第五話『二つの疑念』
あの騒動の後、第三実技訓練場は立ち入り禁止となり、午後の授業は全て自習に変更された。
俺にとっては好都合だった。さっさと寮に帰って、今日の精神的な疲労を癒したい。
だが、どうやら二人の天才少女は、俺を解放してくれるつもりはないらしい。
◇
王立魔導学院が誇る大図書館。その一角で、リリアーナ・クレスフィールドは、山と積まれた難解な魔導書に囲まれていた。
(ありえない……)
彼女は、先ほどの出来事を何度も頭の中で反芻していた。
『魔力共振による装甲材の脆弱化』『マナ粒子間の斥力増幅現象』……考えうる限りの理論を当てはめても、説明がつかない。彼女が放った魔力弾の威力では、あのゴーレムの装甲を貫通し、ましてや制御核を寸分の狂いもなく破壊することなど、絶対に不可能なのだ。
まるで、誰かが「ここを撃て」とばかりに、最高の舞台を用意してくれたかのようだった。
(私ではない、何者かの力が介入した……?だとしたら、一体誰が、何のために……?)
彼女の脳裏に、訓練場の生徒たちの顔が一人ずつ浮かんでは、消えていく。
もちろん、その中にアッシュ・ヴァーミリオンの姿もあったが、即座に候補から外された。
あの劣等生に、これほどの超高度な魔導法則への介入ができるはずがない。
リリアーナの美しい眉間に、深い皺が刻まれる。
彼女の誇りが、この不可解な「奇跡」の正体を突き止めるまで、決して思考の停止を許しはしないだろう。
◇
一方その頃、セレス・シルフィードは自らの研究室で、昨日アッシュに助けてもらった球体をじっと見つめていた。
(やっぱり、似てる……)
今日のゴーレム事件と、昨日の球体暴走事件。
一見、全く異なる事象だ。だが、彼女の天才的な直感が、二つの出来事の間に奇妙な共通点を見出していた。
「ありえない場所」が、「ありえないタイミング」で、弱点になる。
昨日は、アッシュが「目障りだ」と指差した装飾紋。
今日は、リリアーナの魔法が着弾する寸前に、なぜか剥がれ落ちた胸部装甲。
そして、二つの事件の現場には、必ずアッシュ・ヴァーミリオンがいた。
彼はいつも気だるげで、やる気がなくて、肝心な時には何もしていないように見える。
(でも、本当に……?)
セレスの脳裏に、助けてもらった時の光景が蘇る。
リリアーナ様の魔法はすごかった。でも、その少し前、アッシュ君が、確かに私を助けようと走ってきてくれていた。あの真剣な顔……。いつもの彼とは全然違った。
(もしかして、アッシュ君が、リリアーナ様の魔法が当たるように、何かをした……?)
馬鹿げた考えだ、とセレスは一度頭を振る。
だが、一度芽生えた仮説は、彼女の探究心に火をつけた。
あの劣等生という仮面の奥に、とんでもない秘密が隠されているとしたら?
それは、どんな古代遺物の謎よりも、彼女の心を惹きつける、最高のパズルだった。
◇
「――アッシュ君!」
寮への道を急いでいた俺は、背後からの明るい声に、思わず足を速めた。しかし、無駄な努力だった。あっという間にセレスが隣に追いついてくる。
「待ってよ!今日のこと、お礼を言わせて!」
「礼ならクレスフィールドさんに言え。俺は何もしてない」
「ううん、違うの。リリアーナ様が助けてくれたのは分かってる。でも、アッシュ君も、私を助けようとしてくれたでしょ?」
まっすぐな瞳が、俺を射抜く。
俺は視線を逸らしながら、しらを切った。
「勘違いだ。俺はただ、驚いて逃げようとして、派手に転んだだけだ」
「ふーん……。でもね、なんだか昨日と似てるなって思ったんだ」
「……何がだ?」
「アッシュ君が近くにいると、不思議なことが起きるの。普通じゃ絶対に見えないはずの『問題の核心』が、なぜか見えるようになる。まるで、答えを教えてもらっているみたいに」
心臓が、ドクンと跳ねた。
この天才は、俺の能力の本質に、すでに気づき始めているのか。
「……偶然だろ。じゃあな」
俺はそれだけ言い捨てて、今度こそ早足で彼女から離れる。
幸い、今度は追いかけてこなかった。
背後から、楽しそうな声が聞こえる。
「そっかー、偶然かー!じゃあ、その偶然の正体、私が突き止めてあげるね!」
俺は背筋に冷たいものを感じながら、歩みを速めた。
なんて面倒なことになったんだ。
今日の厄介ごとは、これで終わりだ。早く部屋に戻って休もう。
そう思い、俺は人通りの少ない裏路地を近道として選んだ。
その時だった。
路地の奥から、バチッ、と空気が弾けるような音が聞こえた。
違法な、そして悪意に満ちた魔力の匂い。
そして、か細い、助けを求めるような声が、俺の耳に届いた。