第六話『路地裏の禁忌』
面倒事はもうこりごりだ。
今日の厄介ごとは、全て終わったはずだった。
そう、固く信じていた。
だから、近道として選んだ裏路地から、悪意に満ちた魔力の匂いと、か細い声が聞こえてきた時、俺の最初の思考は「関わるな」だった。
見て見ぬふりをして、ここを通り過ぎる。それが、俺が守るべき日常だ。
そう自分に言い聞かせ、踵を返そうとした。
「――離しなさい!」
悲鳴に近い、しかし芯のある少女の声。
そして、ゲスな笑い声が二つ。
「大人しくしろよ、嬢ちゃん。お前が『神の御使い』かなんだか知らねえが、高く売れるって話なんでな」
「少し抵抗するくらいが興奮するってもんだ。なあ?」
ダメだ。
足が、地面に縫い付けられたように動かない。
俺はゆっくりと、音を立てずに路地の角から奥を覗き込んだ。
そこには、黒いローブをまとった男二人が、一人の少女を壁際に追い詰めている光景が広がっていた。
少女は、小柄だった。月光を溶かし込んだような銀色の髪が、薄汚れた路地には不釣り合いなほど清らかに輝いている。着ているのは、どこの制服でもない、簡素な白いワンピース。恐怖に目を見開いているが、その瞳は必死に目の前の男たちを睨みつけていた。
男の一人が、下品な手つきで少女の腕を掴む。
「――っ、やめて!」
その声が、脳内で反響した。
『――助けて、お兄ちゃん!』
あの日の、炎の中で消えていった、最愛の妹の声と、重なる。
瞬間、俺の中で何かが、プツリと切れた。
後悔も、打算も、平穏への執着も、全てが思考の彼方へと消し飛ぶ。
ただ、目の前の光景が、許せない。
それだけだった。
「おい」
俺は、影の中からゆっくりと姿を現した。
「そこで、何してる」
男たちが、ぎょっとしてこちらを振り返る。俺の姿――見るからにひょろりとした学院生だと分かると、途端に侮りの表情を浮かべた。
「あぁ?なんだこのガキは。英雄気取りか?死にたくなければ、すっこんでろ」
「ヒヒッ、見てみろよ。アエテルガルドの制服だ。エリート様のお通りらしいぜ」
片方の男が、俺に向かって手をかざす。その指先に、黒く、禍々しい魔力が渦を巻いていく。
【警告:違法な魔術式の構築を検知。術式名:暗黒槍】
俺の視界が、赤い警告を発する。
違法な術式。衛兵に見つかれば、即刻拘束されるレベルの禁術だ。
「消し炭にしてやるよ!」
男が叫び、黒い槍が俺目掛けて放たれる。
だが、俺は一歩も動かない。
(――遅い)
俺はただ、意識を集中させる。
【法則改変実行】
【命令:対象の魔術式『暗黒槍』の座標指定を反転。術者本人に強制固定せよ】
「なっ――!?」
俺の目前まで迫っていた黒い槍が、ピタリ、と空中で静止する。
そして、まるで意思を持ったかのように、その穂先をくるりと反転させた。
「馬鹿な!?なぜ術式が俺の方を!?」
術者の男が狼狽えるが、もう遅い。
反転した暗黒槍は、放たれた時よりも速い速度で、持ち主の元へと帰っていった。
「ぐわぁっ!!」
断末魔の悲鳴と共に、男が吹っ飛び、壁に叩きつけられて気を失う。
「な、なんだと……!?貴様、何をした!?」
もう一人の男が、信じられないものを見る目で俺を睨み、踵を返して逃げ出そうとする。
(逃がすか)
【法則改変実行】
【命令:対象座標の地面の摩擦係数を、一時的にゼロに設定】
「うおっ!?」
逃げ出そうとした男の足元が、ツルン、と氷の上のように滑る。体勢を崩した男は、盛大にすっ転び、後頭部を強打して白目を剥いた。
一瞬の静寂。
残されたのは、気を失った二人の男と、俺と、そして――壁際でへたり込んでいる銀髪の少女だけだった。
俺はゆっくりと少女に歩み寄る。
彼女は、恐怖と驚きが入り混じった瞳で、俺をじっと見上げていた。その瞳は、まるで夜空に浮かぶ月のようだ。
「……大丈夫か?」
「…………」
少女はこくこくと頷く。そして、か細い声で、途切れ途切れに言った。
「…………ありがとう、ございます……」
その言葉を最後に、彼女の瞳から光が失われ、その小さな体は、糸が切れた人形のように、ゆっくりと前へと傾いた。
「おいっ!?」
俺は咄嗟に駆け寄り、彼女が地面に倒れる寸前で、その体を抱きとめた。
腕の中に収まった少女は、驚くほど軽かった。規則正しい寝息が聞こえる。どうやら気を失ってしまったらしい。
俺は、腕の中で眠る銀髪の少女と、地面に転がる二人の悪党を、交互に見下ろした。
「……どうするんだ、これ……」
やっと手に入れたはずの平穏な日常が、ガラガラと音を立てて崩れていく。
俺の嘆きは、誰に聞かれることもなく、静かな路地裏に吸い込まれていった。