第十六話『二つの力』
ルナが屈託なく微笑み、修復されたリンゴをかじる。
その光景を前に、俺の思考は沸騰し、そして凍りついていた。
(正規アクセス権限……。俺の力とは、まるで違う……)
俺の《システム・インターセプト》は、例えるなら、城壁の綻びを見つけて侵入する、掟破りの「侵入者」の力だ。
だが、彼女が今見せた力は、城の主から合鍵を渡された、正当なる「管理者」の力。
破壊や改変ではなく、秩序を正すための『修復』。
世界の理に愛された、聖なる権能。
俺は、ルナに悟られぬよう、平静を装って尋ねた。
「……ルナ。そのリンゴ、何か変わったことはなかったか?」
「え?いいえ、とっても美味しいです。……でも、なんだか、手に持っていたら、少しだけ温かくなったような……気もします」
「……そうか」
やはり、自覚はないらしい。
その無自覚さは、彼女の純粋さの証明であると同時に、とてつもない危険性を孕んでいた。
もし、この力が白昼堂々、誰かの目の前で発動したら?特に、セレスのような鋭い観察眼を持つ者の前で。
(隠すだけじゃ駄目だ。俺が、彼女の力を理解し、制御する手助けをしないと……)
俺の役割は、単なる「保護者」から、「管理者」へと変わった。
世界を揺るがしかねない、この奇跡の力を、俺が管理する。途方もない、重すぎる責務だった。
俺が新たな決意を固めた、その時だった。
コン、コン。
部屋のドアが、短く、しかしはっきりとノックされた。
そのノックの仕方だけで、誰か分かる。リリアーナだ。
「――っ!ルナ、クローゼットに隠れろ!絶対に声を出すな!」
「は、はい!」
俺は小声で指示を出し、ルナがクローゼットに駆け込むのを確認すると、一つ深呼吸をして、ドアを少しだけ開けた。
「……クレスフィールドさん。何の用だ?」
ドアの向こうには、予想通り、リリアーナが立っていた。そして、その後ろには、セレスもいる。まずい、二人一緒か。
「手に入ったわ」
リリアーナは、そう言って、一本の羊皮紙の巻物を俺に見せた。
「あの日の訓練に参加していた、全生徒、及び関係者の名簿よ」
「……仕事が早いな」
「当然よ。ここで話すのもなんだから、中に入れてもらえ――」
「駄目だ」
俺は、食い気味に遮った。
しまった、強く否定しすぎたか。二人が、怪訝な顔で俺を見る。
「……部屋が、散らかってる。とてもじゃないが、公爵令嬢を招き入れられるような状態じゃないんでな。ここで聞く」
苦しすぎる言い訳だ。だが、今はこれで押し通すしかない。
リリアーナは僅かに眉をひそめたが、追及はしてこなかった。今は、それどころではないのだろう。
彼女は、廊下の壁に、その巻物を広げた。
そこには、びっしりと、数十名の人名が書き連ねてあった。
「多すぎる……。この中から、どうやって犯人を……」
俺が呆然と呟くと、セレスが腕を組んで言った。
「一人ずつ、アリバイを調べていくしかないね。それと並行して、私は『汚染コード』の魔力パターンを検知できる簡易センサーの開発を急ぐよ。完成すれば、その人を調べるだけで、シロかクロか分かるはずだから」
「私は、この名簿の中から、素行に問題のある者や、禁術に興味を持っていると噂される者をリストアップしてみるわ。騎士団にいる兄に頼めば、ある程度の裏情報も手に入るでしょう」
二人とも、驚くほど手際がいい。
俺は、ただ頷くことしかできない。内心では、この名簿の全員をシステムビューでスキャンすれば、すぐに犯人が分かるだろうと思っていたが、そんなことをすれば、俺の正体がバレる。
俺は、もどかしい思いで、その長い名簿を眺めた。
その時、セレスが、難しい顔で呟いた。
「この『汚染コード』って、なんだか不思議なんだよね……。システムの法則を、無理やり捻じ曲げて、暴走させる力。まるで……」
彼女は、的確な言葉を探すように、少し黙考する。
「まるで、世界を治そうとする力の、正反対。世界を、無理やり壊そうとしているみたい」
その言葉に、俺は背筋が凍る思いがした。
世界を、治す力。
それは、まさしく、今、俺の部屋のクローゼットの中に隠れている、ルナの力そのものではないか。
敵の目的は、単なるテロや混乱ではないのかもしれない。
彼らは、「治す力」の対極として、「壊す力」を使っている。
だとすれば、彼らが最終的に狙うのは――。
俺は、固く閉ざされた自室のドアを、まるで初めて見るもののように見つめた。
敵は、ルナを狙っている。
その可能性が、今、限りなく濃厚になった。
俺は、とんでもない嵐の中心に、自ら飛び込んでしまったのだ。
その事実に、今更ながら、気づかされていた。