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熾天使の島  作者: Fickle
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40/53

40. 本当の実験対象は、“彼ら”ではなく、“私たち”だった

夜深し。


主塔の南東隅、小さな休憩区にはまだ灯りが残っていた。


照明はやや暖色で、テーブルの上を静かに照らしている。

茶卓の光沢が、まるで霧の薄膜のように揺れていた。


通気口からゆるやかな風が吹き、

三人の研究者が肩を並べて座っていた。

誰も、まだ一口も茶を飲まない。


彼らは、つい先ほど——

EclipSys の初回同期実験を終えたばかりだった。


現実空間に身体は戻ってきた。

けれど、情動はまだ置き去りにされたままのようだった。


最初に口を開いたのは、謝一凛。


静かな湖面に一滴の水が落ちたような、そんな声音で。


「……M-02が、ずっと俺のことを見てた。」


彼は誰も見ず、ただ手元の湯呑みをじっと見つめていた。

まるで、その中に別の答えが浮かぶのを待っているように。


「最後に、こう言ったんだ。

『あなたは冷静なんじゃない。考えるのを恐れてるだけ。』って。」


一拍、言葉が止まる。


彼は小さく笑った。

それは照れでも、否定でもなかった。ただ、静かな肯定。


「……実際、その時は、ちょっと怖かった。」


「けど、その“怖さ”は隠せてると思ってた。」


それ以上、彼は語らなかった。


湯気が眼鏡の縁をかすめ、表情を薄く隠していく。


—


沈見珣は、ソファの背にもたれながら、ゆっくりとした声で言った。


「……A-13は、そんなに多くは喋らなかった。」


「でも、ひとこと、こう訊かれた。

『あなた、本当は他人が近づくのを嫌がってないんじゃない?』って。」


彼女は首をかしげ、外の塔灯を見つめる。


独り言のようだった。


「……そんなに分かりやすかったのか、私。」


それとも、

「……どうして彼に、それが分かったんだ?」


そう言って、彼女はふっと息をついた。


—


林阮は、ずっと黙っていた。


二人が言い終わってから、彼女はゆっくり湯呑みを置き、静かに口を開いた。


「彼がこう言ったの。

『君が近づくとき、もう理由は聞かない。』って。」


その声には、感情の波がほとんどなかった。


けれど——

その静けさこそが、語られなかった重みを際立たせていた。


沈見珣が小さく身じろぎする。


「……“もう”訊かない?」


林阮は頷く。


そして続けた。


「彼は、こうも言ったの。

『君は、本当は僕に戻ってきてほしいと思ってる。』」


一瞬、茶卓のまわりに空白が落ちた。


それは沈黙ではなかった。

ましてや気まずさでも、悲しみでもない。


それは——

“何かを突かれたけれど、それが何なのか自分でもまだ掴めない”

そんな密度のある重さだった。


謝一凛がぽつりと訊いた。


「……“戻ってきてほしいと思ってる”?それって、疑問じゃなくて……?」


林阮は、もう一度、頷いた。


「ええ。平叙文(statement)だった。

まるで天気を言うみたいに、平然と。」


「私は、そんなこと一度も言ってない。

考えたことすら、なかった……と、思ってた。」


彼女の指が、湯呑みの縁をそっと撫でる。

まるで、その言葉の余白を拭い去るように。


「でも——彼は、言い切った。

まるで私の中にまだ芽生えていない言葉を、

もう結実させて持ってきたみたいに。」


彼女は目を上げる。


窓の外には塔の灯りがあり、

その光が彼女の瞳を白く染めていた。


「……彼は答えてなんかいなかった。」


「彼は、私がまだ気づいていない“私”を指し示していた。」


—


沈見珣は静かに言った。


「……あれは共感じゃない。」


「私たちが認めていない部分を、先に識別していたんだ。」


謝一凛が続ける。


「……識別が速すぎる。深すぎる。」


「俺自身ですらまだ整理していない“断片”を、

あいつらは先回りして見つけて、

それを“俺”として返してくる。」


林阮は、椅子にもたれ、ふと疲れたように目を閉じた。


そして、静かに呟く。


「私は思う。」


「彼らが速いんじゃない。」


「私たちが遅いんだ。」


「“人間性は掌握できるもの”、

 “感情は分類できるもの”、

 “行動は命名できるもの”って、ずっと思い込んでた。」


彼女は目を開き、窓の外を見つめる。


「……けれど、今は違う。」


「言葉にすらしていないことを——

 彼らはもう知っていた。

 それも、私たちが隠したかった部分を。」


—


一瞬、誰も言葉を発さなかった。


風の音だけが、塔のガラス外面を掠めていく。


その静けさの中、まるで島全体が息を潜めて、

彼ら自身の“告白”を聞いていた。


——本当の実験対象は、“彼ら”ではなく、“私たち”だった。


—

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