薄ら笑いを浮かべて、
「いるんだったら、ぜひこちらに連れてきてくれ。別荘でも何でもご用意して差し上げるよ。ただし、領民には露見しないようにね」
何を言われているのかわからない。
固まっていると、さらに続く。
「というのも、要は形だけでいいんだ。私はあまり、他人に興味のない性質だから」
まるで邪気のない笑顔で、彼は言う。
「しかしそれなりの地位にいる貴族がいつまでも結婚しないでいると、領民が不安がる。ここはひとつどなたか親切な方にその席を埋めてもらおうというのが、今回の結婚の申し込みの意図なんだよ」
もちろん、
辺境伯夫人としての仕事だの何だのは、特に気にせずにいてくれれば結構。私の方ですべて処理するから。遊興費も当然支給するし、はっきり申し上げて、恋人でも連れてきてのんびり遊んで暮らしていてくだされば結構でございます――
というようなことを、辺境伯は言う。
じわじわと、アルネには実感が湧いてくる。
耳から入ってきた言葉が、少しずつ頭の中で解きほぐされていく。そのうち、それが心に触れ始める。触れられて、反応が始まる。その反応――感情の名前が、はっきりしてくる。
手が、気になった。
手の感触が気になって、視線が落ちた。
「ああ」
それに、辺境伯は笑う。
笑ったまま、もう片方の手を伸ばしてくる。頭に少しだけ感触がある。何をされているのかわかる。手袋を嵌めたままの彼の手が、自分の髪の一掬いに触れる。
何でもないことのように、彼は言った。
「もちろん、君が私に愛してほしいと言うなら、それも『機能上』は可能だけど」
そうして、ようやくだった。
生まれて初めてのことだったのかもしれない。アルネにとっては本気でそう思ってしまうくらい、他に例のないことだった。溜め込んでいたものが、一気に心の中から噴き上がってきた。たくさんの「なんで」と「嫌だ」と「舐めるな」が、ぐつぐつと煮え滾って、かーっと燃え上がって、そうして本当にようやく、表に現れた。
なかなか怒れない人間というのは、だから結局、こういう一番『やってはいけない』場面で取り返しのつかないことをする。
「ふざけ――!」
アルネは、辺境伯様の手を感情のままに撥ねのけた。
右手『だけ』吹き飛んで、壁に当たって、落ちた。
ないで、と続くはずだった言葉が、出てこない。
ください、なんて意識にも上ってこない。
顔が見られない。え、いや。え? 狼狽の声が言葉にならない。顔にも出ない。星にも勝る数の考えごとが、気泡のように心に浮かんでは消えていく。何も頭が動かない。眠っているのと大差ない。
視線だけは、その『右手』に吸い込まれている。
ふらふらと、足取りも吸い込まれていく。
見下ろした。
どう見ても、手だ。黒い手袋を嵌めている。床に落ちている。手首から先がない。何かに似ている、と思った。記憶を探ったというより、過去と現在の区別がなくなって勝手に光景が浮かび上がった。そうだ、あの仕立て屋に住んでいた頃のことだ。多少は絵も上手くなっておいた方がデザインが良くなるはずだと信じて、自分の左手をじっと机の前で眺めてスケッチしていたことがある。あのときスケッチブックにいくつも並んでいた、あの手に近い。あれより指が長い。その上すごく立体的で、日の光が当たれば床に影を落とす。
恐る恐る、拾い上げた。
そのずっしりとした重みにアルネは叫び出しそうになりながら、しかし勇気を持って、
「あの、」
私、
「こんなつもりじゃ――」
ゆっくりと、アルネは振り返る。
もう、義姉と練習した作法なんていうものは頭から飛んでいた。正しい振り向き方なんて覚えていない。謝罪の仕方なんか、もう空の彼方だ。振り向きながら、勝手に頭が下がっていく。けれどそれだって中途半端なものだから、視界の隅に映り込む。
「いやいや、お気になさらず」
辺境伯――ハクレダ・トルソールが、これもまた何でもないことのように笑って、
「外れやすいんだよ。手以外も」
無事な左の手のひらに、『自分の頭』を『乗せている』姿。
ぐるん、と頭の中で何かが回った心地がした。
何が回ったのかはアルネにもわからないけれど、とりあえず、意識はここまで。
◇ ◇ ◇
悪い夢だった。
と、ベッドの上で目が覚めたとき、ものすごくほっとしながらアルネは思った。
まだ夢心地のままだ。眠い。ぽやぽやしている。一日で一番幸せな時間で、特に悪夢から目覚めたときは格別だ。ああよかった。本当のことじゃなくて。どうしてあんな夢を見たんだろう。まあ多分、結婚を不安に思ってるからだろうな。結婚するっていうところまでは本当だったよね。いつ家を出るんだっけ。そろそろだった気がする。不安だな。でも悪いタイプの予行練習を終えたから、少しは気が楽になった。ああでもまだ眠い。このまま寝ていたい。何だかいつもより枕がふかふかな気がする。うつ伏せになっているとまたお母さんから「顔が擦れて肌が荒れる!」と怒られる。でも何だかいつもより枕がつやつやな気がするから大丈夫そう。こんなに気持ちの良いところで寝ていて、なんであんな夢を見たんだろう。いくら不安だからってちょっとありえない気もする。
いきなり結婚相手の首が外れるなんて、そんなわけない。
意外と想像力豊かなんだなあ、私。
寝返りを打った。
「や」
「――――」
猫の毛が、ぶわっと逆立つ。
あれの人間版が、アルネの身に起こる。
隣に、生首があった。
「わあああああっ!!!」
そのままベッドから転げ落ちようとしたら、背中に感触。
まるで壁にでもぶつかったような安心感と閉塞感。けれど、壁と違ってべったりしていない。ところどころ、要所要所を支えられている感覚。
振り返る。
首のない人間が、自分を支えている。
くらっと来た。
「ははは。期待通りの反応だ」
夢じゃなかった。
それでも今度は意識を手放さなかったのは、二度目で慣れていたのか、それとも単純にあまりにも長い時間を眠りすぎて、もう一度は気絶できないようになっていたのか。
目の前にあるのは現実。
首から上だけの辺境伯と、首から下だけの辺境伯がいる。
分離してる。
「な、ななななななな」
「ご心配には及びません。ちゃんと元に戻るから」
言うと、『首から下』伯が動き出した。
アルネをそっとベッドに戻す。それからお行儀よくベッドの周りを周って、まるでボールみたいに『首から上』伯を掴む。上に放り投げる。
首でキャッチ。
完璧で美術品みたいな、ハクレダ・トルソール辺境伯が完成する。
「ね?」
「…………だ、」
かろうじて。
本当にかろうじて、合理的な説明が頭の中に思い浮かぶ。
「大道芸」
「お。それで納得してくれるなら、諸々の説明が省けていいね」
眉を上げて、愉快そうな顔でハクレダは言った。
もうその言葉が「残念、はずれ」のニュアンスを含んでいる。そのくらいのことがわからないアルネではないし、寝起きだから顔にも出ているはず。けれどあえてなのか何なのか、ハクレダは話をすり替える。
「それはともかく、最初に謝らせてくれないかな。初対面で張り切りすぎて、会話の仕方を間違えた。あんなに怒らせるとは思わなかったんだ」
申し訳ない、と。
五秒くらい経ってから、「はあ」という相槌がアルネの口から出る。普段の十分の一くらいの音量で。
「私はこのとおり特殊な大道芸を身につけているものだから、あんまりちゃんとした結婚はしたくなくてね。だからいかにも競争率が高そうでこんな辺境くんだりまで来なくても相手に困らないようなご令嬢を相手に、せっせとアリバイ作りに勤しんでいたんだけど――」
ハクレダが言うのは、こういうことだった。
やたらに高い条件を結婚相手に求める厄介な領主として、何度も何度も意図的な失敗を重ね、ずるずる未婚で行くつもりだった。地道な活動はすでに苦節三年。義姉に縁談を持ち掛けたのも、もちろんその一環。いつもどおりに断られて大変満足していたが、
「その妹――つまり、君はどうかというお誘いも来た」
「な……」
ようやく、理性らしきものが戻ってくる。
多少は会話に参加しよう、という気が湧いてきている。
「なんで、それで私に」
「君、ついこの間まで平民だったんだろ?」
ぎくり、というより、ざくり、という方が音としては近かった。
気にしているところに、思い切り刃が刺さった感じがする。とても鋭利だった。アルネはここのところ、伯爵家の娘になってからというもの、それを気にしない日はない。私って根っからの貴族じゃないから。成り上がりの母とろくでなしの父の間に生まれた、平凡極まりない平民だから。優しい義姉と自分を引き比べて感じていたあのいたたまれなさを、今、このふかふかのベッドにも改めて感じ始めている。
うわ、
居づら、
「で、釣り書きの似顔絵も可愛いものだから、これは恋人のひとりやふたりはいただろうと思って」
「――え?」
「ああ……。やっぱりその反応だといないんだ」
ようしわかった、と彼は両手を広げる。手袋の黒色が、妙にはっきりとアルネの目に映る。
「完全に間違えた。説明しておくと、私の頭の中ではこういうことになっていた。これだけ可愛くて政略結婚の予定もないなら、平民時代から連れ添っている恋人のひとりやふたりはまずいる。しかし貴族になってしまった以上、その関係に身分差がどうこうという大変つまらない障害が出てくる。そこを私が横から手助けしてみれば、君は喜んで偽りの結婚にも同意してくれるだろう。これで万事解決、君は幸せになり、私の体面は保たれる。よしんばそこのところ、君が大変割り切りの良いタイプで『男は地位と金と顔!』という考えなのだったら、ほら」
こんこん、と指先で頬骨を叩いて、
「この顔だから。上手いこと騙くらかして、『機能上』そういう期待に応えてみれば――と思っていたんだけど」
騙くらかす、という単語が聞こえた。
けれど、それどころじゃない。
色々一気に言われすぎていた。反応も感情も、全部がそれぞれの方向を向いてアルネを引っ張っているものだから、どこにも行けなくなっている。頭の中に浮かぶイメージ。いくつものリードを腰に巻きつけられて、何匹もの犬が一斉に思い思いのところに駆け出していく。
「どうも当てが外れたらしい、ということで」
今度は、ハクレダは髪を掬い取ったりしなかった。
どころか、それ以上近付いてきたりもしなかった。ただ、美しい笑顔だけを顔に張り付けて、
「しかしこれも何かの縁。どうかな。これも人生経験と思って、大道芸人と結婚してみるのは」
今なら辺境伯夫人の肩書もついてくる、なんて言う。
本当のところ、準備なんて何もできていない。
見聞きしたことを整理する時間も、それをしっかり呑み込むための思考も、ましてやそこから「それなら自分にとって何がいいか」なんて真剣に考え始めるような体力もない。全部が混乱。全部が困惑。
こういうとき、一般的に人はどうするか。
なんてこともわからないけれど、しかし幸か不幸かただひとつ、アルネにはこの場の自分の行動の指針となるひとつの処世術を身につけていた。
「……はい……」
偉い人の言うことには、とりあえず逆らわない。
ハクレダは嬉しそうに笑って、握手を求めてきた。
◇
多分、魔法なんだと思う。
聞いたことはあった。この世には、そういう不思議な力がある。アルネが住んでいた王都の近郊あたりで『本物』を目にすることはなかったけれど、貴族の養女になると決まったときに、王国の歴史だとかそういうのを改めて勉強することになったとき、改めて教えられた。
そもそも、貴族制の成り立ち自体がそういうことらしい。
魔法を使える人間が、何人かいた。
そういう人たちは扱える力が人より大きいわけで、だから簡単に集団の長になる。そうして最初に、いくつかの国ができた。そこから先が政治の出番。うちがここの防衛線を張ってやるから、背中に隠れているお前らは見返りに小麦をよこせとか、そんな形。やがては一番平野が広くて農業に適した土地の長が『王』を名乗るようになって、魔法使いたちは『伯爵』やら『侯爵』やら、その仕事や魔法の力量、どこの土地を治めているかに応じて、貴族としての称号を得るようになっていった。
今はもちろん、ひとりの魔法使いが政治をどうこうするような時代ではなくなったけれど。
難しい土地を治めていた古い貴族の家なら、今でもものすごく力のある『魔法使い』がいたっておかしくない。
「……あの」
「ん?」
そのことと関係があるのかないのか。
「何か仕事は、ないですか」
結婚してから二週間、アルネは全く身の置き場がない。
暇で暇でしょうがない。
最初のころは緊張しているだけで時間が過ぎ去っていった。けれど最近、ようやくこの屋敷を「少し古くて落ち着いている」と感じるだけの余裕も出てきた。だから、アルネは執務室をノックしてみた。どうぞー、の声に誘われて、中に入っていった。
春の明かりを背に浴びて、ハクレダはペンを片手に顔を上げている。
んー、と椅子にもたれて彼は、
「暇になっちゃった?」
図星。
「でも、特にないんだよね。ほら、私って仕事ができるから」
ほら、と言われても全然知らない。
けれど、「これならあなたよりずっと上手くできます」「任せてください」と胸を張って言えるような貴族の仕事なんて、ひとつも心当たりがないものだから、
「そ、掃除とかします」
「メイドの仕事がなくなっちゃうなあ」
苦笑して、彼は言う。
「別に、毎日自室でふんぞり返っていてくれればそれでいいんだよ。そういうつもりで結婚してもらったわけなんだし。それで十分」
そう言われても、落ち着かないものは落ち着かない。
これまで「仕事がなくて暇」なんて状況は、人生になかったからだ。平民だった頃は学校と家の手伝いで毎日忙しかったし、貴族の家に入ってからは、ルールやマナーを覚えてるためにもっと必死だった。
それが急に、身体も心も宙に浮いた。
最近少しだけ、アルネは思う。
自分の人生で忙しいところはもう終わってしまって、後は老後を待つだけなのかと。
「辺境伯夫人の仕事と言ったら……」
そんな気持ちを汲んでくれたのか、それとも単に質問に答えてくれているだけなのか。
ハクレダは机の引き出しを開けて、
「家の中の財政取り回し……は、領内財政のついでに私ができる。社交……は立地が立地だから、私自身ですら滅多に外には行かないしね」
書類がどんどん出てくる。
ひとりでどれだけの仕事をこなしているんだろう。店の切り盛りで一番忙しかった時期の母ですらここまでではなかったはずだ。天板が見えなくなるくらいに紙が積み上がって、それでもなお出てくる。軽い気持ちで仕事の邪魔をしたことに、今更引け目が出てくる。
「使用人の教育に関してもシステムは組み上がってるし、しばらく来客の予定があるわけでもないし……」
それだけの仕事量をこなす人ですら「うーん……」と悩むくらいには自分には仕事がないらしい。
ないなら、と踵を返しかけたとき、
「そうだ」
にこっと彼は笑って、
「執事やメイドに声をかけて、家に馴染んでもらう仕事っていうのはどうかな」
◇
「してほしいこと、ですか?」
なかなか自分で仕事を見つけるのは難しい。
けれど、言われた仕事にすぐに取り掛かれるかは、そのときのやる気の問題だと思う。
早速アルネは、辺境伯邸を歩き回って、気軽に話しかけられる相手を探していた。
「そう。何か仕事をしていて『こうだったらいいな』とか。些細なことでもいいんだけど」
目をつけたのは、中庭に面した窓掃除をちょうど終えたらしいメイドだった。
働き者らしく、春の陽気に額が少し汗ばんでいる。年は多分、同じくらい。街で仕立て屋の見習いをしていた頃は、こういう感じの友達とよく遊んでいた。懐かしくなる。
「そうですねえ」
向こうも、案外自分のことを『辺境伯夫人』としては見ていないのかもしれない。
いきなり話しかけられても、まるで動揺しない。彼女は息を整えるように天井を見上げて、
「特にない、ですかね」
意外とつれない答えを口にした。
それより、と言いたげにこちらを見て、
「奥様こそ、何かお困りのことはございませんか? 旦那様や執事長に伝えづらいことがありましたら、私でも、他のメイドでも、何なりとお申し付けください」
流石は辺境伯家、と納得してしまってもいいのか。
明るい笑顔でそう気遣われると、どちらが雇い主なのかアルネはよくわからなくなってくる。
「いえ。私もまだ、何かに困るほどここに長くいるわけでもないから」
偽らざる本音――と言えば本音。が、完全な真実ではない。
実際、何もすることがないわけだから、何に困ることもない。と見せかけてひとつ、この暮らしの入り口でものすごく困ることはあった。思い出す。手が取れたり、頭が外れたり。それから思う。ああ、また思い出してしまった。折角考えないようにしていたのに。頭の奥底に押し込めていたのに。
あれ、何?
「……ええ、本当に」
「そ、そうですか? 何やら難しいお顔をされているようにも見えますが……」
社会生活を営む上で、貴族平民かかわらず身につけるべき基本動作のひとつに、『頑張って笑う』というものがある。アルネは、メイドにそれを披露した。自分で言うのもなんだけれど、練習の成果もあって、見た目だけなら結構貴族っぽく見えると思う。
「おや、奥様。どうかなさいましたか」
話をしていると、執事も通りがかった。
あ、とメイドが声を上げる。実は奥様が……。報告を聞いている間、今更アルネは思っている。奥様って。いまだに全く実感が湧かない。聞くたびに誰のことなんだと思う。知らない人の皮を被って生活している気分。
もちろんそんなの、『お嬢様』の頃からそうだったけれど。
「なるほど」
事情を聞いて、執事は頷いた。
しかし、と難しい顔もする。何となく、こちらの意図を察していそうな気もする。
「旦那様は大変優秀な方ですからね。これまでも『完璧に』当家は回っていましたから、なかなか新しく何かと言っても……」
「いえ、ないならいいのです」
アルネは貴族の微笑みで言う。自分が暇だからという理由で周りを振り回すつもりはない。ただ、『家に馴染んでもらう仕事』と聞いて最初に思いついた話のきっかけが、この話題だったというだけだ。
それがダメなら、他がある。
「それにしても、ハクレダ様はそれほど優秀な方なのですか?」
「そ……!!」
軽い気持ちで投げかけた質問だった。
が、執事とメイドの声が揃った。さっきまでの温和な雰囲気がどこへやらというくらいの大きな声だった。何なら少し詰め寄られて、迫力負けで後ろに下がりかけた。貴族教育のたまもので、何とか堪えた。
「そ?」
訊き返した。
「……そ、それはもう」
代表するように、執事が言った。
ごほん、彼は意気込んだ自分を恥じるように、咳払いをする。よほど慕われているらしい、ということがその仕草だけでもわかる。
「歴代のご当主様方も皆さま大変優秀でいらっしゃいましたが、率直に申し上げまして、旦那様は一線を画します」
「そんなにですか。失礼、私もあまり他領の歴史には詳しくないもので」
でしたら、と執事がいきいきし始める。
それから彼は語るに語る。ご当主様は幼い頃から神童と名高く、三歳のときにはすでに領内の会計処理の問題点を見抜くほどの慧眼をお持ちで人の顔を一度見たら二度と忘れることはなくまたすでにご隠居なされてしまいましたご先代もその資質を正しく見抜き七つのときにはいくつかの事業を任されるようになり特に医療・衛生関係の大学設立はここ辺境伯領のみならず王国、いや世界全土におけるまさに革新的な――
「――これは失礼しました」
途中でメイドが「私は仕事に戻りますね」と一礼したのをきっかけに、執事は我を取り戻した。
別に失礼ということもなく、そのまま喋り続けてもらってもよかった。そのまま全部が聞けそうだから。けれど、アルネは笑って、
「いえ。大変参考になりました」
あまり引き留めても悪いと思うから、会話を切り上げる。
そう言っていただけると。執事は恐縮しきりの様子で言う。何となくそれで、アルネは気が楽になる。完璧な人間より、失敗することのある人間との方が付き合いやすい……というのはちょっと卑屈な言い方かもしれないけれど。何にせよ、この『新しさ』に戸惑っているのが自分の側だけでないと感じられることは、少しばかりの励みになった。
すぐにどうこうというわけではないけれど、何とかやっていけそうな気もする。
やっていく、というのが最終的にどういう形になるのかは、わからないけれど。
自分がどこに向かっているのかは、わからないけれど。
「そうだ。よろしければ」
後は一礼をして別れて、また別の使用人に話しかけにいく。
はずだったところで、執事が言った。
「図書室にご案内いたしましょうか。当家の歴史が記された書物もございます」
◇
ごゆっくり、と執事が部屋を出ていく。
扉が閉じる音を聞きながら、生まれたときから家の中に図書室があるってどういう気持ちなんだろう、とアルネは思っている。
木の色が落ち着いた、古い部屋だった。
棚にして百以上はある。一部に明らかに普通の背丈で届かない高さの大棚があるのは、デザイン上の問題だろうか。けれどそれで圧迫感を感じるというわけでもなく、ただただ広い。並んだ背表紙はいかにも歴史を抱えているのに、埃臭くて黴っぽいという感じは全くしない。誰かが、ずっとここを手入れしているからだろう。
ここの本を読んでいるだけで一生が終わりそうだ。
図書室というより、図書館。
伯爵家にいたときもこれほどのものにお目にかかったことはなかったけれど、アルネは残念ながらそのほとんどに用がない。まずは入り口近くの配架案内図を元に、トルソール辺境伯家の歴史のコーナーへ。ものすごく分厚い本ばかりで、気圧される。手に取ってみる。もしかすると日記みたいなものなのかもしれないと思ったけれど、全然そんなことはない。地理とか人口とか文化とか。同じ時代に生きている人間同士なのに、どうやら自分とあの辺境伯では、背負った歴史の荷物の重さに随分な違いがあるらしい。
暇つぶしにはちょうどいい。
というか、何かあったときのためにある程度は知っておいた方がいい。
そういうわけで、アルネはそのまま歴史書を読み込むことにした。おおむねは、伯爵家で聞いてきたとおり。その細部が、本当に細かすぎるくらいに記されている。人名もたくさん出てくる。これは覚えた方がいいのか、そうでもないのか。覚えた方がいいにしても、一度に覚え切るのはまず無理。本物の貴族の人はどうなんだろう。意外と覚えてなかったりするのかな。アルネはと言えば、父方の祖父母の名前すら知らない。母方の祖父母は、最近その顔を思い出すことが難しくなってきた。
日が暮れていく。
ランプを点けるほどの用事でもないだろう、と思った。
それにそろそろ食事の時間だ。本を閉じて、アルネは立ち上がる。元あった場所にしっかりと戻す。そして、考える。
魔法の話は、全然なかったな。
のんきな感想というわけではなく、このときアルネはじわりと背中に汗の気配を感じている。
言わなくてよかった、と思っている。
さっきの執事と話していたときのことだ。あの何でも話してくれそうな雰囲気の中で、アルネはつい訊いてしまいそうになった。そうなんですね。旦那様がそれほど優秀で皆様から慕われていること、わたくしも大変嬉しく思います。優秀な方とはお聞きしていましたが、実際にこうして近しい者から評判を聞くと一層その実感も湧いてくるものです。
ところで、魔法の方はいかがなのですか?
魔法?
なんて、訊き返されたものならたまらない。
家の歴史書には、『魔法』の一言も見当たらなかった。もちろん、単に目を通せた範囲にたまたま含まれていなかっただけ、という可能性もある。あるけれど、そうでなかった場合が怖い。これだけ立派な図書室があって、多くの歴史書があって、一切の記述がない『辺境伯は魔法が使える』という事実。
誰が何を、どこまで知っていていいのかわからない。
というかそもそも、辺境伯って『人間』なの?
「…………」
冷や汗というか、背筋が寒くなってきた。
誰も見ていない。だからアルネは、貴族的な振る舞いを一時だけやめてみる。ぶんぶんと頭を横に振ってみる。物騒な思考や恐怖を追い払ってみる。追い払ったところでそれはただ目を逸らしただけでその元になっている現実の事態からは微塵も逃げられていないぞ。うるさい。余計なことを言う理性も、ついでに追い払ってみる。
何も考えないぞ。
それはそれで、怖くなってきた。
だからだろう。図書室から出る間際、ふとアルネは壁に貼られたそれに目を止めた。配架の案内図ではない。その横。別の形の地図がある。
目を凝らすと、それは屋敷の全体図だった。
しかも、色分けがされている。何の色だろう。ついアルネは察してしまう。あ、清掃か何かのシフトか。なんでこんなところにあるんだろうと思うと同時、何か屋敷に関することを調べたいと思ったとき、些細なものでも何でも、この場所に揃っていたら便利ではあると思う。
案外この場所は、辺境伯だけではなく使用人も便利に使っているのかもしれない。
また来よう、と思ったときのことだった。
「ん、」
その色分けが、全くされていない場所がある。
裏庭の方だ。一応、ここに来てから屋敷の案内はしてもらっている。けれど一度で完全に頭に入ったとは言い難く、その地図を目にしただけではパッと頭に浮かべられない。
夕食までは、まだわずかに時間がある。
扉を開けた。
図書室を出れば、この屋敷の中、どこにでも清潔で美しい廊下がある。西日を横切りながら、階段の手前を横切っていく。珍しいところで出会った使用人が、咄嗟にアルネに礼をする。礼を返す。すれ違えば、その先は誰もいない。裏口をひとりで開ける。中庭を通って、裏庭に出て、こんなところに先へと続く道なんかあったんだっけ。春の樹木をすり抜けるようにして、見ず知らずの細道を行く。
一目でわかったのは、大した場所ではないらしいということだ。
建物の影になっている。このあたりの気候が気候だけに、じめじめしていて湿っぽい……ということはないけれど、やはり夕暮れ時、他の場所と比べれば肌寒い。誰も見ていないことを確認してから、アルネは少しだけ、自分の二の腕を擦った。
単に、屋敷の中でも使われていない場所というだけなのか。
それにしては、と思う。
「……」
そのまま、アルネは踏み入った。
このあたりでは、こういう場所に苔が生えないのは普通のことなんだろうか。土が乾いて、雑草だってほとんど生えていない。何もない割には何もなさすぎる――という言い方も変ではあるけれど、アルネはそう感じる。
本当に何もない場所なら、こんな風に、手入れされたような場所にはならないはず。
小石があった。
それだけが不釣り合いに見えた。ここ以外のどこで見たとしても、気にも留めないだろうその石は、たったひとつだけぽつんと土の上に置かれている。屈み込もうとして、やめた。目を凝らした。
日陰の中、その石の周りだけ、少し土の色が違う気がする。
アルネの頭に、過った言葉がある。
お墓。
ざっ、と踵を返した。
何がどうというわけでもない。何かを確信したわけではないし、本気で信じたわけでもない。それでも何となく足早になって、その場所を後にしたくなる時が人にはある。裏庭に戻るまでは、いつものような駆け足で。そこから先は貴族のやり方で、アルネは食堂に急ぐ。人のいる方へ向かう。
見てはいけないものを、見てしまった気がしていた。
◇
夜、アルネは辺境伯と同じ部屋で寝ている。
そんな馬鹿な、と主観的には思っている。けれど、客観的に見ると当たり前のことなんだろうな、と判断するだけの理性もある。夫婦なんだから。新婚なんだから。そういうものだろう。
とは言っても、いつもはベッドに入って、朝まで眠るだけ。
その夜だけが、少し違った。
「…………」
眠れなかった。
正確に言うなら、入眠には成功した。けれど、そこからがひどかった。何度も目覚めるし、寝ていて苦しい。単に寝苦しいというのとも何か違う。寝ていて、苦しい。寝ているとどんどん疲れてくる。起きていた方がマシ、と思えてくる。
というわけで、起きてみた。
上体を起こしただけで、幾分か気分が良くなった。何なのだろう、とアルネは思う。最近はろくに働いていないから、その分身体に元気が余っていて「寝るな寝るな」と反抗しているのか。それとも単に心労がかさんで、眠りに落ちた途端にそれが溢れ出してきてしまうのか。どちらもありそうだけれど、どちらとも決められない。とにかく確かなことは、夜中、ひとりで時間を持て余しているということだけ。
隣では、ハクレダ・トルソール辺境伯が死んだように寝ている。
死んだように、寝ている。
「…………」
そうっと、その顔を覗き込んでみた。
陶器のような、というより陶器そのもののような顔だと思う。
初対面のときは圧倒されたのもあったし、相手は人間のはずだという先入観もあった。けれど、こうして見るとわかる人にはわかるのではないだろうか。
だって、こんなに美しい人間、いるはずがない。
眠っている顔の静謐なことと言ったらない。アルネは思う。自分が眠っているときはどんな顔をしているだろう。もちろん自分で見たことはないけれど、ものすごく間抜けな顔をしている気がする。だって、起きている間の作法や振る舞いはいくらでも矯正できるけれど、寝ている間だけはどうにもならないから。それとも自分が知らないだけで、本物の貴族教育の中にはあるんだろうか。完璧な寝顔の作り方。
それともやっぱり、元からなのか。
少しだけ、自分の指先が動いたのをアルネは感じた。
「……いやいや」
いくら何でも、好奇心に動かされるにも程がある。
小さな声で呟く。それから、何をするかを考える。もう一度眠っても、また苦しくなるだけだという気もする。灯りを点けて本でも読もうか。それともカーテンを開けて、春の星空でも眺めてみようか。
でも、
「起こしちゃう……」
「起きてますよー」
腰が、
「どうしたの。眠れない?」
抜けるかと思ったのは、瞼を閉じたままの彼が、急に口を開いたから。
アルネは声も出ない。心臓が一回止まったと思う。一回止まってから、動き出したと思う。変な汗も出て、それからばっくんばっくんと動悸を打っている。
「お、」
震える声で、
「起こしてしまい、ましたか」
「いや、君が起きる前から起きてた」
そう言って彼は、ようやく目を開ける。肘をついて、身体を横に。
こちらを見る。
「そもそもの睡眠時間が短いんだよ。私、こうすると半分ずつ寝られるから」
と言って、右目を閉じたり、左目を閉じたり。
冗談なのかわからなくて、反応のしようがない。
ははは、とハクレダは笑った。
「それにしても、なんだかじっくり見られていた気がするな。そんなに気になるかい、私が隣にいると」
自分で言っておいて、「まあ気になるか」と彼は続けた。
「隣に知らない男が寝ているわけだし。悪いね。しばらく同じ寝室で」
「…………」
気になるには気になるけれど、本当に気になっているのはそこではない。
会話が始まると、いよいよアルネはもう一度眠ろうという気がなくなってくる。普段はお互い勝手にベッドに入って、勝手に寝ている。ここで会話を交わしたことはほとんどない。それだけにいざこうして話を始めてしまうと、日中のあの緊張感がこの部屋まで満たして、到底無防備に寝られる状態ではなくなる。
「いえ、」
明日から大変だろうな、と心の中では頭を抱えつつ、
「ただ、何となく寝苦しくて。諦めて何かしようと思ったんですが、隣に旦那様がいらっしゃるので、どうしようかと悩んでいただけです」
言えば、ハクレダは起き上がった。
机の方に歩いていく。何をするのかはだいたいそれでわかって、そのとおりのことが起こる。
「どうぞご遠慮なさらず。寝室でまで張り詰めた調子でいたら、疲れて仕方ないだろう」
マッチを擦って、ランプを点けた。
ぽうっと、それで暗い部屋の中に橙の灯りがともる。少し明るすぎるくらいだった。目を細めたのがわかったらしい。ハクレダはそのランプをベッドの陰に置いて、直接目に光が入らないようにしてくれる。
アルネは思う。
火を点けるときは、魔法じゃなくてマッチなんだ。
「本……は残念。私はこの部屋、普段は寝るのに使ってるだけでね。ろくなのがない。図書室にならいくらでもあるんだけど」
そういえばあそこにはもう行ったかな。
訊ねられて、少しアルネは返事を躊躇う。けれど、どうせハクレダが執事に訊けばわかってしまう話だ。下手に隠しても仕方がないし、どうせ効果もない。
「今日、初めて行きました」
へえ、と彼は、
「なかなか大した蔵書の量だろう。暇つぶしには持ってこいだ」
それはそのとおり、とアルネは頷く。
と言っても、目的のない暇つぶしというのは実質『暇』と何の変わりもないとも思う。通うにしても、基本的にはこの家の歴史だとか、社交用の知識を身につけるためだとか、そういうことが主になっていくだろうと自分の行動に予測もつく。
ところで何を読んだんだい。ハクレダが何でもないことのように訊くから、アルネも何でもないことのように答える。トルソール家に関する書物を少し。はは。ハクレダが笑う。
「君のことが少しだけわかってきた」
すごく真面目、と彼は言った。
それはそうかも、と思う一方で、アルネの頭にはこんな言葉も浮かぶ。物は言いよう。実際には、真面目というよりただ落ち着かないだけ。ちょっとだけ、こうも思う。人の家でうろちょろ動き回って、みっともない。
けれど、ハクレダはそうは言わない。
「で、私の正体については何か書いてあった?」
「――――」
もっと怖いことを、平気で言う。
書いてあったか書いてなかったか。そんなことはハクレダは、自分に訊く前から知っているはず。だから、本当の質問の意図はこう。
嗅ぎ回っているな?
黙りこくって、それがそのまま答えになる。
「やっぱり、結構気になる?」
ハクレダはしかし、へらっとした笑みを浮かべてそう続ける。
この笑みを、そのまま受け取れるほど楽観的にはなれない。そもそもが、とアルネは思ってもいるからだ。あの結婚の申し込み。初めのものはともかく、彼の手や頭が外れるところを見てからのこと。あのとき、自分はただ流された。偉い人の言うことにはとりあえず従っておくという、いかにも平民上がりな処世術に身を任せた。それが正解だったのではないかと。
だって、辺境伯の正体を知って「はいさようなら」なんて、許してもらえるの?
夕暮れに見た、お墓が頭を過る。
誰の?
「……はい」
「ま、それもそうか」
はは、とハクレダはまた笑った。
彼はベッドにまた横になる。天井を眺める。アルネは顔を下から見られるのが少し嫌で、かと言って身を引くこともできないから、何となく壁の方を見る。
「で、何かわかった?」
これは重要な問いだ、と勝手に位置付けて、アルネは考えた。
目を合わせないまま、正直に答えるか、はぐらかすか。
「何かの魔法、なのではないかと」
「当たり」
言って、またハクレダは瞼を閉じた。
予想していたこととはいえ、これだけあっさりと認められるとは思っていなかった。アルネはたじろぐ。彼が続ける。
「魔法で私は特殊な体質を持っている。その体質に理解のある結婚相手を探している。そこに君が来てくれた……」
というのはどうかな、と。
このあたりまでで止めておけ、という意味なのか。
けれど本当のところ、今彼が言ったようなことでは、アルネの心の中にある疑問は解決していない。特殊な体質とは何なのか。それは魔法が原因の事故のようなものなのか。それともあえてそうしているのか。魔法では解決できない何かなのか。
他の人は、
「……どの程度まで、知られているんですか」
「君だけ」
よかっ、
たあ、と声に出かけた。今日の昼、執事に魔法の話をしないでおいてよかった。胸を撫で下ろしそうになって、吐息で耐える。それが伝わって、ハクレダが笑う。
「大丈夫だよ。人に言ったって、『あの領主ならありうる』とか『いきなりおかしなことを言うご夫人がいらっしゃったなあ』で済まされるから。というか、そうなるって思ってなかったら、あんなに気軽に言わないし。悪い夢でも見たんだよって丸め込んでたさ」
言われれば確かにそうだと思うのだけれど、心の中にどうしても納得しない部分がある。
アルネは迷う。けれど、ここを逃せばもう、踏み込んだ会話ができる機会なんて二度とないかもしれない。
「でも、」
踏み込んだ。
「あんなに簡単に……その、取れてしまうなら、誰にでもバレてしまうのではないですか」
「私に気軽に触ってみようなんて不届き者はそういないよ」
「…………」
不届き者って、初めて言われた。
すみません、と謝りそうになるのを、ぐっと堪える。だってあのときに怒った自分を間違いでしたと認めたら、今後何をされても自分が頭を下げて終わりになるから。
「これでも高位貴族だからね。日常的に肌に触れうる相手なんて、それこそ結婚相手くらいだよ。特に私は元々着替えも湯浴みも、全てひとりでやる性質だから」
そう続けば、堪えていた甲斐があったというもの。
そうですか。安堵の色が漏れないように、努めて平静の調子でアルネは頷く。それから、何かに引っかかる。何にだろう。探す。言葉。
特に私は『元々』。
いつと比べてる?
「とは言っても、これから君が辺境伯夫人として信頼されていくようなら、『いきなりおかしなことを言うご夫人』では終わらないかもね」
だから、と彼は言う。
「今はともかく、君にはいずれ自主的に協力してもらわなくちゃいけないわけだ」
「……どういう意味でしょうか」
「歩み寄りたいな、って話だよ」
ハクレダは、しかしその瞼を開けたりはしない。
穏やかな顔のまま、寝転がった顔のまま、こちらのことなんてまるで気にしていないような素振りで続ける。
「華やかなドレス、きらびやかな宝石、豪勢な食事に甘い言葉……。君が望むならこの屋敷を改装したっていい。社交界で理想の男を連れ回して自慢するのも、まあ立地を考えるとなかなか気軽にとはいかないけれど、そうだな。年に四回。そのくらいなら叶えられる」
だから――
「欲しいものを言ってみて。私は大抵のことは叶えられるよ。『機能上』ね」
答えは、決まっていた。
この屋敷に来てから、ずっと思っていることだ。本当のところそれは、自分にとって本質的な問題ではないかもしれないと気付いてはいる。けれど、それが得られないことには、どこにも進めない気がする。そういうものが、アルネの中にはある。
真実が、知りたい。
「……これから、」
でも、素直に訊ねてみたところで、正直に答えてもらえるとも限らないから、
「色々と、調べさせてもらうこともあると思うんですが」
「お、」
正直だね、とハクレダは笑う。そして言う。いいよ、続けて。
「癇に障っても、殺さないでください」
それから、何も言わなくなった。
ひゅっ、と肺から空気が上がってくるのをアルネは感じた。間違えた、と思う。何を間違えたのかがわからない。直接的すぎたのか。そこまで言葉にしてはいけなかったのか。これから自分は一体どうなるのか。
考えている間に、
「――ふ」
ハクレダが、
「あはははははは!」
笑って、起き上がった。
瞼を開いている。今までだって随分とにこにこ笑っている人だと思っていたけれど、流石に今が一番の表情。ほとんど涙が浮かんだっておかしくないような調子で笑って、
「私ってそんなに怖かった?」
アルネは、状況の起伏についていけず、物も言えなくなっている。つい、素直に頷く。さらにハクレダは笑う。
「そうか。それは何というか……申し訳ないな。私って、自認は愉快で優雅な領主様なんだよ。トルソール領では貴族の機嫌を損ねたら死ぬなんてことはありえないし……うん。これは大変申し訳ない」
笑っている場合じゃないな、と頭を下げてくる。
こうなると、アルネはどうも自分の方が悪かった気もしてくる。
別に、今の時代になって「貴族の機嫌を損ねたら殺される」なんて言っている人間、この辺境伯領に限らずまずいない。自分が勝手に怖がっていただけ、という側面もなくはない。というか、口封じだのなんだの、全て自分の不安から這い出てきた勝手な想像だということに、今更思い至る。
でも、ずっと不穏な人だったじゃん。
それでも、勝手に「この人に殺されるかも」なんて怯えられる謂れはないのかも。
「す、すみません、私の方こそ……」
頭を下げ返す。ハクレダは、やはりこれも気にしていないように笑った。
「いや、私が悪い。普段滅多に領外には出ないから、どうしてもここでの振る舞いが染みつきすぎているんだな。もっと権力者が持つ威圧感に自覚的であるべきだと気付かされたよ。それに、知り合いがひとりもいない場所に飛び込んできた君の不安に、その場所の主としてもっと寄り添うべきだった」
遠回しに馬鹿にされているのかな、と思った。
不安に寄り添うべきだったって、四歳児を相手にしているんじゃないんだから。威圧感を出しすぎてごめんねビビリさん。そう言われているのかなと疑った。
でも、そうやって変な勘ぐりをしていた自分を、今しがた謝罪したばかり。
疑いと自制の両方が、心の中で衝突して、
「嘘、これもダメ?」
多分、それが顔に出た。
「君って気難しい人だなあ」
ハクレダが笑う。アルネは笑わない。気難しい人なんて言われたのは初めてだった。耳慣れない響きで、ハクレダの笑みもそういう揶揄いの色があるような気がしてくる。
でも、とふと思う。
『簡単な人』だと思われるよりは、『気難しい人』の方がいいのかも。
「よしわかった。約束しよう」
一体何がわかったと言うのだろう。
ハクレダは、アルネに小指を差し出した。
「どうぞご自由に私のことを調べてみるといい」
今のところ、暇を持て余しているらしいしね。その過程で色々この家のやり方に馴染むこともあるだろう……そう、彼は言って、
「で、その結果何を知ったとしても、私は君を殺さない。殴ったりしないし、蹴ったりもしない。酷いことは何もしない」
どう?
と言って、笑う。
どうもこうもない、とアルネは思った。自分に損になるようなことは、何もない。そっと、ベッドから手を離す。小指を立てて、彼の小指に近付ける。
指と指が、絡まる。
「それじゃあ約束。指切った」
そう言う彼の指は、きっとアルネが力を入れてしまえば、あの日のように手首ごと引っこ抜けてしまう。
「答えがわかったら、私にも教えてね」
アルネが「はい」と頷けば、それで話は終わりだった。
さあ、ともう一度ハクレダがベッドに身を投げ出す。もう夜も遅いし、明日に追い付かれてしまう。寝よう寝よう。もちろん、君は明日の昼まで寝こけていたって一向に構わないんだけどね。うちのお姫様だから――どこまで本気で言っているのだか、まるでわからない。リアクションらしいリアクションも取れず、アルネは彼の隣に横たわる。それじゃあランプも消してしまうよ。はい。
ふっと火が消える。
小指に少しだけ、感触が残っている。
証拠もなければ根拠もない、儚い約束。
それでも不思議とアルネは、それからの夜は寝苦しくなかった。
◇
本当のことを言うと、あの夜さえあれば、後はもう何も調べる必要はなかったのだと思う。
だって、アルネにはもう『受け入れ方』がわかっていたから。
あれ以来、緊張感が抜けた。何の解決もしていないはずなのに……と自分の単純さに呆れることは簡単だけれど、結局、『よく知らない相手だから』不安で、落ち着かなくなっていただけなのだ。
会話が交わせるようになれば、後は馴染んでいくだけ。
たとえ相手のことを、『本当には』知らなくても。
「私から見た旦那さまですか? それはもう……正直に? ……それはもう、明るい方ですよね。落ち込んだことなんてあるのかな」
たとえばあれから、アルネは他の使用人にも訊いてまわることにした。
あなたから見て、ハクレダ様はどんな方? ぎくり、とされる気持ちがアルネにはわかる。精神的にはいまだに、ハクレダよりも使用人たちの側に立ち位置は近いから。
だから、こんな風に言う。今度の旦那様のお誕生日に、話の種になればと思って訊いてまわっているの。よければ正直な感想を教えて。
こんな小手先の話術が、案外効いた。
執事もメイドも庭師も料理人も、みな喜んで口を開いてくれた。曰く、明るい方。気さくな方。気取らない方。でも見た目でわかるとおり、すごく美しい方。性格以外に、業績面も。その領主としての手腕の凄まじいことと言ったら幼き頃より類を見ず、今や志ある領主はみな彼を見習い、書簡を交わし、この国の未来を見据えている。
ハクレダ様、ばんざーい!
とまでは、流石に行かないが。
しかしそれに近しいものを、アルネはこの家から感じ取った。慕われている。それは特に、雇用主への遠慮とか媚びであるとか、そういうものもなしに、純粋に。
魔法のことは、誰も口にしない。
それは、屋敷の外に飛び出してもそうだった。
「明日、暇?」
たびたび寝室で、あるいは図書室で、ハクレダはそんな風に誘いをかけてきた。
彼が以前に言ったとおり、辺境伯領は国内交通ではかなり不便な場所にある。けれど、領内を移動する分には、それほどの負担はない。
彼は視察のついでにと、アルネを様々な場所に連れていった。
初めはもちろんすごく緊張して、前日じゃなくて一週間前に言ってくれればもっと予習できたのに、と思ったりもした。
けれど慣れてきてからは、自分で自分に「良いご身分だな」と言うほかない。
領民は、みな大層幸せそうに暮らしていた。そうした『模範的な』領民とだけ触れ合っているのかと疑いもしたけれど、どうやらそうではない。図書室で学んだこの領地の妙な豊かさと穏やかさ。それが嘘ではないらしいとわかってきた。
「いやあ、こう言っちゃなんですが、ハクレダ様はお若いのに信じられないほど素晴らしい方で……」
採れたての果実の中でももっとも美味しいものを贈られて、舌と頭を混乱させながらも、やはり訊ねた先の領民はそう答えた。
「いっそ、この調子で百年、いや千年、領主をやっていただきたいものですな!」
「はは。ご期待に沿えるよう、長生きさせてもらうよ」
ふふ、とアルネも一緒になって笑うだけの余裕も、できた。
段々と、約束のことを忘れている時間が増えた。
余裕ができてみれば、いっそこのくらい変な相手との結婚だったことに安堵する気持ちも湧いてくる。これだけ大きな領地を治める生粋の貴族を相手に、これだけ親しむことができるとは思っていなかった。連れ出された先で、湖にふたりで舟を浮かべることもあった。ほら、と庭に連れ出されて、木の上で眠る小さな猫を眺めたことも。図書室でいつの間にか眠りこけて、起きれば肩に彼の上着がかかっていたことも。
昨日は、そのお礼にと執務室の彼に、一杯のお茶を差し入れた。
「…………」
「ん、何?」
「いえ」
ありがとう、と受け取った彼がカップに口をつけるのを見ながら一言、
「飲むんだなあ、と」
「自分で差し入れておいて?」
呆れたように、彼は笑った。
大体、いつも一緒に食事してるでしょ。それはそのとおりだと思うけれど、そう思ってしまったのだから仕方がない。でも、と反論を始めようとする。先んじて、ハクレダが言う。
「君って、変わった人だなあ」
少し迷う。
けれど、言う。
「あなたに言われたくはありません」
そうして彼が笑ったとき、確かにアルネは思った。
気難しくて、変わった人。そんな風に言われたことは初めてだった。でも、自分が変わったわけじゃない。元々の自分の性格は、きっと昔から同じまま。だったら、何が変わったのか。
居心地の良い場所にいるから。
このままここにいてもいいのかもと、そう思った。
だから本当のことを言えば、もうそれ以上、何も知らずにいてもよかったのだと思う。
◇
「跡取りの計画については、すでに話されているのかな?」
そんな日々の中でも、心労の溜まる出来事というものはある。
たとえば、普段は離れて暮らしている義両親の訪問とか。
狙いすましたようなタイミングだった。ハクレダが珍しく隣接する伯爵領へ外遊に行くというとき。一通の手紙が来る。今度そちらに伺います。アルネは見知らぬ貴族に辺境伯夫人としての気品を試されるか、義理の両親を義実家で、ひとりでもてなすかを選ぶことになる。
どちらにせよ、いつかは通る道ではある。
それなら後は、体面の問題。
夫の外遊中に夫人が留守を預かるというのは、何もそこまで変な話ではない。一方で、先代辺境伯たちが訪ねてくるというのに、当代の人間は全員で屋敷をもぬけの殻にしているというのは、いかにも軽々しい対応に映る。
では、とアルネは留守を預かることにした。
「ま、安心してくれ。気さくで明るい人たちだから」
そう言って、ハクレダだって笑っていたのに。
「……そうですね、まだ」
いきなり跡取り、つまり子どもの話が出てきたから、流石にアルネの顔も引き攣りかけた。
貴族同士の結婚なのだから、こういう話題が出てきてもおかしくはないと思う。おかしくはないと思うが、ただでさえこういう話題は負担が大きい――できれば避けて通りたい――のに、事情が事情だ。どのくらい踏み込まれるだろう。どこまで踏み込まれて、どこまで自分は許したふりをすればいいのだろう。
「ちょっと」
そういう心配を、義母が消してくれた。
彼女は率直に、咎める目つきで義父を見た。ああいや、と居心地悪げに義父は身じろぎをする。助かった。後は当たり障りのないことを言うだけ。事前に台詞を用意しておけばよかった。
「そういう意味ではなくてね。昔、大病をしたから」
「え?」
訊き返せば、さしてそのことが意外でもないように、義母は言った。
「昔の話ですから、アルネさんにもお話しなかったのでしょう。辺境伯は昔、病に罹ってひどい高熱を出したことがあるんです」
「覚えていないかな。十年ほど前の流行り病で、王都の方でも少し出回ったんだが」
聞いても、残念ながらアルネには思い出せない。
領地の衛生に責任を持つ家の者として不勉強この上ない。もちろん彼女は、義両親が帰ってから図書室で調べることになる。すると、そこには感染性の病についての記録が残っていた。厄介なのは空気を伝って感染するために封じ込めが難しいことで、その症状はおおむね軽度でありながら、時に体質や病の『型』によっては、非常に深刻な結果をもたらす。
罹ったもののうち、四千人に一人が死亡する。
「もちろん彼は助かったんだが、直後に後ろ向きなことを言っていたものでね。後遺症があるかもしれないから跡取りについては少し考えるとか、肌が気になるから家中の者にも触れられたくないとか。特に後遺症については『取り越し苦労だった』とも言っていたんだが、どうもそれが頭に残ってしまって」
「ごめんなさいね、アルネさん。本人からでもないのに、急にこんな話をしてしまって」
ただ、と義母が言った。
「結婚してから、とてもふたりが楽しく暮らしていると聞いたから……」
それからも、アルネはふたりと話をした。
いえそんな。右も左もわからないところを、ハクレダ様に助けていただいているばかりで。そんな、いいのよ。楽しく暮らしてくれさえすれば。そうだな。こまごまとした仕事のことなら辺境伯に任せておけばよろしい。あれは幼い時分からすでに私などより遥かに出来の良い領主で……。だからね、何度も混ぜ返すようになって申し訳ないけど、子どものことは気にしないで。今日はそれが言いたかったの。そうだな。先々代……私が引退したから、もう先々々代か。大叔母上も、さらにその先代が遠縁の娘を「優秀だ」と攫ってきてな。だから――
はい。
お気遣い、ありがとうございます。
◇
ふたりが静養地に戻っていくのを見送っても、まだハクレダは帰ってこなかった。
早くて五日ほどはかかる、と聞いていた。隣の伯爵には気に入られているから引き留められるかもしれない、とも。それなら七日、あるいは十日。そんな風に、アルネは見積もっていた。
辺境伯領主代行、の肩書は重かった。
けれど、実際の業務はさして重くはなかった。
保守作業というのは、掃除と同じだ。普段から綺麗にしておけば、綺麗にしやすいように周りのものを整えておけば、ほんの少し触れるだけで仕事は終わってしまう。もちろん、領地経営というのは『保守する』作業だけが全てではない。けれど、長くてたかだか十日程度のこと。開発や発展に属する仕事にアルネが手をつける必要はない。書類を検めて、内容に不備がないことを確認したらサインをするだけ。
ときどき割り込むトラブルも、家中の者と相談して何とか解決した。
「や。流石でございますな、奥様。おかげで助かりました」
という執事の言葉も、満更ただのお世辞というわけではあるまい。
何とか、この椅子に座る人間としてやるべきことはこなせている。ほとんどはハクレダに整えてもらった道を歩いているだけではあったけれど、それでも、言われたことや定められたことをそのとおりに済ませることだって、立派な仕事のひとつだ。
案外と、こうして一緒の仕事をこなして家中の者と親しませることすら、彼の計画のうちだったのかもしれない。
少しずつ、アルネは『辺境伯の結婚相手』から『辺境伯家の主人のひとり』に立ち位置が変わりつつあるのを感じ始めている。
だから、こんな風に訊いても答えてもらえた。
「ハクレダ様は、以前に大病をなされたとか」
ええ、と長く勤めている者はみな頷いた。
そうなんですか、と勤めて日の浅いものはみな驚いた。
「そんな風には見えませんね。お風邪を召されたところすら見たことが……」
「確かに若様――旦那様が体調を崩されたのは、それが最後かもしれませんね。病み上がりには『懲り懲りだ』と笑っていらっしゃいましたし、以来よくお気を付けになられているのかと」
その頃はどんなご様子でしたか。
我ながら、奇妙な質問だとアルネは思う。それでも、彼らは答えてくれた。
「高熱が何日も続き、大変苦しんでおられました」
「しかし、当時は旦那様もほとんど子どもと言ってよいお年でしたから。流行り病ということで部屋にお籠りになられていましたが、熱が引いてからはけろりとしたものでしたよ」
「『心配をかけたな』と仰って。むしろ、以前よりもお元気になられたような印象すらございますね」
そう、とアルネも頷いた。
日を置いて、ハクレダを診た医師についても訊ねた。当時すでに高齢であり、今はすでにこの世を去っているという。そうですか。それ以上は、アルネも痕跡を辿ろうとは思わなかった。
もう、ほとんどのことはわかっていた。
ある晴れた日の昼下がり、アルネは屋敷の中をひとりで歩いている。
午前のうちに、目を通すべき書類にはすべて目を通した。後は、突発的なトラブルでも起こればそれに対応するだけ。組織が上手く回っているとき、上役がすべきことというのはほとんどないものだ。誰に引き留められるでもなく、彼女はゆっくりと、屋敷の廊下を歩いていく。
戸を開くと、鮮やかな日差しが目に入る。
いつの間にか、夏が来ていた。
風に乗って、緑の濃い匂いが香ってくる。トルソール辺境伯領には、小さな湖がある。けれどそれほど領主邸と近くはないものだから、花や水よりも、草の匂いの方がずっと強く鼻腔に届く。暑さに膨らんだ空気は、土を踏みしめるアルネの足音をぼやけさせる。貴婦人の白い日傘は太陽の光を跳ねのけるけれど、庭木の青がもう一度その光を照り返して、彼女の肌を温める。強い光が作るくっきりとした影は、まるでこの世に白と黒の他に色などないかのような顔をしている。
その、境に立つ。
裏の庭の、手前。
その影の向こうに、ぽつりと小さな石の墓が置いてある。
静かな場所だった。
元々日の当たる場所ではないからなのだと思う。夏の夜明け頃のような冷たい空気が、風に乗って流れてくる。庭土もまた、季節のことなど他人ごとのような顔をして、しんとしている。それでも、その場所に時が流れていないわけではない。風が砂を払い、小石からは角を取る。
何を埋めたにしても、土は少しずつ同じ色になっていく。
アルネは、影の中に踏み込んだ。
見下ろすと、それは本当に小さなものだった。きっと、この辺境伯領に身を置かずとも、街角の庭のそこかしこでこんなものを見つけることはできるだろう。人のためのものとは見えない、たとえば飼っていた子犬だとか、小鳥だとか、そういうもののために備え付けられたと思しきものが。
少しだけ、アルネは目を閉じる。
風に吹かれて、平穏な日々のことを、思った。
ここに来てからは、奇妙な出来事に驚かされた。貴族の名家に行くならばと準備をしてきた、あらゆる想定を超えることばかりが起こった。
けれど、それを受け入れてしまえば、これほど心地良い場所になるということもまた、想像していなかった。
環境に適応する能力のことを、思う。周りの人間に恵まれてきたのだともまた、思う。母の顔が浮かんだ。ほおら、と自慢げに勝ち誇る顔。かつて近しい場所にいたときにはあれほど腹立たしかったものが、今では不思議と懐かしい。あの人はあの人なりに考えがあるのだろう。それでも、と否定してきたはずの思いを、隣に置くこともできている。
流れるままの人生でも、よいのではないかと思えた。
流れた先が、『本当に』美しいものであるのなら。
「アルネさん」
屈み込むよりも先に、そこにいるとわかった。
だから、アルネは振り返る。不要になった日傘を畳みながら、その向こう、日の当たる場所へ振り向いて、そこに立つ人を見る。
その人は、輝いていた。
真っ白な夏にその身を浸して、いっそ自ら光を放っているかのようだった。
「わかっちゃった?」
けれど、そうではないのだろう。
彼の微笑みは、光の中で曖昧になる。人でも木でもないその身体は、周囲のものと溶け込むこともなく、眩しすぎるほどの光の只中で、いっそ惨めなほどにくっきりと存在している。
口にしなければ、なかったことになることもあるのかもしれない。
「――あなたは」
それでも、アルネは言った。
「もうずっと昔に、お亡くなりになっているのですか」
◇
ある日突然魔法が使えるようになった、というわけではないらしい。
子どもの頃から、不思議なことができた。それはすごく些細なこと。たとえば、少し離れた机の上にあるペンが欲しいと思ったときに、勝手に自分の方に向かって転がり落ちてくるような。
周りの反応を見て、ハクレダは学んだ。
ああ、これが何なのかわかるまでは、隠しておいた方が良さそうだ。
図書室の本を読むのに苦労しなくなったのは、貴族教育が始まってすぐのことだったという。家庭教師の役割なんて、一年もすれば必要なくなった。そして大抵のことは過去からの積み重ね。膨大な蔵書を読み込むうちに、ハクレダは自分が『魔法使い』であることに気付く。
けれど別に、何に使おうという気もなかった。
使わなくても、何でもできたからだ。
神童というのは、特に未熟な発達段階にある子どもによく向けられる言葉ではある。しかしハクレダの場合は、いつまでもその呼び名が通用した。同世代の子と比べて、という話ではない。辺境伯に必要となる仕事の大半は、足し算引き算と同じように理解できた。七つのときには、父母が不在の家で辺境伯の代理を勝手に務めたこともある。なぜ署名などしたと詰め寄る父に、ハクレダは理路整然とその理由を説明し、最後にはこう言った。
簡単なことです。間違いようがない。
仕事への同行が許されるようになれば、これから数十年の領地の繁栄を疑う者はいなくなった。
だからハクレダは、魔法を活用して何か利益を得ようと思い立つことすらなかった。辺境伯ともなれば、自由にできる財も仕組みも多岐にわたる。ただそれを『普通に』差配し続けるだけで、思うことは全てが叶う。
それでも、万が一にと備えを怠らないだけの謙虚さがあったのか、幸か不幸か。
病が流行った。
初めは小さな咳で、誰もがこう見た。ハクレダ様も流石に人の子。病に罹ることもあるか。しかし剣を握れば騎士にも軽々打ち勝つようなお方。数日どころか、その日にはけろっと治して仕事に取り掛かられてしまうに違いない。
病がそうした単純なものではないと、ハクレダは知っていた。
これは死ぬな、と肺の引き攣れに己の運命を感じた。
部屋に、ひとりだった。
診察に来た医師のことは、追い返してしまった。自分の身体のことは自分が一番よくわかっている……厄介な患者のよく言う台詞だろうが、このときばかりは医師も同意した。ほとんどの場合は症状が軽微であることも手伝い、特効薬はない。滋養のあるものを摂って、休息に努め、体力次第であるいは。ほとんど運を天に任せるような身の振り方が、そこにあるだけ。
冷たい冬の頃、窓の外には雪が降っている。
かじかんだ指先で、ハクレダは『自分』を捨てる覚悟を決めた。
できるかどうかはわからなかった。試したことがない。当たり前のことだ。魔法で何を成し遂げようとも思わなかった人間が、これほど危ういものに興味本位で手を出すはずがない。だから彼は、己の才覚のみを恃んだ。多くの分野で、多くの人の期待を超えてきた。物事の要点を捉えるに長け、勘所が良い。初めからできることも多々あった。今回も、と思う。今回こそ。今回だけは。
部屋に、一体の人形が置いてある。
その指先を、『自分で』動かした。
それは、ハクレダの部屋にずっと昔からある人形だった。ねだった記憶はないし、与えられたときにさして喜んだ記憶もない。恐らく母あたりが、「昔自分が貰って嬉しかったから」という記憶を頼りに、子に授けたものだろう。さして愛着はなかった。けれど、捨てるほどのものでもない。メイドが部屋の掃除をするついでにと埃を払い、いつもベッドサイドのチェストの上にひっそりと座り続けている。
それは、とても恐ろしい作業だった。
少しずつ、肉体が動かなくなっていく。それが魔法の効果であるのか、それとも『死』の作用であるのか、判別がつかない。戻れなくなると思えばこれほど恐ろしいことはないというのに、ぐずぐずしていれば進むことすらできなくなると思えば、ただひたすらに足を速めるしかない。まずはその足だ。足から肉の感覚が消え失せて、代わりに布と陶器の、ひどく軽い感触だけが残る。身体の意識がこれほど遠く、二つに別たれた者などかつて存在しただろうか? 魂まで――いや、魂こそを二つに裂かれた心地がして、頭が潰れたように気分が悪くなる。
終わらない。
次は、腹。
腰も胸も腕も終えて、首の感覚まで明け渡せば、いよいよ斬首されたような心地になる。自分の魂が、こんなに小さなものに宿り切るとは思えない。すでに失策は悟っている。子ども用の人形には、筋肉もなければ関節もない。動かすには魔法の力を使うしかない。けれど魔法の力がどこに由来するのか、そんなことはどの本にも書いていなかった。何か肉体とは違うものが源であればよいと思う。残っているのは頭。頭なのか? 人間の頭と人形の頭は当然作りが違う。もしかしたら、この『魔法』を終えた途端に自分は何もかもを失うのかもしれない。自らの生に自ら終止符を打つのかもしれない。結果がわからない。答えがわからない。自分はどうなる? 人と同じところへ行けるのか? それとも何か、もっとずっと暗い場所へ行くのか? あれだけ寒かった身体が、もう何ともない。こんなことをしなければよかった。時間を戻したい。強張っていた肺の感覚が何もない。身体に力が入らない。ぐったりと横たわって、もう二度と動かない。誰かに許しを請いたいのに、誰の顔も思い浮かばない。怖い。怖い、怖い、怖い、怖い!
それでも、
◇
夏の夜は、不思議な色をしていた。
日の名残が、まだ西の空に閉じ込められたままなのかもしれない。あるいは夜空の向こうの星が、昼の日の余熱のままに、地上へ滲み出しているのかもしれない。カーテンを開け放した寝室では、あれだけ夜空は暗いというのに、不思議と紫がかったような光が満ちている。
それで、と。
まるで話は終わったかのように、ハクレダは言った。
「人形辺境伯の完成だ」
もちろんアルネは、重ねて訊ねた。
では今のそのお身体はどうされたのですか。ハクレダは答えた。もちろん、後から作ったんだよ。見たことないだろ、こんなに精巧な等身大の人形なんて。しかし、とアルネは続ける。当時を知る方々は、数日中にハクレダ様はご回復なされたと証言しています。そんなに短期間でということは、それも魔法で?
いいや、
「最初は、自分の身体を人形代わりにしたんだよ」
つまり、とふたつの枕を手に持ち、彼は言う。
「一度は小さな人形に移し替えて、今度は自分の身体に意識を戻した」
「それは……どういう」
「死体だって、肉で出来た人形のひとつだよ」
彼は語る。それほど時間があるわけではなかった。使用人だって、誰も部屋を覗き込まないわけではない。魔法で音は生み出せたけれど、声だけで誤魔化すには限界がある。だからまずは、一番手近な人形をカモフラージュに使った。
「もっとも、それも長くは続かない。病を直接治癒できなかったことからもわかるとおり、魔法では上手く肉の身体に作用できないんだ。だから、本当に形だけ。一度死んだ身体を、筋肉や神経ではなく、魔法で無理やり動かした。腐らないように、それから病原体を排除するために、氷のようにその温度も下げた。到底長持ちしそうにはなかったけれど、その間にどうにか自分にそっくりな陶器の人形を作り上げて……」
ふたりは、ベッドサイドに腰掛けていた。
星の明かりを浴びて、向かい合っている。アルネの肌からは、まだ昼の余熱が引かない。一方で、ハクレダの肌は変わらず冷たい。彼は枕を投げ出す。両手を広げる。
そして、言う。
「今、ここにいる」
部屋の中は、涼しかった。
夜だから。そう簡単に理由を説明できるはずなのに、アルネは思う。人がひとり、足りていないからだろうか。体温を持った人が、ここにはひとりしかいないからなのだろうか。そう、考えてしまう。
本当の体温を持っていたはずの肉体は、きっとあの場所に眠っている。
屋敷の裏庭。建物の影にぽつんと置かれた、小さな石の下に。
「それにしても、よくわかったなあ!」
明るい調子で、ハクレダは言った。
それは、いつもどおりのことではある。思えば彼は、最初からずっとこんな風だった。つまり、朗らかで、笑顔を絶やさず、ときどき余計なことを言って心臓に悪いことを除けば、何の欠点も見当たらない。
今は、それがどれだけ『普通のこと』ではないのか、わかる。
自分だったら笑えるだろうか、と思った。
「まあしかし、君があの場所を掘り返す前でよかったよ。この暑さだ。余計な手間をかけて、身体を痛めつけることもない」
「……いえ、すみません。勝手に歩き回ってしまって」
「謝ることはない。人はいつでも自由だよ」
さ、と彼は一層美しく微笑んだ。
月のようだ、とアルネは思った。その口が描いた弧が、欠けた月に似ていたというだけではない。その、少し淡い輝きが。
会ったときには、あれほど眩く見えたのに。
今となっては、淡く映った輝きが。
「約束は守るよ」
ぎ、とベッドが軋む音がする。
ほんの少しの身じろぎ。それがどちらのものかもわからないままで、
「答え合わせはおしまい。このことで、君を傷つけたりはしない。最初に言ったとおり、愛人だっていくら作ってくれてもいい。もちろんこのままが心地良いっていうなら、それを維持するために力を尽くす。……私のことはどう『使って』もらっても構わない」
だから、と彼は囁いて、
「明日も、ここにいてくれないかな」
答え合わせが終わり、次の問いが始まる。
答えるのは、今度は、アルネの番だった。
「……ひとつだけ」
それでも、訊ねたいことがあった。
自分の声がひどく震えていることにアルネは気付く。視線が無意識のうちに、水を求めて部屋をさまよう。それに意味がないことに自分で気が付いて、けれどその後の置き場所が定まらない。
どこを見ているのか、自分でもわからないままで、彼女は訊ねた。
「どうして、そこまでして?」
だからそのときハクレダがどこを見ていたのかも、わからない。
自分がどういう答えを、期待していたのかも。
「だって、」
でもきっと、と。アルネはそれから、何度も思う。
彼は、笑っていたのではないか。
「貴族の跡取りなんだ。
一度死んだくらいじゃ、みんなの期待は裏切れない」
多分、いつもどおりに。
そうしてふたりは、話をする。夜が更ける。夜が明ける。
アルネが頷く。
結婚式の日が、ようやくやってくる。
◇
「なんであんな人を傷つけること平気で言えるの!?」
と平気で言えたら、どれだけたくさんのことを自分の思い通りにできただろう。
そういう風に、アルネは過去を振り返ることがある。
おおむねそれは、母の顔と結びついている。そして、あるひとつのエピソードとも。
同級生の、女の子がいた。
学校を卒業してからは、しばらく会っていなかった。それでもアルネは覚えている。同じクラスのとき、裏庭でよくお弁当を一緒に食べていた。そのときの食べ方がすごく綺麗で、ひそかに憧れていた。「アルネちゃんのお弁当、すごくおしゃれだよね」と彼女が笑ったとき、前髪に木漏れ日が当たって、小さな川のようにきらめいていたことも、よく。
その彼女が、古いドレスを持って店に来た。
アルネがまだ、仕立て屋の職人になるつもりだったころ。
彼女はアルネの顔を見ると、パッと顔を輝かせた。アルネちゃん。今では役場の職員となった彼女は、昔と同じ声でアルネを呼んだ。決して、鈴の鳴るような高いものじゃない。明け方の図書室の扉を開くときのような、そうっとした、静かな声で。
好きな人ができた、と彼女は言った。
街のお祭りの日に、パーティに誘われている、とも。
アルネはその頃、恋人がいたわけではない。けれど仕事が仕事だから、その街にずっと住んでいたから、それがどういう意味を持つことなのかは知っていた。一世一代のデート。好きな人に一番綺麗な姿を見せるチャンス。アルネちゃんにお願いしたくて。そう言って頼ってもらえたことが嬉しかった。お祖母ちゃんが着ていたの。これを仕立て直してもらえないかな。そう言って彼女が差し出してくれたドレスは、ものすごく貴重な生地が使われていて、縫製にも気を遣うし、形のアレンジも難しい。胸を張って「絶対にできる」とは、自分自身にすら言えない。
それでも、と思っていた。
「好きな男の子にアピールするなら、そんな古いドレスはやめておきなさいな」
母が言った。
唖然とするアルネを押しのけるように、母は接客カウンターに座る。そして説明する。この生地は大変上等なものだけれど、どうしてもドレスとしてのデザインが古い。直すにしても大幅に手を加えるほかなく、元の型を大きく損ねることになる。ドレスの流行もある程度の循環があって、あなたはお祖母さんと体型が似ているようだから、大切に取っておけばこの形のままでもやがて着るにふさわしい機会が来るかもしれない。
それに、
「好きな男の子に、『自分が着たいもの』なんて見せても仕方がないでしょう。
デートなら、相手の好みに合わせて適切な服を選ぶべきです」
そうして彼女は、店の人気商品のうちのひとつを選んで、買っていった。
怒って終わりにできるならよかった。アルネはあのときの「ごめんね、ありがとう」の言葉も表情も、忘れていない。彼女が大切に持ってきたドレスを、手つかずのままで家に持って帰る背中のことも、覚えている。その夜、久しぶりに母に言われた。あんた、その不機嫌になると黙り込むのをやめなさい。知るもんか。一言も話さずにその日を終えた。
けれど、祭りの日。
彼女がドレスに身を包んで、男の子と踊るところを、アルネは見た。
笑っていた。
何も悪いことではない、と思う。アドバイスは、母のものが正しかった。自らひとつの店を構えるに至った母の能力は高く、だからその友人は、自分のような見習いに「友達だから」なんて気安い理由で大事な仕事を頼むより、よっぽど良い結果を得ることができた。新しいドレスは、たとえ生地が安価なものでもよく流行に乗ったデザインで、それを感じさせない仕上がりになっていた。いつもと雰囲気が異なる友人の表情は、目の前の男の子を惹きつけるのに十分なものだった。ふたりは踊って、笑って、これからもきっと幸せに暮らすだろう。本当に、嫌みでも何でもなく、そう思えた。
取り残されたのは、自分だけ。
結果を見る。否定ができなくなる。「どうしてそんなにひどいことを言えるのか」の「ひどいこと」が、本当にそうなのかわからなくなる。不満があっても口に出せなくなる。そういうものだと思うようになる。そのくせ納得していないものだから、いつまでも怒りがくすぶり続けている。その怒りだって本当のものなのかわからない。だからいつまでも残っている。いつまで私、思春期なんだろう。呆れるような問いかけに、一向に答えが出てこない。
ねえ。
他人の期待に応え続けて、それで人生って終わりなの?
◇
「馬子にも衣裳」
と言うからには、母にとっても会心の出来に違いなかった。
鏡の前に立って、アルネは自分の姿を眺めてみる。
真っ白なドレスに身を包んで、知らない人が立っていると思った。あのころ短かった髪は、いかにも貴婦人らしく長く伸びている。爪の先から首周りから、身体の全てを隈なく磨き上げられて、それこそひとつの人形のように整っている。
ドレスはそれに引けを取らず、ドレスにもまた、引けを取っていない。
「とっても素敵」
と、義姉も言った。
結婚してからいざ式を挙げるまでにこれだけかかった夫妻は、恐らくここ数十年でも自分たちだけなのではないかと思う。平民と比べればいかにも盛大だけれど、中央貴族と比べれば慎ましい。とにかく交通の便が問題で、だからそれでもと駆け付けてくれた義姉たちには、アルネも頭が下がる。
ありがとう、とアルネは義姉に告げた。
義姉は、それを笑って受け取る。最後の確認をしてくれる。花嫁は式場にこのタイミングで入って、そこからここまでゆっくりと歩いて……。覚えているとおり。問題はない。義姉はもう一度笑って、それじゃあお先に、と優雅な足取りで式場へ去っていく。
控室、アルネは母と残されて、
「ま、普通にやんなさい」
声の調子が、昔のままだった。
母にはこういうところがある。義家族といるときは、いかにも「わたくしは生まれてこの方この高貴な喋り方でございます」というような顔をしておいて、ふたりきりになると急にいつもの調子に戻る。やめたらいいのに、とアルネは思っている。そういうのはいつか必ずボロが出る。昔から思っていたけれど、この人は少し詰めの甘いところがある。
「あんたは昔から、やればできるんだから」
母も去れば、後は案内人が呼びに来るだけだった。
伯爵――義父が扉の前で待っている。大変お綺麗です、とあの義姉の父らしく、気遣いに満ちた言葉も忘れない。よろしくお願いします。頭を下げれば、次は子どもたち。花びらの入った篭を手に持った子どもたちは、自分より先を行く。ヴェールの裾を恐る恐る持ってくれる子どもたちは、もちろん自分より後を行く。あまり深くは屈み込めない。それでも笑ってアルネは言う。今日はよろしくね。
はい、と返ってくれば、扉が開いた。
式場の奥に、『完璧な』辺境伯が立っている。
彼はまるで、あの日と同じだった。
初めて会ったときと。光を浴びて輝いていた、あの夢のようにも思えた初対面のときと。微笑んでいる。美しく、整っている。あの日と違うのは、こちらに歩み寄っては来ないこと。手を取って、口づけをしないこと。髪の一掬いに触れないこと。無礼で非礼でおかしなことを言い出さないこと。
自分がもう、彼のことを知っていること。
「だって、貴族ってそういうものでしょ?」
あの夜の彼の言葉を、アルネは覚えている。
寝室、ベッドの上。アルネは訊ねた。どうしてそこまでして。ハクレダは答えた。人から掛けられた期待を裏切れない。
だって、
「その家に生まれたというだけで偉いだの何だの、そもそもが馬鹿馬鹿しいんだよ」
王家にでも聞かれたら、どんな問題が起こるだろう。
けれど彼はその言葉を、まるで躊躇う様子もなく、心から口にした。
「それを馬鹿馬鹿しくなくすものがあるとしたら、それはシステムの安定性だと私は思う。行政や政治の失敗によって起こるリスクを高く見積もり、早い段階からその担い手を囲い込み、適切な教育を行う。そうしてシステム運営者の交代の際に発生する予測不能性や不安要素を、できるだけ取り除く」
私はそのために生まれて、そのために育てられた。
支払われた教育コストを、適切に返却しなければならない。
「期待されたことには、応えなきゃ」
アルネには、その笑顔に何かを返すだけの準備がなかった。
だから今、こうして義父の隣で、ウエディングアイルを歩いている。
むしろ、と彼女は思う。こうして素直にこの場にいること自体が、彼の言葉の追認なのだと。自分と彼の何が違うだろう。それはもちろん、育ちであるとか能力であるとか、そうしたものが異なっていることはわかっている。けれど、それ以外。
状況があり、対応がある。
結局、それだけのふたりだ。
アルネは、ハクレダの気持ちがわかる。必要なことが目の前にあって、指示をされて、こなす。こなしているうちに苦難に出会い、ついそれを克服してしまう。克服するから続いてしまう。そうして、段々とそのことを受け入れてしまう。
前列に、母が座っている。
いつの間にかアルネは、彼女のことを受け入れている。
ハクレダは、微笑んでいた。待っていた。あの日、頷いた自分のことを。花嫁のヴェールの下で、一時だけアルネは瞼を下ろす。導かれるがままに歩いて、息をする。
母の言葉が、アルネの耳に蘇る。
昔から、やればできるんだから。
いつからそんなことを思っていたのか、アルネは全く知らない。たまたま今日だけ、会心のドレスの出来栄えを見て、浮かれて口にした言葉なのかもしれない。昔からそう思っていたなら、昔からそう言ってくれればよかったのに。それだけで気が楽になったかもしれないのに。でも、そんなことを言ったって過去には戻れない。だから言っても仕方ない。そうだ、言っても仕方がない。最後に大きな空気の塊を呑み込むようにして、アルネは自分に言い聞かせる。
大丈夫。
何だってそのうちどうでもよくなって、受け入れられるようになるんだから。
瞼を開いて見えたのは、転びかけの子どもと、それに手を差し伸べるハクレダの姿だった。
◇
そのとき、ハクレダにはわかったことがある。
今までわかっていなかったことのひとつが、急にわかった。
こういうことは、誰にでも起こりうることだ。たとえば、人に説明をしているとき。これまで誰にも話さずにいたことを、何かふとしたきっかけがあって、打ち明けざるを得なくなったとき。頭の中で漠然と、複雑に考えていたものを相手に伝えるために、具体的で単純な言葉にするとき。
自分はそんな風に考えていたんだ、と理解することがある。
ついこの間の夜は、ハクレダにとってそういう夜だった。
アルネに説明をした。自分は教育コストをかけられている。システムの中で特権的な地位を得るからには、そのシステムに期待された効果を発揮する必要がある。だから、死んだくらいじゃ終われない。魔法でも何でも使えばいい。生き残って、『機能』を果たす必要がある。
身体が人形になったことは、それほど大事なことじゃない。
元から、そういうものだった。
あれからハクレダは、胸のつかえが取れたような気持ちになっていた。物事の整理が終わったような気がしていた。後はただ、必要なことをこなして死ぬだけ。そう思っていたから今日もまた、穏やかな気持ちでこの式場に立てていた。
それなのに、目の前で子どもが転びそうになっている。
それは腕に篭を提げて、花嫁のためにウエディングアイルに花を撒いてくれた、小さな子どもたちのひとりだった。アルネがやってくるのを見て、急いで脇に捌けようとした。そのときひとりの男の子が、靴の裏をその花びらに滑らせた。
身体が、自然と動いた。
頭に、ぐらりと揺れる感触があった。
いまだにハクレダは、この問題の解決法がわからない。決して揺らがないような、外れないような一体型の人形は耐久性が低く、関節も滑らかに動かない。一見して自然に動かせる今の身体は、しかし外からの力や激しい動きに弱く、魔法の枷が簡単に外れてしまう。
頭が落ちる、と思った。
火花が散るように、ハクレダは損得を計算できた。
屈み込みすぎれば、上下の落差で頭が外れる。けれど、もう少しだけ膝を折るくらいなら問題ない。咄嗟に動こうとしたけれど、間に合わなかった。そう見せて、事が終わってからゆっくりとこの子に手を差し伸べればいい。どういう反応が来るのか想像がつく。誰も責めることはない。正体などバレはしない。明日も明後日も、同じ日が続く。
そのことをこそ、貴族であるなら果たすべきだ。
なのに、まだ身体が動く。
自然と。勝手に。そういう言葉で自分の行動を説明したくなる。けれど本当のところ、それは嘘だ。魔法は理性で動く。魔法で生きる完璧な辺境伯ハクレダ・トルソールは、だから理性で出来ている。『自然に』も『勝手に』も、決してその身体には起こらない。
転びかけの子どもの名前を、知っている。
マックス。それは、ハクレダがつけた名前だ。
領地で古くから靴屋を営む家の、つい三年ほど前に生まれた子どもだ。名を付けてほしい、という頼みはそれほど珍しくない。領地の視察中に店を訪ねると、店主が求めてきた。ぜひ辺境伯に名付けを。一際小さな子どもで、だから無事に大きくなるようにと、願いを込めてこの名前をつけた。
あのころ腕の中で笑っていた赤ん坊が、今ではこんなに大きくなった。
けれど、ハクレダは思う。
転んだら、きっと痛くて泣いてしまうだろう。
ハクレダは、屋敷で働く使用人の顔と名前を、全て覚えている。
その家族構成も、名前も顔も性格も、全て覚えている。仕事でも何でも、会ったことのある人間の顔も名前も仕事も全て。その家族も、友人も、一度通ったことのある道も、通り過ぎたことのある家も、名前を付けてきたたくさんの子どもたちも、全て。
全て余すことなく、『一番幸せそうに見えた顔で』覚えている。
そういうものだと思っていた。貴族なら当たり前のことだと。人々の生活を握る者であるなら、模範たれと椅子の上に偉そうに居座る者であるなら、その程度のことは当然こなしてしかるべきものだと思っていた。
けれどいつまでもその膝が、背中が、屈み込むのをやめないから。
ハクレダはこのとき、ようやくわかった。
ああ、そうか。
私って、みんなのことが好きなのか。
頭が浮く心地がする。これ以上はダメだ、とわかる。
それでもいいや、とハクレダは手を伸ばす。
その頭に伸びていく、もうひとつの手があった。
◇
今までわかっていなかったことのひとつが、急にわかった。
こういうことは誰にでも起こりうることで、だからたとえば、ある結婚式における新郎新婦の両方に、たまたま同時に起こったりもする。
アルネには、訊いていないことがあった。
訊いてしかるべきことだ、と思わないでもない。思わないでもないが、訊かなければ訊かないで、何となく想像がついてしまう。こういうことだろうなと、自分で片付けられてしまう。そういう疑問が、あの何でも答えてくれそうな夜にすら口に出さずにいた疑問が、心の中にしまわれていた。
どうして結局、ちゃんと結婚する気になったんですか?
目に浮かぶ。ハクレダが笑ってこう答えるところ。辺境伯ともなるとなかなか結婚に対してかけられる圧も強くなるだろうし、対外的にも結婚しておいた方が収まりが良い。それなら多少のリスクを負ってでも、上手く処理できそうなタイミングで挑戦してみるべきだと思ったんだ。……そうして自分は『処理』という言葉にちょっとした居心地の悪さを感じた後、ああでもやっぱりこの人は同じようなことを考えているんだなあというようなことを思って、胸にしまい直す。
意外と上手くやっていけるのかも、と思う。
全然悪くないはずだ。こんなに綺麗で明るくて、たまにちょっとグサッと来るようなことも言うけれど、あんまりそれが気にならなくて。お金持ちで権力があってちょっとバレたらマズい秘密もあるけれど、大体のところは気が合って、とりあえず大喧嘩して離婚なんてことになるには距離がありそうで、しかも魔法まで使える相手。
どうせ人形だから好きにしていいんだよ、と言わんばかりの人。
目を瞑れる範囲で目を瞑れば、そう。全然、悪くない。
思い出す。こうして辺境伯家と結婚することになる前は、伯爵家で静かに暮らすことを夢見ていた。その前は、一人前の仕立て屋になることを目指していた。さらにその前は父がある日性格の良いお金持ちになって帰ってきて、仲良し家族のままのんびり役所勤めをする生活を思い描いていて、その前はパン屋さん、もっと前はお花屋さん、羊飼い、騎士、宝石屋さん、コックさん、
さらにその前のことは、もうすっかり忘れてしまって、それでも生きている。
新しい場所が少しでも肌に合うなら、いつか何となく、全てを受け入れられる日が来る。
なのに、その顔が必死なものだから。
初めて見た。余裕なんて、全然なさそうだった。あんな動きをしたら、首が外れてしまう。自分でわかっているだろうに、それでも飛び込むように子どもに手を伸ばす。真剣そのもので、本気以外の何も感じられない表情。それを見ただけで、アルネもまた、ハクレダと同じことがわかる。この人は、あーだこーだと理由を付けて自分を賢く見せているけれど、何のことはない。ただ、みんなのことが好きなんだ。自分がいなくなった後に何がどうなってしまうかが心配で、魔法まで使って『頼りになる辺境伯』を続けているだけなんだ。
そして、往々にしてこういうとき。
その人自身よりも、傍から見ている人間の方が、より多くのことに気付く。
自分の指が、少しずつ伸びていくのをアルネは捉える。折角綺麗なドレスを着ているのに、一生に一度あるかないかなのに、今は重たいだけだった。さっきまでしずしずと歩いていた貴族らしさが剥がれてしまいそうで怖かった。やっぱり所詮は平民上がりだと、偽者の貴族だと指を差されて笑われるような気もした。
それどころじゃなかった。
大きく、一歩を踏み出す。
二歩目はほとんど、たたらを踏むように。足が痛い。踵の高い靴ってだから苦手。そういえば昔、靴屋さんになりたいと思ったこともあった。ぺたんこの可愛い靴がたくさんあるといいなと思っていたから。どうでもいいや。でももう、勢いは止まらない。頑張って身体を後ろに留めようとするけれど、上手くはいかない。喜ばしいのは子どもたちが手に持ったままのヴェールを上手く脱げたことくらいで、ああ、もう。後は、何もかも思い通りにはいかない。
ままならないまま、考える。さっきの疑問。そんなに優秀で完璧ならいくらだって誤魔化せるはずなのに、どうしてよりにもよって自分なんかと結婚しようと思ったのか。その答え。
飛び込みながら、目が合った。
だからアルネは勝手に、目と目でその思いを伝えた。
あのさ。
要は、寂しかったんでしょ?
音がした。
嫌な感じの音ではなかった。どすっ、とか、ばふっ、とかそういう感じの音。ウエディングドレスは布が多いから、上手くクッションになってくれたのかもしれない。どっちが上でどっちが下なのかわからなかったときは一気に冷や汗が噴き出たけれど、すぐにアルネは気付く。無様な格好は晒していない。今の自分の体勢から、何が起こったのかを逆算する。
飛び込んで、少しだけハクレダとぶつかって、体勢を崩した。
ヒールの高さに転げて、なのに無理に体勢を保とうとして、だからくるりと回って、派手に尻餅をついた。
それでもどこも痛くない。視界の中、ついさっき転び掛けていた子どもが目に入る。目が合う。泣いていない。ぽかんとした表情で、多分まだ、何が起こったのかわかっていない。怪我をしている様子はない。ハクレダの手が間に合った。男の子の下敷きになるように、大層上品なタキシードに身を包んだ彼の身体が、床に倒れ伏している。
頭は、ない。
アルネの腕の中にある。
血の気が、三秒くらい遅れて引いた。
事情を知っているアルネでもそんな有様だったから、事情を知らない他の人たちは、もっと遅れて反応することになる。
だから今のところ、誰も声を上げたりしない。それはそうだ。ただ子どもが滑って転び掛けたところに、巻き込まれてふたりも転ぶなんて時点でぽかーんだ。一世一代の結婚式。そんな場所で、こんなに騒がしいことが起こるなんて予想していない。
まして、いきなり人の頭が取れるなんて、目の前にしても受け入れられない。
だから、ちょっとだけ猶予がある。
アルネは、腕の中のハクレダと、目を合わせた。
彼は、驚いた顔をしていた。公衆の面前で転げて頭が取れたことにじゃないと思う。自分のために飛び込んできた人間がいるということに、意表を突かれたという顔。それはそうだろう、とアルネは思う。自分でも、こんなことをするつもりじゃなかった。こんなことになるつもりじゃなかった。
大道芸、とか言って誤魔化せばよかった。
ふたりがかりなら、何とか押し切れたかもしれないのに。
けれどこれだけ注目を集めて、そんなことを言い出す度胸は……本当はある。もうこうなれば後は野となれ山となれだ。どうせこんな辺境の結婚式に集っているのは、みんな『ハクレダさま大好きファンクラブ』の皆さんに決まってる。ハクレダが白と言えば白になって、黒になれば黒になる。そういう人たちが相手なんだから、後のことは丸投げしてしまえばいい。完璧な辺境伯様が作ってくれる流れに、黙って乗っておけばいい。
「――わたくしは、」
それなのに、唇が開いた。
音が、まるで聖歌のように式場に響く。誰も声を出さない。咳もしない。身じろぎもしない。止まったような場所で、だからはっきりとアルネには見える。ついさっきまで自分の腕を取ってくれていた伯爵が、グレーの髭の下で口を閉じられずにいる。義姉の形の良い瞳が、大ぶりの宝石みたいに丸く開いている。子どもたちは突然の事態に頭が付いていけていなくて、これから誓いの言葉を促してくるはずの聖職者様なんか、もう化石みたいに固まっている。
母が、見たこともないものを見たような顔をしている。
ごめん、と一言アルネは、心の中で謝った。ごめんなさい、お母さん。お母さんが自分なりに考えて私に色々してくれてたんだなってわかるんだけど。嫌みでも何でもなくて、本当に今なら、納得はできなくても、理解はできてるんだけど。
でも、母親の思い通りになる娘って、この世にいないから。
たまには一歩、自分から踏み出してみた。
「わたくしは、魔法使いです」
言葉にすると、腕の中のその重さが、一層増したような気がした。
「使えるようになったのは、つい最近のことです。そしてきっと、これ以外の魔法を使うことは、私にはできません。これは、必要に駆られて目覚めたものですから」
そっとアルネは、それを抱き締めた。
温かくはない。むしろ、夏の終わりの日を思えばひんやりと冷たい肌触りがする。体温が下がる。鼓動が少しだけ落ち着く。
それでも、自分の耳に届く。
「ハクレダ様は、とても素晴らしいお方です」
だから多分、彼にも聞こえているだろう。
「結婚していただけると聞いたとき、わたくしは耳を疑いました。飛び上がって喜びました。けれど……きっと、今日ここにお越しの方々には、少なからずおわかりいただけるでしょう。ハクレダ様は分け隔てのない、無私のお方。誰もに愛される、輝けるお方。わたくしごときが、ハクレダ様に釣り合うのか。お心を惹くことができるのか」
生唾をごくりと呑みそうになって、堪える。
どうでもいいことを思い出しそうになる。子どもの頃、魔法使いになりたいと思ったことはあったっけ。魔女は? お姫様は? ないかもしれない。何せ、舞台俳優になりたいと思ったことだってないのだから。
「そのことがずっと不安で、わたくしは……」
でもまあ、いい。
人生、そんなものだ。
「ハクレダ様がどこにも行けないよう、ついバラバラにしてしまいました」
沈黙の質が、まるっきり変わった。
唖然から、絶句に変わる。さっきまでの「何が起こったのだろう」という伺いの気配が、「さーっ」という寒さに変わる。後ろの方で、がたりと席を立とうとした人もいた。アルネは笑いそうになる。我ながら何を言ってるんだろう。ひどいアドリブ。でも笑わない。
やればできるんだから、最後までやる。
「ハクレダ様がこの辺境伯領の皆さまを愛しておられるのは、心の底からわかっております」
言えば、ハクレダの瞼が僅かに開いた。
ようやく話しかけられて、びっくりしているのかもしれない。自分でも予想していなかった方に話が転がって、困惑しているのかもしれない。それでも、嫌がっている様子はない。やめろとは言わない。どこに行くかもわからないのに、すごい度胸だと思う。
「もちろんお邪魔をする気はございません。足を引っ張るつもりもございません。こんな魔法、二度と使わないことをお約束したいと心から願っております。ですが、たとえば……そう、たとえば。一生に一度の結婚式の最中に、わたくし以外の誰かに目移りされたりすると、どうしても抑えきれない気持ちが魔法になってしまうこともありますので」
その度胸に甘えて、アルネは最後まで、言った。
「絶対に浮気だけはなさらないでくださいね、旦那様」
笑って言葉を切ると、氷のような沈黙。肌に刺さるような注目の視線。
めげずに、語り掛ける相手を変えた。
「立会人様」
びくっ、と肩を跳ね上げたのは、もちろん壇上に立つ聖職者だ。
聖衣に身を包んだ彼は、この辺境伯領で長いこと結婚式の立ち合いを務めてきた。今回もまた、例外ではない。例外ではないけれど、流石にこんな事態に陥ったことは一度もないだろう。
悪いな、と思いつつアルネは言う。
「今のものを、誓いの言葉とさせていただいても?」
一瞬、助けを求めるように彼の目が泳いだ。
けれど、やはり長年修行を積んだ聖職者はものが違う。すぐに視点が定まった。他人に助けを求めることをやめて、自分の頭で考え始めた。大変申し訳ないことに、ご自分の判断で責任を取ることをお決めになられた。
あー、とか。
んん、とか。
悩ましげな声を上げた後、とても素晴らしい言葉を、彼は口にする。
「お相手の方が、それでよろしければ……」
ああ、確かに。
思わずアルネは納得する。長年その場所に立たれていらっしゃる方は、流石に経験と機転が違う。心の底からそのとおりだと思う。そのとおりにすることにする。
腕の中の彼と、目を合わせる。
じっと見つめ合って三秒。
少しずつ、ハクレダの口の端が上がっていく。
◇
『稀代の悪女、結婚式場に現る!』
「あははははは!!」
「…………」
そうして、彼が仰け反るくらいに笑うところを、アルネは不貞腐れた顔で見ている。
夜。寝室でのことだった。
あまりの大きな声に、廊下で人が様子を窺う気配がする。知るか、とアルネは思う。私は弁解なんかしてあげない。精々大事な大事な屋敷の皆さんから「とうとう旦那様はおかしくなってしまわれた」とひそひそ噂されるがいい。
ところでアルネも、噂をされている。
屋敷の中だけではなく、この領地全体で。
「笑っている場合じゃありませんよ」
不機嫌そのものの声で、アルネは言った。
「どうするんですか。こんなに大々的に取り上げられて」
「自分でやっておいて?」
そして、ぐうの音も出なくなる。
はー面白い。能天気なことを言って、ハクレダが今日の夕方に届いた新聞を音読し始める。我らが愛すべき領主、ハクレダ・トルソール卿が先日結婚式を挙げたことは諸君の記憶に新しいことだろう。しかし実はこの現場で我々は恐るべき事件をうんぬんかんぬん。何とこの花嫁が恐るべき魔女でありどうたらこうたら。一方的にその場でハクレダ辺境伯をバラバラにすると何たらかんたらどうたらこうたら口づけしかじかほにゃらららら。
「いやあ、」
よくもこんなものを自分で音読できるな、という気持ち。
そもそもこんなものを報道されている本人の家まで届けるな、という気持ち。
アルネが抱えるそのふたつのどちらとも無縁そうな顔をして、ハクレダは言った。
「一生の思い出に残る、素晴らしい結婚式だったな」
「――それはどうも、余計なことをして大変申し訳ございませんでした!」
あれから、一週間が経つ。
針の筵といえば、針の筵だった。
とんでもない大騒ぎになるかと思いきや、そうでもなかった。その場は何となく収まった。けれどまず、式が終わった後に家族の顔がすごく引き攣っている。屋敷に戻る。使用人の顔がとても引き攣っている。ついこの間まで色々と馴染んで暮らしやすい場所になってきたと思っていたのに、振り出しに戻るどころか、見たことがない域まで後退した。
やってしまった、と落ち込みもする。
「余計なことなんかじゃないさ」
一方で、落ち込まない人もいる。
「このあたりでは『魔法使い』はおおむね好意的に捉えられているからね。面白おかしく書かれてはいるけど、君なら普通にしているだけでどんどん好感度は上がっていく。今だけだよ。苦労をかけて申し訳ないけどね」
「……申し訳ない、ということはありませんが」
ベッドの上だ。
アルネは新聞の見出しに拗ねて、頭から毛布を被っていた。ハクレダに背を向けていた。あんな新聞の内容もハクレダの言うことも、一言だって聞いてやるもんかと思っていた。
けれど、そこまで言われて意固地になっているのもみっともない。
少しだけ顔を出して、彼の方に振り向くと、
「それに」
とハクレダは笑って、
「あれだけ熱烈に愛を囁かれて、迷惑なわけもないし」
「――ちょっと、こっちに入ってこないでください!」
どさくさに紛れてこっちのベッドに腰掛けてきた。
アルネは大慌てで、大騒ぎになる。毛布を引っ張って壁を築く。蹴り出そうとして、いくら何でも蹴りはマズいかと途中で止める。ハクレダがこちらの意図を汲んで、両手を肩のあたりまで挙げる。助かった。降参のポーズで、
「ダメ?」
「ダメに決まってるでしょう!」
決まってない。
「夫婦なのに?」
「それとこれとは話は別です!」
多分、別じゃないことの方が多い。
「この間までは全然気にしてなかったのに?」
「――頭が取れなくなったら、もう人形とは言いません!」
言うかもしれない。
けれど最近、少なくともアルネ自身は、そう感じている。
そうかあ、とハクレダが言う。向かいの方のベッドに腰掛ける。悪あがきみたいに、自分の頭に両手を添える。小さく呟く。よっ。
外れない。
あれからのことらしい。
とんでもない結婚式の、その日の夜。やりすぎた、とアルネは思っていたので、謝ることにした。すみません、突然頭を外してしまって。もちろんハクレダは笑いながら言った。いやいや全然いいよ。ありがとう、助かったよ。こちらこそ……。どうしてあんなことをしたのかとか、してもよかったのかとか、そういう今更な反省会をふたりで開いた。話が終わって、別に初めから仲違いをしたわけでもなかったけれど、何となく仲直りの握手をした。
「あれ?」
とハクレダが言った。
引っ張って、とも言った。嫌です、とアルネは言った。まあまあ、と意味のわからないことを言われた。意味はわからなかったけれど、結婚式の最中に新郎の頭を引っこ抜いた直後だったので、まあいいかと思って、言われたとおりにしてみた。
手首を引っ張ったら、ハクレダがついてきた。
すごい格好になって、悲鳴も上げた。
そういうわけで今、こうなっている。
「そんなに重要かな。人形か人形じゃないかって」
「…………」
当たり前です、とアルネは言おうとした。
けれどそれを自信満々に言い切ると、まるでハクレダの存在を否定するようになってしまわないかと思い、呑み込む。
それを見透かしたように、ハクレダは笑った。
「はい。大人しく言うことを聞かせていただきます」
最初からそうしてくれればいいのに。
心の中で思う。口には出さない。それじゃあ明日も早いしもう寝ようか。そうハクレダが言ったときだけ、はい、と小さく頷く。
ランプの灯りが消える。
ハクレダに背を向けて、毛布を被って、アルネは考える。
本当は「最初からそうしてくれればいいのに」なんて、思ってない。
いつもにこにこしていて、爽やかそうで、懐が広そうで、頼りがいがありそうで、実際そのとおりの人だとは思う。でも、嫌なところが全くないとも思わない。今でもちょっと根に持っている。初対面のこと。この世の全員が自分のことを好きだと思ってるんじゃないかというくらいに図々しいこともあれば、全くその逆だと感じることもある。
そういうところがあってもいい、と思う。
人間なんだから。
「…………」
かと言って。
毛布を固く握って、まるで山籠もりみたいに身体を丸めて、アルネは思う。世の中にはこういう言葉がある。『それとこれとは話が別』――ついさっき自分も使った言葉。最近ずっと、頭の中にある言葉。
そういうところがあるっていうところを見せてくれるのは嬉しいけど。そういう部分を見せてくれる相手に自分を選んでくれたっていうのも、嬉しいけど。それはそれとして、やっぱり準備というものがある。たとえ相手のことを多少好ましく思っていたって、そのうち慣れるだろうとわかっていたって、受け入れるのには時間がかかる。
だって。
何だかドキドキして、恥ずかしいし。
明日が来ることを楽しみにしているのか、それともその逆なのか。アルネは自分でもわからない。わからないから、悶々と考え込んでいる。ずっと同じことを考えていると、段々と眠気が勝ってくる。眠りに落ちる前に特有の、あのまとまりのない思考がやってくる。よくこんな状況で寝られるな。でも寝なかったら仕方ないし。明日もあるし。明日もこうなのかな。今度の外遊緊張するな。甘いもの食べたい。明日起きたらココアがいい。夫婦なんだしもうちょっとさあ。
もうちょっと。
もうちょっとだけ、待ってもらえると――
◇
隣の寝息を聞きながら、ハクレダはあの日のことを思い出している。
このところ、毎日の日課として。
「誰かに聞いてほしかったんじゃないの?」
古今東西ついぞ聞かないような結婚式を終えて、ふたりきり。
ドレスもタキシードもパジャマに変わって、いつもの寝室に戻って、ようやくハクレダは、アルネと深く話をすることができた。
彼女は、自分の話もしてくれた。
それは、まだ仕立て人になることを目指していた頃の話だ。友達が来た。家族から譲ってもらった、古いドレスを持ってきた。本当は自分はそのドレスを仕立て直してあげたかったけれど、横から母親が割り込んできて、結局その友人は違うドレスを着ることになって。
自分が間違っていたと思っているのに、それに納得できないままでいる。
似合う服より、着たい服を手に取ってもいいんじゃないか、と。
「あなたが、本当はどんな服を着たいって思ってるのか。そんなの、私の勘違いかもしれないけど……」
それから、聞いているこっちが恥ずかしくなるような話もしてくれた。
本当だったら、結婚なんかする必要はないんじゃないか。慕われている辺境伯なんだから、いくらでも誤魔化しようはあったんじゃないか。それでも、秘密が露見するリスクを取ってまで見ず知らずの自分なんかと結婚しようとしたのは。身体に触れられたらあんなに簡単にバラバラになってしまうのに、わざわざ握手をしにきたのは、
「『理想の自分』じゃない『本当の自分』のことを誰かに知ってほしいって、そう思ってたんじゃないの?」
「…………」
手で額を覆う。暗くて良かった、と思う。もしかしたら、顔が赤くなっているかもしれないから。
本当にそうなんだろうか、と考える。
アルネが寝静まった隣のベッドで、天井を眺めながら。
寝室での考えごとは、ハクレダの大得意だ。何せあの冬の日から数年、まるで眠れずにいた。こうして仰向けになって考え事をするか、それともそっとランタン片手に抜け出して、意味もなく裏庭の墓の前に立ってみるか。そんな風に夜を過ごすことばかりだったから。
しかしそんなハクレダを以てしても、自分の『無意識』と向き合うのは難しい。
言われてみれば、確かにそうだとも思えてくる。
戒むべきことだ、と彼は思う。辺境伯として、自分の心の弱さを理由にして何らかのリスクを取るというのは看過しがたい失点だ。その上、自分でもその理由に気付いていなかったというのだから笑えない。何が完璧な人形だ。ついこの間までのすまし顔の自分を思い出して、指を差して笑ってやりたくなる。ほら、今だって笑いたいのだか笑いたくないのだかわからない。
でも、少なくとも――
「ん……」
さら、と隣で毛布の擦れる音がする。
寝返りを打てば、彼女がこちらを向いていた。瞼は閉じたまま。一体どれだけ深い眠りに就いているのだろう、ついさっきまで頑なに毛布を握り締めていたはずの手のひらは、すっかり五つの指を天井に向けて開いている。
手のひら。
ハクレダは、自分の右のそれを顔の前に広げてみた。
どういう仕組みなのか、自分でもわからない。ついこの間まであったぐらつきが、綺麗に消えた。外れる気がしない。以前よりずっと『肉体』に近付いた気がする。
頭の中に、遠い昔に聞いたおとぎ話が思い浮かぶ。
お姫様のキスで、王子様にかかった呪いはすっかり解けました。
めでたし、めでたし。
もちろん、そんなわけはないとわかっている。この身体を呪いと呼ぶなら、その呪いをかけたのは自分だから。呪いが解けてしまえば、きっとあの小さな石の下に眠るだけだから。だから、もっと説得的な説明はこう。自分は無意識のうちに、彼女が指摘するような心理的負荷を感じていた。それが魔法の効果に悪影響を及ぼしていた。けれど結婚式のあの日、彼女がその負担の『半分』を受け持ってくれたおかげで、本来の能力で魔法を使えるようになり――
ふ、と笑う。
こういうことを考えるから、いちいちややこしくなる。
もっと単純な物語が自分には相応しいはずだ。こればかりは、彼女の教えに従おう。ハクレダは、隣のベッドの彼女を見つめる。一度眠りに落ちればなかなか目を覚まさない彼女に、それでも決して起こさないように、ひどく微かな囁き声で、
「アルネ。私はね――」
似合う服じゃなく、着たい服を着る。
自分に似合う物語は、きっと――
不器用な王子様を見るに見かねた優しい魔法使いが、お姫様のドレスを着て助けに来てくれた話だ。
「…………?」
ハクレダは、それから喉を押さえた。
発声器官がおかしくなったのかと思った。確かめた。問題はない。なのに、声が出なかった。私はね、の続き。あなたに結婚してもらえて、と続くはずだった言葉が、出てこなかった。理由を探す。自分で笑ってしまう。
ああ。
何だかドキドキして、恥ずかしかったからか。
向かいでアルネは、そんな人の気も知らずにすやすやと眠っていた。前途多難だ、とハクレダは思う。盛り上がっているのは自分ばかりで、向こうはバリケードなんて築き始めている。そのくせ、どういうつもりなのかわからないけれど、こうやって気安く寝返りなんかを打ったりする。こちらに向けて、無防備な顔を晒していたりする。
その顔を見るのが、ハクレダは好きだ。
慣れないベッドや夏の暑さに苦しんで、顔を顰めていたりする。昼にたくさん仕事をして疲れたのか、頬の筋肉をとことん緩めて、少し口が開いていることもある。突然にへっと笑うのが面白くて、どんな夢を見ていたのかと訊いてみたくなる。
寝顔なんて見られて平気なの、と訊いてみたくなる。
平気なら、すごく嬉しいと思う。
ひとつひとつの表情が天使のようで、ハクレダはつい、それこそ彼女をバラバラにしてしまいたくなる。自分と同じように人形に変えて、大切に部屋の中にしまってみたくなる。けれどもちろん、そんなことはしない。やっぱり人形にするんじゃなかったと、後悔するのがわかっている。自分も同じだから。
似合う服ではなくて、着たい服を着る彼女が見てみたい。
明日になったら、とハクレダは思った。
この魔法使いのお姫様に、何を訊いてみよう。着たい服。そうだ、服。今でも仕立て人の道に興味があるのかは、ぜひ訊いてみなくちゃならない。ある、と答えたらお店の手配にキャリアの整備に、やりたいことも、見てみたい光景もいくつもある。ない、と言われたらどうしよう。どうしようもこうしようもない。じゃあ今は何がしたいかを訊いてみよう。そのときさりげなく、「私は君とデートがしたい」と伝えてみよう。照れるだろうな。照れた顔をもっと見てみたい。それで頷いてもらえたら、もう何も言うことはない。ないわけない。提案しよう。悪女の評を掻き消すためには私たちが仲睦まじいことを人前でアピールしていくべきだよ。手始めに一日に百回は人前でキス。怒られるな。人がいるときは手を繋ごう。繋ぎ方次第ではギリギリいけるかも――
とりとめのないことを考えて、眠気が勝ってくる。
数年ぶりの、眠気が。
夜は、ハクレダにとって長らく不要な時間だった。眠ることはできない。けれど、起きて仕事をすることもできない。ただ静かに時が過ぎるのを待つだけの、無駄な時間。一刻も早く過ぎ去ってほしい、なければないで構わない、そんな時間。
でも、今は思う。
彼女の寝顔を見つめながら。自分の気持ちと、彼女の気持ちのことを考えながら。やりたいことを数えて、計画して、明日が来るのを待ちながら。
あなたと結婚できて幸せです。その言葉をどうやって伝えようか考えながら、愛する人の隣で静かに微笑んで、心地よいまどろみに身を任せて、
ああ、もう少しだけ――
(了)