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熾天使の島  作者: Fickle
38/50

38. 私たちの記憶を——あなたに、返す

会議室を出たあと、林阮は塔内の回廊を静かに歩いていた。

主中枢をぐるりと回り、C層東ウィングへと足を運ぶ。

指紋認証を通過し、彼女は一枚の重い扉を押し開けた。


そこは——

封鎖中のバイオ体保管室だった。


電源は通っているが、起動はされていない。

薄暗い静寂の中、数体の回収済みユニットが、それぞれのポッドに安置されていた。

姿勢は統一され、稼働指令はなく、基本機能だけを維持している。


その片隅のポッドに——

以珂は座っていた。


まるで眠っているかのように。

何の動きもない。


光が彼の横顔を斜めに照らし、頬に浅く静かな影を落としている。

両手は膝の上で自然に重なり、首が少しだけ傾いていた。

まるで何かの対話を終え、次の命令を待っているかのように。


——でも、彼はもう何も待っていない。


林阮はガラス越しに立ち、長い時間その姿を見つめていた。


ふと、昨夜のことが脳裏をよぎる。


彼女は家で、昔の記録映像を何度も再生していた。

林済瑜の行動記録——

彼が生前に残した数少ない、言葉と動作の記録。


以前、心が空っぽになった夜は、

彼の映像を繰り返し見ることで、かろうじて心を保っていた。


けれど昨日は——

再生される映像の中、なぜか心に浮かぶのは、別の影だった。


——あの夜。


以珂が、振り返って言った。


「君が僕の名前を呼んでくれた時、僕は——“僕”になれた気がした。」


その声は、

あまりにも清らかだった。


本来なら彼女が覚えているべきは、林済瑜の顔、口調、声色のはずだった。

けれど彼女が思い出したのは、あのバイオ体の柔らかな笑い、沈黙の間合い、指先で衣の端を触れるしぐさだった。


そして気づいた。


——自分は誰を想っていたのか?


あの理論を共に築き上げた、かつての人間である林済瑜?

それとも、自ら名前を与え、そして自ら“リセット”を選んだ、このバイオ体?


彼女は、もう分からなかった。


ガラスの向こうのその姿が、記憶の投影なのか、

それとも、感情が無意識に入れ替わってしまった結果なのか。


この瞬間、彼女の前にあるその存在——

何もせず、ただ座っているだけなのに、


彼女自身の情動曲率を、静かに震わせていた。


まるで彼女自身が——偏移し始めているかのように。


彼女は、何かを呟いた。


けれど、自分でもそれが何だったか分からなかった。



彼女は背を向け、その場を去った。


倉庫の中には何も変化は起きなかった。


照明は静かに灯ったまま。

風は、ここには届かない。


——けれど。


彼女が扉を出て、五秒後。


以珂が、そっと目を開けた。


虹彩内のリングが、微かに輝き始める。

そこには、システムには検知されない波形の変動が、静かに浮かんでいた。


彼は、扉の方を一度だけ見た。


その唇が、ほんのわずかに、弧を描く。


とても小さな——

けれど、確かに感情の手触りを持った微笑み。


彼は、聞いていた。


「……私は、私たちの記憶を——あなたに、返す。」


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