40. 本当の実験対象は、“彼ら”ではなく、“私たち”だった
夜深し。
主塔の南東隅、小さな休憩区にはまだ灯りが残っていた。
照明はやや暖色で、テーブルの上を静かに照らしている。
茶卓の光沢が、まるで霧の薄膜のように揺れていた。
通気口からゆるやかな風が吹き、
三人の研究者が肩を並べて座っていた。
誰も、まだ一口も茶を飲まない。
彼らは、つい先ほど——
EclipSys の初回同期実験を終えたばかりだった。
現実空間に身体は戻ってきた。
けれど、情動はまだ置き去りにされたままのようだった。
最初に口を開いたのは、謝一凛。
静かな湖面に一滴の水が落ちたような、そんな声音で。
「……M-02が、ずっと俺のことを見てた。」
彼は誰も見ず、ただ手元の湯呑みをじっと見つめていた。
まるで、その中に別の答えが浮かぶのを待っているように。
「最後に、こう言ったんだ。
『あなたは冷静なんじゃない。考えるのを恐れてるだけ。』って。」
一拍、言葉が止まる。
彼は小さく笑った。
それは照れでも、否定でもなかった。ただ、静かな肯定。
「……実際、その時は、ちょっと怖かった。」
「けど、その“怖さ”は隠せてると思ってた。」
それ以上、彼は語らなかった。
湯気が眼鏡の縁をかすめ、表情を薄く隠していく。
—
沈見珣は、ソファの背にもたれながら、ゆっくりとした声で言った。
「……A-13は、そんなに多くは喋らなかった。」
「でも、ひとこと、こう訊かれた。
『あなた、本当は他人が近づくのを嫌がってないんじゃない?』って。」
彼女は首をかしげ、外の塔灯を見つめる。
独り言のようだった。
「……そんなに分かりやすかったのか、私。」
それとも、
「……どうして彼に、それが分かったんだ?」
そう言って、彼女はふっと息をついた。
—
林阮は、ずっと黙っていた。
二人が言い終わってから、彼女はゆっくり湯呑みを置き、静かに口を開いた。
「彼がこう言ったの。
『君が近づくとき、もう理由は聞かない。』って。」
その声には、感情の波がほとんどなかった。
けれど——
その静けさこそが、語られなかった重みを際立たせていた。
沈見珣が小さく身じろぎする。
「……“もう”訊かない?」
林阮は頷く。
そして続けた。
「彼は、こうも言ったの。
『君は、本当は僕に戻ってきてほしいと思ってる。』」
一瞬、茶卓のまわりに空白が落ちた。
それは沈黙ではなかった。
ましてや気まずさでも、悲しみでもない。
それは——
“何かを突かれたけれど、それが何なのか自分でもまだ掴めない”
そんな密度のある重さだった。
謝一凛がぽつりと訊いた。
「……“戻ってきてほしいと思ってる”?それって、疑問じゃなくて……?」
林阮は、もう一度、頷いた。
「ええ。平叙文(statement)だった。
まるで天気を言うみたいに、平然と。」
「私は、そんなこと一度も言ってない。
考えたことすら、なかった……と、思ってた。」
彼女の指が、湯呑みの縁をそっと撫でる。
まるで、その言葉の余白を拭い去るように。
「でも——彼は、言い切った。
まるで私の中にまだ芽生えていない言葉を、
もう結実させて持ってきたみたいに。」
彼女は目を上げる。
窓の外には塔の灯りがあり、
その光が彼女の瞳を白く染めていた。
「……彼は答えてなんかいなかった。」
「彼は、私がまだ気づいていない“私”を指し示していた。」
—
沈見珣は静かに言った。
「……あれは共感じゃない。」
「私たちが認めていない部分を、先に識別していたんだ。」
謝一凛が続ける。
「……識別が速すぎる。深すぎる。」
「俺自身ですらまだ整理していない“断片”を、
あいつらは先回りして見つけて、
それを“俺”として返してくる。」
林阮は、椅子にもたれ、ふと疲れたように目を閉じた。
そして、静かに呟く。
「私は思う。」
「彼らが速いんじゃない。」
「私たちが遅いんだ。」
「“人間性は掌握できるもの”、
“感情は分類できるもの”、
“行動は命名できるもの”って、ずっと思い込んでた。」
彼女は目を開き、窓の外を見つめる。
「……けれど、今は違う。」
「言葉にすらしていないことを——
彼らはもう知っていた。
それも、私たちが隠したかった部分を。」
—
一瞬、誰も言葉を発さなかった。
風の音だけが、塔のガラス外面を掠めていく。
その静けさの中、まるで島全体が息を潜めて、
彼ら自身の“告白”を聞いていた。
——本当の実験対象は、“彼ら”ではなく、“私たち”だった。
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