第七話『招かれざる聖域』
腕の中で眠る、銀髪の少女。
地面に転がる、二人のならず者。
静まり返った路地裏で、俺は完全に途方に暮れていた。
どうする?
選択肢は、三つ。
一つ、このまま少女をここに放置して立ち去る。衛兵に通報だけはしておく。
――駄目だ。あの男たちは「高く売れる」と言っていた。別の輩が来るかもしれない。何より、見捨てたという事実が、きっと俺を一生苛む。
二つ、衛兵が来るまで、ここで少女を守り続ける。
――これも駄目だ。俺が現場にいたことが露見する。面倒な尋問、そして今日の訓練場の件と結び付けられたら、俺の平穏な日常は完全に終わる。
ならば、残る選択肢は、一つしかない。
ひどく面倒で、最大級に厄介で、俺が最も避けたいはずの選択肢。
――この少女を、安全な場所まで連れて行く。
「……最悪だ」
俺は心の底から呟くと、覚悟を決めた。
少女を気を失っている男たちから引き離し、そっと横抱きにする。驚くほど軽い。まるで羽のようだ。
問題は、どうやって寮まで連れて帰るか。学院の敷地内は、夜間でも巡回している教官や風紀委員がいる。気絶した少女を抱えているところを見られたら、即座に大問題だ。
俺は小さく息を吐き、再び禁忌の力に意識を沈める。
【法則改変実行】
【命令:周辺人物の対人認識に軽度の指向性阻害を適用。術者及び同伴者の存在感を希薄化せよ】
【命令承認。対象範囲:半径50メートル。効果時間:10分】
ふわり、と俺と少女の体が、まるで陽炎のように僅かに揺らぐ。
これで完璧に姿が消えるわけではない。だが、他人の意識に「ここに注意を払う必要はない」と働きかけ、認識の端へと追いやることができる。いわば、超限定的な認識阻害だ。
俺は少女を抱きかかえたまま、慎重に、しかし速やかに歩き出した。
案の定、前方から巡回の教官が歩いてきたが、俺たちのことなどまるで存在しないかのように、すぐ側を通り過ぎていく。
よし、うまくいっている。
俺は誰にも見られることなく、自分の寮の部屋へと辿り着いた。
俺の部屋は、必要最低限の物しかない、殺風景な一人部屋だ。ここが、俺にとっての唯一の聖域。誰にも邪魔されない、平穏の城のはずだった。
その城の、唯一のベッドに、今、見ず知らずの少女が横たわっている。
なんとも皮肉な話だ。
俺は濡らしたタオルで、少女の額に浮かんだ汗をそっと拭う。
改めて見ると、人形のように整った顔立ちをしていた。安らかに眠っている彼女を見ていると、本当にこの世の者ではないような、不思議な感覚に陥る。
(一体、何者なんだ……?)
あの男たちは言っていた。「神の御使い」だと。
まさか、そんな御伽噺のような話が……。
好奇心に駆られ、俺は自らの能力を、彼女に向けてみることにした。
対象の情報を読み取る、簡易的な『鑑定』。
【情報走査実行。対象:名称不明の少女】
普通なら、名前、年齢、身体的特徴などの基本情報が表示されるはずだ。
だが。
【――エラー】
俺の視界に、初めて見る赤い警告ウィンドウが、激しく点滅した。
【エラー。対象は『魔導法則』の直接保護下にあります。権限レベル不足のため、詳細情報の読み取りを拒否されました】
「…………は?」
思わず、声が漏れた。
魔導法則の、直接保護下?権限レベル不足?
なんだそれは。ありえない。この世界の人間は全て、システムの「中」にはいるが、システム「そのもの」に守られる存在など、いるはずがない。それは、神話の時代の遺物か、あるいは――。
俺が、自らの能力でもたらされた結果に愕然としている、その時だった。
「ん……」
ベッドの上の少女が、小さく身じろぎをした。
そして、その長い睫毛が、ふるりと震える。
ゆっくりと、月光を宿したような銀色の瞳が、その姿を現した。
まだぼんやりとした焦点が、数度さまよい、やがて――部屋の隅に立つ俺の姿を、正確に捉えた。
「…………ここ、は……?」
少女は、戸惑いに満ちた声で、そう呟いた。
その声は、静かな俺の聖域に、不思議なほどはっきりと響き渡った。