第九話『かりそめの平穏』
翌朝。
俺は、硬い床のせいで軋む背中の痛みで目を覚ました。
「……そっか。現実、か」
思わず、乾いた笑いが漏れる。
視線の先、俺のベッドの上では、銀色の髪の少女――ルナが、子供のように健やかな寝息を立てていた。
昨夜の出来事は、夢ではなかった。俺の聖域は、一夜にして見ず知らずの少女との共同生活の場と化してしまったのだ。
俺は音を立てないように立ち上がると、クローゼットの奥から予備の黒パンと保存水の入った水筒を取り出す。
やがて、ルナが目を覚ました。
「……おはよう、ございます。アッシュさん」
「……ああ。おはよう、ルナ」
まだ眠たげな彼女に、俺はパンと水を差し出す。そして、釘を刺すように言った。
「俺はこれから授業だ。夕方までここには戻れない。いいか、絶対に、何があってもこの部屋から出るな。誰かがノックしても、絶対にドアを開けるな。声も出すな。わかったな?」
「……はい。わかりました」
彼女は、小さなリスのようにパンをかじりながら、こくこくと素直に頷く。
そのあまりの従順さに、俺は逆に不安を覚えた。本当にこの少女は、俺の言いつけを守れるのだろうか。
一抹の不安を胸に、俺は部屋を後にした。
扉の鍵を閉める音が、やけに重く感じられた。
◇
その日の授業は、全く頭に入ってこなかった。
ドルガン教授の小難しい講義も、ヴァルガス教官の熱血指導も、全てが上の空だ。
(ルナは、大丈夫だろうか)
(誰か、部屋を訪ねたりしていないだろうか)
(そもそも、あの路地裏の男たちはどうなった?衛兵の騒ぎになっていないか?)
思考が、次から次へと悪い方へと転がっていく。
おかげで、今日の俺の「劣等生」ぶりは、演技ではなく本物だった。普段にも増して集中力のない俺の姿は、周囲の学生たちの嘲笑と、リリアーナの冷ややかな視線を浴びるには十分だった。
そして、案の定と言うべきか。
昼休み、食堂で一人になれる場所を探していると、背後から元気な声が飛んできた。
「アッシュ君、みーっけ!」
「……セレスさんか」
セレスは、両腕に分厚い資料の束を抱えながら、少し困ったような顔で笑っていた。
「ごめんね、また捕まえちゃって。でも、ちょっと頼みがあって……」
「頼み?」
「うん。これ、午後の魔導史学で使う共同研究の資料なんだけど、今から急いでドルガン教授のところに行かなくちゃいけなくて。重くて大変だから、少しの間、アッシュ君の部屋に置かせてもらえないかな?」
俺は、心臓が凍りつくのを感じた。
「……俺の、部屋に?」
「うん!もちろん、アッシュ君がいないと入れないから、私が寮監さんのところに行って、マスターキーを借りてくるからさ!」
マスターキー。
その言葉が、俺の頭の中で警鐘を乱れ打ちにする。
セレスが、マスターキーで、俺の部屋のドアを開ける。
その部屋の中には、俺が「絶対に誰にも見つかるな」と言いつけた、ルナがいる。
【脅威分析:ルナの存在が露見する可能性:92%】
【シナリオ予測:セレスによる発見→寮監への報告→学院上層部への報告→アッシュ・ヴァーミリオンの拘束、及び退学処分】
最悪の未来予測が、視界の端で高速表示される。
まずい。
まずい、まずい、まずい!
何としてでも、止めなければ。
だが、どうやって?
「部屋が汚いから」?そんな理由で、彼女の親切を断れるか?いや、断れば逆に怪しまれるだけだ。
「今日は都合が悪い」?なぜ?理由を問いただされるに決まっている。
俺が逡巡している間にも、セレスは「じゃあ、決まりね!」と笑顔で踵を返そうとする。
「すぐ鍵借りてくるから、ここで待ってて!」
ダメだ、行かせるな!
何か、何か方法を考えろ!彼女が寮監室に着く前に、止めなくては!
俺がこれまで必死に守ってきた平穏な日常が、今、まさに崩壊しようとしていた。
喉まで出かかった悲鳴を、俺は必死に飲み込んだ。