第八話『月光の少女』
「…………ここ、は……?」
か細い声が、静寂を破る。
ベッドの上で半身を起こした少女――いや、俺が今しがた連れてきたばかりの銀髪の少女が、戸惑いに満ちた瞳で俺を見つめている。
俺は、彼女を怯えさせないよう、ゆっくりと数歩だけ距離を詰めた。
「俺の部屋だ。王立魔導学院の、学生寮の」
「……あなたの、へや……?」
「路地裏で襲われていたのを、覚えているか?」
俺の言葉に、少女はこくりと頷く。その表情に、再び恐怖の色が宿った。
「あの人たちは……」
「気絶させて、そこに転がしてある。まあ、俺がやったというより、勝手に自滅したようなもんだが」
もちろん、嘘だ。
だが、俺がやったなどと正直に話すわけにはいかない。俺はあくまで、偶然通りかかっただけの、非力な学生でなければならない。
「とにかく、危険だと思ったから、ここに連れてきた。衛兵を呼ぶより、その方が安全だろうと判断した」
「……」
少女は黙って俺の話を聞いている。警戒はしているようだが、パニックに陥っている様子はない。見た目に反して、存外肝が据わっているのかもしれない。
俺は本題を切り出すことにした。
「君の名前は?どこから来た?なぜ、あんな奴らに追われていた?」
「わたしの、なまえ……?」
少女は、まるで初めてその言葉を聞いたかのように、自らの名前を反芻した。そして、記憶の海を探るように、しばらく黙り込む。やがて、その顔に苦痛の色が浮かんだ。
「……わからない……」
「わからない?」
「何も……。自分が誰なのか、どこから来たのか……何も思い出せないんです。ただ、ずっと……ずっと、何かに追われていて、逃げなければいけないって……それだけ……」
記憶喪失。
物語の中だけの話だと思っていたが、現実に起こりうることらしい。そして、最悪のタイミングで、俺はその当事者になってしまった。
これでは、身元を調べて家に帰すこともできない。
途方に暮れて、俺は窓の外に目をやった。夜空には、美しい満月が浮かんでいる。
その光が、窓から差し込み、彼女の銀色の髪を幻想的に照らし出していた。
まるで、月の光そのものを紡いで作ったかのようだ。
「……ルナ」
「え……?」
「月の光みたいだから。君の名前、今からルナだ。名前がないと、不便だろ」
我ながら、安直なネーミングだとは思う。
だが、少女は、きょとんとした後、その名前をそっと口の中で転がした。
「……ルナ……。わたしの、なまえ……」
そして、ふわり、と。
彼女は、初めて花が綻ぶように、優しく微笑んだ。
「……はい。今日から、私はルナ、です」
その笑顔に、俺は思わず心臓を掴まれたような心地になった。
いけない。この少女は、とんでもない厄介ごとの塊だ。これ以上、情を移すべきじゃない。
俺は自らを戒めるように、腕を組んだ。
「いいか、ルナ。俺は君の身元が分かるまで、仕方なく、あくまで仕方なく、君をここに置いてやる。だが、絶対に部屋から出るな。誰かに見つかったら、俺も君も終わりだ。いいな?」
「はい」
素直な返事に、少しだけ拍子抜けする。
俺は、この少女ともっと距離を置くべきだと、頭では分かっていた。
だが、彼女は、俺を見つめながら、こう言ったのだ。
「あなたは、怖くない、です。……なんだか、とても、懐かしい感じがします」
「……っ!」
懐かしい、だと?
俺と彼女が、会ったことがあるはずがない。
だが、彼女の瞳は、嘘を言っているようには見えなかった。
一体、どういうことだ……?
この少女は、本当に何者なんだ?
【システム保護対象】という、ありえないステータス。
追ってくる、謎のならず者たち。
そして、記憶喪失。
俺の聖域だったはずのこの部屋は、今や、世界級の謎とトラブルの最前線になってしまった。
俺は、大きく、そして深いため息をつく。
明日から、一体どうすればいいんだ……?
俺の平穏な日常計画は、この夜、完全に破綻した。