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マルガリータを3杯飲んだら、真実しか話せなくなるバー

作者: Nuit et Verre

本作は、「語られること」と「語られないこと」のあいだに揺れる物語です。

一杯のカクテルには、感情や記憶が宿ると信じています。

それがたとえフィクションでも、人が口にする飲み物には、その人の「ほんとう」が映ることがある――私はそう思っています。

この物語の舞台は、マルガリータを三杯飲むと「真実しか話せなくなるバー」。

匿名相談アカウントとしてSNSで真実を暴いてきた主人公が、今度は自らの“語らなかった過去”と向き合わされていきます。

語りのテンポはあえて静かに、登場人物たちの「間」や「呼吸」に寄り添うように綴りました。

感情は大声ではなく、沈黙の中に宿っていると信じているからです。

あなたにとって、何杯目のマルガリータが一番しみるのか。

もしよければ、静かにグラスを傾けるような気持ちで、この物語を読み進めていただけたら嬉しいです。

挿絵(By みてみん)

夜の始まりは、いつもグラスの音で訪れる。

カウンターの上に、うすく曇ったマルガリータグラスをそっと置いた。氷を使わないぶん、冷やし込んだガラスはすぐに曇る。ライムを絞る音が、深海で泡が弾けるように小さく響く。

塩を縁にまぶし、スノースタイルを整える。決して均等ではないその線が、まるで曖昧な境界線みたいで――私は昔から、この儀式が好きだった。

手元に集中するこの数十秒だけは、誰の嘘も、秘密も、入ってこない。

カクテルシェイカーのなかで、テキーラとコアントローがまじりあい、ライムジュースと絡んでいく。最後に静かに注ぎ込めば、夜のはじまりは完成する。

ドアの鍵はもう開けてある。でも客はまだ来ない。

この時間がいちばん好きだ。

カウンターの向こう、木の壁に仕込んだ間接照明がゆるく灯っている。BGMはない。必要ない。足音やグラスの音、誰かのため息。それだけで、十分すぎる音楽になる。

スマートフォンが振動した。見なくてもいい。あのアイコン――ガラスの月――がまた通知を鳴らしているのだろう。

“GlassMoonさん、どうしても相談したいことがあります”そんな文面は、もう何百件も見た。嘘と真実がまじりあった告白。それを読み解くのが、私のもうひとつの仕事。

でも今は、それも閉じる。

バーは“La Verdad”。スペイン語で「真実」。

ここでは3杯目のマルガリータを飲んだ者は、必ず、隠していたことを口にする。

私は、その瞬間を、ただ静かに待っている。

最初の客は、午後八時を少し回った頃にやってきた。

革靴の音がやけに軽かった。スーツ姿の男。髪は整えているが、目の下のくまはごまかしきれない。

常連ではない。けれど、迷った風でもなかった。たどり着くべくして、この店の扉を開けた。

「……マルガリータを」

それだけ言って、男はカウンターの一番端に腰を下ろした。

質問はしない。会話も望まない。必要なのは、一杯のカクテルだけ。

そういう客は多い。そういう客に限って、二杯目も、三杯目も飲む。

私は黙ってグラスを用意する。

しばらくして、塩の縁に唇を寄せた男が、ひとくち含んだ。

酸味が走る。けれどそれは、彼の顔色には出ない。

飲み慣れているか、あるいは――この苦味を待っていたのかもしれない。

「妻にね」

ぽつりと男が言った。

「“浮気はしてないけど、気持ちは動いた”って、言ったことがあるんです」

私は返事をしない。

「それって、嘘なのか、真実なのか。今でもよく分からないままで」

男はもうひとくち、ゆっくりと飲んだ。

「ただ――言葉にした瞬間、何かが壊れた気がしたんです」

カウンターに、重たい静けさが沈んでいく。

彼の告白は、まだ一杯目の真実。つまり、自分が自分に許している範囲の話だ。

本当に言いたくないことは、まだ隠れている。

でも、私には分かる。

彼は、三杯目まで飲むつもりだ。

客がグラスを空けて去ったあと、バーは再び沈黙に包まれた。

照明は落とさない。深夜までのあいだ、この静けさを保つのが習わしだ。

私は、スマートフォンを手に取る。

通知は12件。すべて、同じアイコンに連なっていた。

GlassMoon。

SNS上で活動する匿名相談アカウント。

名前も顔も出さないまま、人の悩みに鋭い言葉を返す“相談屋”。

最初は好奇心だった。けれど、いまでは、別の意味がある。

開いたDMのひとつを、指先でスクロールする。

彼氏に嘘をつきました。

本当は浮気してたのは私です。

でも、責められたのは彼。

私は黙ってたほうがよかったんでしょうか?

それに対する私の返信は、簡潔だった。

黙る選択をした時点で、あなたは罪を選んだのです。

正しさではなく、“逃げ”を選んだという事実からは、逃げられません。

たったそれだけ。だが、相談者からは「ありがとう」と返ってくる。

人は、裁かれたがっている。

私自身も、そうだったから。

通知を閉じる。誰にも読まれないはずの真実が、今日も世界に渦巻いている。

けれどこの店では、それを“言わせる”ことができる。

バー“La Verdad”。

カクテルに真実を溶かし、誰にも届かない告白を受け止める場所。

そして私は、“GlassMoon”。

名前を持たない誰かたちの、罪を暴く月。

扉がもう一度、控えめな音を立てて開いた。

再び現れたのは、先ほどの男――革靴の音が軽かった、あの客だった。

「……もう一杯、お願いします」

その声には、少しの迷いと、少しの諦めが混じっていた。

“戻ってくる”ことを自分で予想していたのかもしれない。

私は黙って、再びグラスを用意する。

塩をふちにまぶす手つきも、もう一度、丁寧に。

「不思議ですね。さっきの一杯目……ちゃんと味はしたのに、何を話してたのか、いまいち覚えてないんです」

男は苦笑しながら、グラスを見つめている。

私は答えない。答える必要はない。

彼が二杯目を口にする。

ライムの酸味がまた、舌の奥で広がった。

そのとき、男の表情がわずかに揺らぐ。

「……大学時代に、好きだった人がいたんです。同期の子で、すごく明るくて、誰からも好かれてた」ひと呼吸置いて、彼は続けた。

「でも、彼女には恋人がいて。僕は、それを知ってて……何も言えなかった」

 静かに、グラスがカウンターに置かれる。

「言えなかっただけなのに。いまでも夢に出るんです。何十年経っても、あのとき、もしって……」

それは、“隠してきたけど自分でも分かっていた”真実。

だからこそ、二杯目に現れる。

私は、彼のグラスを見つめる。

氷も入っていないその透明な液体に、男の目が静かに沈んでいた。

「あと一杯で、何が出るんでしょうね」

男はそう言って、ゆっくり立ち上がった。

「明日、また来てもいいですか」

私はうなずいた。

そして、グラスを洗いながら、心の奥で思う。

三杯目を選ぶ者は、自分で分かっている。

“言わなければ終われない”ことがある、と。

バーの扉が、ひときわ重たい音を立てて開いた。

私はその瞬間、心臓がひとつ脈を打つのを感じた。

それが、なぜなのかは分からなかった。いや、たぶん――分かっていた。

男は、背が高く、無駄な動きが少ない。

目元に影が差している。けれど、それが疲れからくるものか、それとも何かを抱えているせいなのか、判断できない。

どこか、懐かしい気配がした。

「空いてますか」

その声を聞いて、確信した。

目の前の男は――羽山 陸。

五年前、私が裏切った人。

「ええ、どうぞ」

自分の声が、わずかに揺れていたかもしれない。

彼はカウンターの中央に腰を下ろした。私との距離が、たった一枚の木板を隔てている。

「マルガリータを」

私はうなずき、無言でグラスを取り出す。

ライムを切る手元が、いつもより遅い。塩が、指先にひやりと馴染む。

陸は、私を見ていない。視線は、カウンターの向こうの棚にある、古びた時計に注がれていた。

彼は、私の正体を知っているのだろうか。

“GlassMoon”であることも、この店のルールも。

それとも、まだ気づいていないのか。

私が、彼の人生を壊した張本人だということに。

私は静かにグラスを差し出した。

彼はそれを受け取り、まるでなにも知らない顔で――一口、口をつけた。

あの夜も、雨が降っていた。

大学の構内にあるカフェテリアの軒下、傘を持たずに立ち尽くしていた私に、彼はそっと傘を差し出してくれた。

羽山 陸。

法学部の中でも優等生として名の知られていた人。

「ずっとここにいたの?」

「……雨がやむまで、と思って」

「それ、30分前にも同じこと言ってたよね」

そう言って笑った彼の顔が、今でも記憶に残っている。

柔らかくて、まっすぐで、少しだけ不器用だった。

彼は、いつも人に正しくあろうとしていた。

誰かが困っていれば手を貸し、誰かが嘘をつけば目を逸らさなかった。

――だからこそ、私は彼に言えなかった。

その頃、私は別のサークルである問題に巻き込まれていた。

誰が嘘をついて、誰が犠牲になっていたのか。

分かっていた。けれど、口にすれば、自分が壊れると思った。

陸は、私の話を信じてくれた。

いや、信じようとしてくれた。

でも、私はその手を振り払った。

あの夜、私は「もう全部解決した」と嘘をついた。

彼の目を見て、息を殺して、嘘をついた。

その瞬間、彼のまっすぐだった表情が、ごくわずかに歪んだ。

あれが、終わりのはじまりだった。

それから数年、彼とは会っていない。

だから今、カウンター越しに向き合う彼の目が、

あの夜と同じ温度を持っていることが――怖かった。

グラスの塩に、彼の指先がそっと触れた。

それは確かめるような動作だった。

味を見るためでも、飾りを落とすためでもない。

“ここに、何かがあるのか”と問いかけているようだった。

「マルガリータって、こんなに静かな飲み物だったっけ」

そう言って、彼はグラスを傾けた。

わずかに顔をしかめる。

ライムの鋭さか、テキーラの熱か――それとも、記憶の苦さか。

「昔、よく飲みに行ったバーがあってね。社会人一年目の頃。同期が失恋したって泣きながら飲んでて。俺、そのとき、何もできなかったんだ」

彼の言葉は、あまりにもさりげなかった。

一杯目のマルガリータは、たいていこういう話を引き出す。

他人の話を借りて、自分の影をちらつかせる。

大したことではないと見せかけて、実は誰にも言っていなかったような、柔らかい秘密。

私は頷かず、否定もせず、ただグラスを拭いていた。

「……そのあと、その子、会社辞めちゃったんだよね。俺は何も言わなかった。何もできなかった」

沈黙が落ちる。氷のないグラスの中で、液体がわずかに揺れていた。

「君さ――GlassMoonって知ってる?」

私の指先が、止まった。

彼は、まだグラスを見つめたまま、続ける。

「この店の雰囲気、なんとなく似てる気がして。あの人の文章と」

私は息を吐く。言葉にならない呼吸を、グラスの向こうに逃がす。

彼がどこまで知っているのかは、まだ分からない。

けれど彼は、もう一歩踏み込むつもりでいる。

それは、グラスの塩をなぞった彼の指が、私の過去に触れたような感覚だった。

彼は、グラスの底を見つめながら言った。

「人の嘘って、どこから嘘なんだろうね」

その問いは、カウンターに向けられたものではなかった。

自分の内側に向けて投げた独白――そう装いながら、確実にこちらの反応を試していた。

私は答えなかった。

かわりに、次の客用にグラスを磨き続ける。布越しに伝わるガラスの冷たさが、指先を静かに現実へ引き戻す。

「たとえば、自分のために誰かを傷つけたとして、それを“正しかった”と思っていれば、嘘じゃないってことになるのかな」

それでも彼は視線を上げない。

それでも私は、言葉を返さない。

沈黙が、濃くなる。

マルガリータのグラスに残った塩が、わずかに崩れてカウンターに落ちた。

「……GlassMoonって、嘘を見抜く人なんでしょ?」

その名前が口にされた瞬間、空気がぴたりと止まった。

「俺、最近あの人の言葉に何度も助けられたんだ。冷たいのに、不思議と、刺さらない。……いや、刺さるんだけど、抜けない」

彼は笑っていた。けれど、それは本当の笑いではなかった。

「知ってる? “正しさと正しさがぶつかると、どちらかが悪になる”って、あの人が言ってたんだ」

もちろん知っている。

それは、私が書いた言葉だ。

彼の声は、わずかに低くなる。

「……君が、あの人じゃないかって、ふと思っただけなんだ」

それは探りではなく、ほとんど確信に近い。

目の奥に、答えを求める色がある。

私は、何も言わなかった。

でも彼は、それで十分だったのかもしれない。

「二杯目、もらえるかな」

静かに、そう言った。

グラスの中の塩が、ほとんど消えていた。

私は新しいグラスを用意する。

ライムを絞るとき、指にかすかな痛みを感じた。ささくれが潰れたらしい。

少しの血が、ライムの酸でしみる。

それでも、手を止めることはない。

この痛みすら、今夜にはふさわしい気がした。

陸は黙って二杯目を受け取った。

塩に口をつけず、まるでそれを避けるように、グラスの反対側からひとくち飲む。

私は、その仕草を見ていた。

「……高校生の頃、ある試合で負けたことがあるんだ」

ぽつりと、彼が言った。

「最後の判断を誤ったのは、自分だった。でも、誰も俺を責めなかった。監督も、チームメイトも。“責任を感じるな”って、言ってくれた」

彼はマルガリータの底をじっと見つめる。

「だけど、その夜……俺は誰にも言えなかった。試合の前日、喧嘩してたんだ。父親と。くだらない理由で……そのまま出てきた」

グラスがわずかに揺れた。手が、かすかに震えていた。

「試合に負けたのが怖かったんじゃない。あのまま帰らなかったことを、今でも悔やんでる。……たぶん、ずっと、俺はそれを誰にも言いたくなかったんだと思う」

それは、“隠してきたけど自分で分かっていた真実”。

私は息を潜める。

二杯目には、時間を巻き戻すことのできない後悔が宿る。

「しずく」

その名前を呼ばれた瞬間、指先が止まった。

彼は、ようやく私を見た。まっすぐに。遠慮も探りもない目だった。

「どうして、あのとき、黙っていたんだ?」

私は、答えられなかった。

塩が指に触れた。しみる痛みが、今になって熱を帯びていた。

あのとき――黙っていたのは、私の選択だった。

でも、彼にそう言える日は、ずっと来ない気がしていた。

何を言っても、言い訳になる。何も言わなくても、嘘になる。

「どうして、黙ってたのか、って」

私はグラスの底を見つめながら言う。

「……それを聞いて、どうするの?」

陸は答えなかった。

けれど、沈黙そのものが答えだった。

“知りたいから来た”。

“知ってしまえば、何かが変わる”。

そのために、彼は二杯目まで飲んだのだ。

「私ね、あの頃、自分が何者でもないって思ってたの」

声が、自分のものじゃないみたいに、静かに続いていく。

「誰かの期待も、好意も、怖かった。信じられないというより……信じたら、自分が消える気がして」

陸は、じっと聞いていた。まばたきすらせずに。

「あなたが、私を信じようとしたこと、知ってた。でも、それに甘えてしまったら、きっと全部壊れるって思った」

「……それでも、裏切ったんだね」

その声は、静かだった。

怒りも悲しみもなく、ただ事実をなぞるように。

私は、頷くことすらできなかった。

「それでも、君を責めたかったわけじゃない。ただ……あのとき、本当に聞きたかったんだ。君がどう思ってたのか」

“君が、どうして黙ったのかじゃない。どう思っていたのか”。

その問いだけが、彼をこの店へと導いたのだろう。

私は、目を伏せた。

目を合わせたら、嘘が崩れる気がした。

「三杯目を飲めば……君も分かるのかな。ねえ、そうなんだろう?」

彼の声は、少しだけ笑っていた。

もう、答え合わせのときが近づいている。

その夜の空気は、どこか透明すぎた。

深夜一時。音楽のないバーの中で、私たちだけが時を進めていた。

彼は三杯目を求めなかった。

ただ、グラスの底を見つめながら、しばらくのあいだ黙っていた。

私は何も言わず、ゆっくりと手を伸ばす。

マルガリータグラスを冷やすためのボウルに、白い蒸気が静かに広がる。

塩をつける。ライムを絞る。

透明な液体のなかに、いくつかの“喉が渇いた記憶”が浮かんでくる。

私がグラスを差し出すと、彼はそれを受け取った。

そして、一言だけつぶやいた。

「この一杯は、君のために飲む」

私は息をのんだ。

彼は、口をつけた。

少し長くグラスを傾けて、塩の縁を指でなぞった。

その瞬間、言葉がこぼれ始めた。

「……俺ね、ずっと“信じること”にこだわってた。自分にも、他人にも。だから、君があのとき黙った理由も、自分なりに正当化しようとしてた」

彼の声は、静かだった。

けれど、その静けさは“守るためのもの”ではなく、“崩れていくためのもの”だった。

「でも、君が何を思っていたか、本当はずっと怖くて聞けなかった。もし“自分を守るために嘘をついた”って答えが返ってきたら、俺は……もう誰も信じられなくなる気がして」

その目には、誰にも見せてこなかった感情が宿っていた。

「でも、それでも、君がいなくなってからのほうが、よっぽど俺は、空っぽだったんだ。人を疑って、期待しなくなって、何も信じられない方が、ずっと楽だった」

彼はグラスを置いた。

そこにはもう、一滴も残っていなかった。

「だから……君がGlassMoonでもいい。君が、俺を壊したままでもいい。せめて、最後に――君の本音が、聞きたかった」

沈黙が落ちた。

それは、ただの静けさではなかった。

それは、彼が三杯目の真実を語り終えたあとに訪れる、“どうしようもない誠実”の音だった。

グラスの中に、もう何も残っていなかった。

彼は三杯目を飲み干した。

そして、何も言わずに、そのグラスをそっと返した。

私はそれを受け取りながら、自分の手がかすかに震えているのを感じた。

この場所で、誰かに“本当の声”を聴かされるたび、私は少しずつ削られていく。

けれど今夜は違った。

彼の言葉は、私の輪郭を壊した。

「……しずく」

彼の声は、もう責める色を帯びていなかった。

それが、いちばん苦しかった。

私は棚から、もうひとつのマルガリータグラスを取り出す。

冷やしていない。塩も、まだついていない。

けれど、迷いはなかった。

ライムを切る。刃がすべって、指の腹にわずかな痛みが走る。

絞り込むと、酸が小さな傷口にしみた。

グラスの縁に塩をのせる。手元が揺れたのか、少し偏ってついた。

でも、それでもいいと思った。

私は、カウンターに立ったまま、自分のためにマルガリータを注いだ。

「君は、それを……」

彼の言葉に、私は小さくうなずいた。

「……三杯目の前に、私も、飲んでおくべきだと思った」

私の声は、驚くほど冷静だった。

グラスを持ち上げ、塩のついた部分を避けて、口をつけた。

酸味が、真っ直ぐに喉を貫く。

塩のにがさが、舌の奥でこぼれた。

そして私の中に、ひとつの記憶が浮かび上がった。

“裏切った”というより、“信じきれなかった”という事実。

それを誰よりも私自身が、許していなかったこと。

――私は今夜、逃げられない。

最初の一杯で、何を思い出すか――それは、本人にも分からない。

私は静かにグラスを置いた。

指先が、少しだけ濡れていた。ライムの果汁か、あるいは。

彼は黙って私を見ていた。何も言わない。その沈黙が、痛みより重かった。

「……あの夜のこと、覚えてる?」

問いかけながら、私の胸の奥で何かがきしんだ。

「あなたが真実を訊こうとして、私が黙った夜」

彼はわずかに頷いた。そのしぐさの正確さが、すべてを思い出させた。

「あのとき、私は“話せば壊れる”と思ってた。けど本当は、“信じてもらえなかったら怖い”って、ただ、それだけだった」

ひと呼吸置く。グラスに残ったマルガリータが、揺れている。

「私、君がまっすぐすぎて、こわかったの。

私の中にある、言い訳とか弱さとか、全部見透かされる気がして。

君の正しさは、時々、私の存在を否定するように感じた」

それは、彼には届かない言葉かもしれない。

でも、今の私は、伝えるためではなく、“残すため”に話していた。

「だからあのとき、“大丈夫”って言った。全部終わったからって。あれが嘘だったこと、君は気づいてたよね」

彼は答えなかった。

「……ずっと、後悔してた。本当は、助けてほしかった。

でも“助けて”って言ったら、君が壊れそうで――それが一番、怖かったんだよ」

カウンターの向こう、彼の目が静かに揺れていた。

私は言葉を続けることができなかった。

でも、もう一杯、必要だということだけは分かっていた。

この気持ちは、“一杯目の後悔”では語り切れない。

二杯目のグラスを差し出す手に、ほんの一瞬だけ迷いがあった。

でも、私はそれを抑えた。

この一杯を飲まなければ、私はこの場所に立ち続けることができない――そんな確信があった。

塩のラインがやや歪んでいた。けれど、それが今の私にふさわしいと思った。

私はマルガリータをひとくち含む。

酸味が、前よりも強く感じられた。身体が、過去に向けて開かれていくのが分かる。

「GlassMoonを始めたのは、正義感なんかじゃなかった」

私はぽつりと口を開いた。

目の前の彼は、もう何も言わず、ただ聴いていた。

「最初はただ、誰かの嘘を見抜くことで、自分を保ちたかったの。

他人の“矛盾”や“弱さ”を暴いて、それで自分の傷がまぎれる気がしてた」

言葉にしてはじめて、自分の底にある動機が見えてきた。

「でもね、それだけじゃなくて――きっと、私自身が“言えなかった人間”だから。

“本当のことを言わせる”ことに、執着してたんだと思う。

私が言えなかった分、誰かに言わせたかった。代わりに、誰かを苦しませたかった」

喉が熱くなった。

テキーラのせいか、記憶のせいか、それとも。

「正しい言葉を返すたびに、気持ちよかった。

でも、それは誰かの痛みを見下ろす安心だった」

私は、グラスをカウンターに戻した。

中身はまだ少し残っていた。けれど、それ以上は飲めなかった。

「私は、人を救いたくなんてなかった。ただ、誰かの“嘘”を見つけることで、自分の嘘をごまかしてただけ」

視線を上げると、彼がまっすぐこちらを見ていた。

怒っていなかった。責めてもいなかった。

ただ、そこに“理解”があった。

それが、いちばん苦しかった。

三杯目のマルガリータを、自分のために作るのは、これが初めてだった。

私は氷の入っていないグラスを取り出し、無言でライムを絞った。

塩を縁に乗せる指が少し震えていたが、今はその震えも、否定しなかった。

――三杯目を飲むということは、自分でも知らなかった真実に触れるということ。

何を口にしてしまうのか、私にも分からない。

でも、もう、逃げる理由もなかった。

私はグラスを傾けた。

ライムの酸味が、さっきまでの二杯よりも深く、重たく、胸に沈んでいく。

しばらくして、言葉が、自然とこぼれ出た。

「……私はね、陸。あなたを裏切ったことよりも、“あなたを信じてしまった自分”を許せなかったの」

自分でも、今の言葉に、少しだけ驚いた。

「私、本当はあなたに頼りたかった。助けてほしかった。でも、そうしたら私は、もう“強がり”でいられなくなる気がして……」

彼は静かに頷いた。その目は、痛みではなく、共鳴の色をしていた。

「あなたの正しさに甘えたくなかった。

でも、甘えたかった。矛盾してた。どうすればよかったか、分からなかった。

だから、あなたを信じた私ごと――壊してしまったの」

言いながら、喉が詰まるのを感じた。

それが、ずっと見えなかった私自身の核心だった。

「ずっと自分を責めてた。でも、誰かに裁かれたかった。だから、他人の嘘を暴き続けてた。

本当は、自分が一番、暴かれたかったのに」

彼は、何も言わなかった。

でも、目だけが答えていた。

私が三杯目を飲んで語った真実は、

許しでも、贖罪でもない。ただ、私という人間の輪郭そのものだった。

朝が近づいていた。

空はまだ黒のままなのに、どこか空気が薄まっていた。

それは時間の気配か、心のなかの靄が少しだけ晴れたせいか――もう、分からなかった。

カウンターには空のグラスが二つ。

どちらも、塩が少しだけ溶け残っている。

「……ありがとう」

その言葉を、彼が先に言った。

私は驚かなかった。ただ、静かに微笑んだだけだった。

彼はグラスを置き、立ち上がった。

バー“La Verdad”の扉に手をかける。けれどすぐには開けなかった。

「また来てもいい?」

その問いに、私はすぐ答えなかった。

沈黙が、あたたかい余韻のように漂った。

「……その時は、四杯目を出すわ」

「効力は?」

「さあ、どうなるかしら。四杯目には、“優しさ”でも溶けてるかもね」

彼は笑った。ほんの少しだけ、昔の彼に戻ったような笑顔だった。

そして扉を開け、外の空気の中へと消えていった。

私は鍵をかけた。

この店の夜は、真実が語られたときにだけ、静かに終わる。

片付けの手を止めて、私はひとつの空のグラスを持ち上げた。

縁に残った塩を、そっと指でなぞる。

少しだけ、しょっぱい味がした。

それは、罪の味か、赦しの味か。

あるいは、“もう嘘をつかなくてもいい”という、朝の味だったのかもしれない。

ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。

“マルガリータを三杯飲むと、真実しか話せなくなる”。

この一行の設定から物語が生まれたとき、最初に決めたのは「静けさを壊さないこと」でした。

誰かが嘘をつくとき、それは守りたいものがあるからであり、

誰かが真実を話すとき、それは失ってでも伝えたいものがあるから。

しずくも、陸も、その間で揺れていた人物です。

本作では、カクテルをただの小道具としてではなく、

“心の引き金”として扱いました。

マルガリータの塩気や酸味が、読んでくださるあなたの胸にも、少し残っていたなら、それほど嬉しいことはありません。

物語の結末は「赦し」とも「再生」とも言い切れません。

けれど、少なくとも彼らは、もう“嘘をつかなくていい朝”を迎えました。

いつか、あなたにもそんな朝が訪れますように。

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