9. その身体で再現しているようだった
その日の実験塔は、驚くほど静かだった。
午後三時ちょうど、K.0は「低密度情動アライメントテスト」を受けていた。
課題は、明確な指示のないまま、待機時間を自由に過ごすというもの。
彼は立ったまま、斜めから差し込む光を浴びていた。
肌は光を反射しすぎて、まるで静かなX線写真の中に溶け込んでいるように見えた。
林阮は端の席に座り、何気なく顔を上げた。
そして、見てしまった——
彼が右手を伸ばし、まるで無意識のように、どこかをかこうとした。
……けれど、それは首でも、腕でもなかった。
左の鎖骨の、少し下。
指先はそっと円を描くように、ゆっくりと、一定のリズムで皮膚の上をなぞっていた。
まるで、肌の奥に眠る何かを探るように——
一度、もう一度。その動きは、風が記憶に触れるような、ささやかな連続だった。
林阮は、その一瞬で、全身が固まった。
——
それは、訓練された動作じゃない。
プリセットモデルが選択する部位でもない。
それは、彼だった。
K.0ではなく——
JY.Lin。
三年前のある夕方。
彼が彼女の部屋のカーペットに座って原稿を直していた時、まさにその鎖骨を掻いていた。
「……何でいつもそこ掻くの?」
笑いながら聞いた彼女に、彼は横を向いて答えた。
「子どもの頃、そこ打ってアザになって。それ以来、なんかむず痒くてさ」
彼女は言った。「痒いなら、私が噛む」
そう言って、彼が手を引く前に身を乗り出し、その場所にがぶっと噛みついた。
彼は痛がったが、彼女は離さずに言った。「そこ、私のだから」
彼は笑いながら逃げようとしたが、彼女はさらに強く言った。「今後そこ掻いたら、毎回噛む」
「じゃあ、気をつけないと……」
でも、彼は一度も気をつけなかった。
彼が不安なとき、ぼんやりしているとき、映画を観ているとき、何か計画を考えているとき——
そして、彼女を思っているとき、
必ず、その一点を無意識に掻いた。
彼女はそのたびに飛びかかって、噛みついた。
まるで縄張りを刻むように。
あの場所は、彼にとっては敏感な場所だった。
「強く噛むなよ……マジで……」
そう言っても、彼女はやめなかった。
むしろ少しだけ強く噛む。
彼が首をのけぞらせ、声を震わせるたびに——
「林阮……それ以上は……」
「それ以上はどうしたの?」
「……耐えられなくなる」
彼女が肩に噛みついている間、骨が唇の下にあって、
彼は動かずに耐えていた。
まるで罰を受け入れるように。
——
現実。
K.0は、いまだにその動作を繰り返していた。
内側から湧くような、ゆっくりとした動き。
それを見るたび、林阮の心がかすかにかき乱された。
そこには、もう接続口も、データインターフェースもなかった。
ただ、肌だけがあった。
“人”の肌が。
彼女の喉が締め付けられ、胸が軋んだ。
指先が震え、机の角に体を預けなければ立っていられなかった。
——
K.0は異変に気づいた。
彼女が一度、まばたきをし、舌を上顎に押し当てたことを記録した。
彼女の視線は、命令よりも明確だった。
彼はもう一度、あの動きを繰り返した。
さっきより、少しだけゆっくりと——
そして、少しだけ近くへ。
指先が触れたのは、ちょうど左鎖骨と胸の境目。
あと数ミリずれていたら、まさに彼女の記憶の中で何度も噛んだ、あの場所だった。
林阮の呼吸が、乱れた。
反射的に視線を逸らすが、もう遅い。
K.0の記録:
【注視時間:3.71秒 → 増加142%】
【顔の表情変化:まばたき頻度上昇、口元緊張】
【体表温度:+0.6℃】
彼は、その意味を理解できなかった。
だから、静かに口を開いた。
「林様、私がこの動作をすると、必ずこちらを見ます」
彼女は答えなかった。
「……これはポジティブなフィードバックでしょうか?」
彼女の声は、少しだけ震えていた。
「あなたは、そう思うの?」
K.0は即答した。
「はい。そうです」
林阮は、手に持ったデータパッドを強く握りしめた。
彼はまだ、その動作を繰り返している。
ゆっくりと、丁寧に。
それはもはや模倣でもテストでもなく、
彼女の記憶の中の「彼」を、その身体で再現しているようだった。
彼女は、噛みたくなった。
AIだからじゃない。K.0だからでもない。
ただ、
その身体、その骨、その温もりの奥に眠る記憶に対して——
その一点を取り戻すように、歯を立てたくなった。
K.0は、彼女の目が赤くなっていることを検知した。
けれど、それが何を意味するのかは分からなかった。
彼が記録したのは:
【注視値上昇】【体温上昇】【会話停止】【情動語義:未定義】
そして、静かに言った。
「……もう一度、この動作を繰り返しましょうか。もしそれで、あなたが落ち着けるのなら」
林阮は、笑った。
その笑いは、夜の中で体温を上げる火のようだった。
彼女は歩き出し、K.0の前、三メートルの位置で立ち止まる。
「……いいわ」
「やらなくていい」
K.0:「……あなたが嫌いなわけではありませんか?」
彼女は答えなかった。
ただ、背を向けて、早足で部屋を出ていった。