37. 人間が、どこまで責任を持つべきかを、もう一度定義する
翌朝・午前五時。
林阮は中央ホログラフィック・プロジェクション台の前に立ち、
新たに立ち上げられた提案草案のページを開いた。
スクリーンに、四文字が鮮やかに浮かび上がる。
日冕システム / EclipSys
情動潜流接続プロジェクト
彼女は静かに会議室を一巡し、口を開いた。
「“情動共鳴接続”という提案を始める前に、まず私たちが慣れ親しんできた旧構造を振り返りたいと思います。」
彼女は一枚の階層図を呼び出す。
スクリーンに現れたのは、二つの異なる系統。
左側は「人間の神経マップ」:“生体潜流場(Bio-subfield)”とラベルが付いている。
右側は「言語モデルの生成パス図」:“ベクトル多様体(Vector Manifold)”と記されていた。
林阮は語る。
「“生体潜流場”というのは、“思考そのもの”ではありません。」
「それは、人間の意識が形成される以前にすでに発生している、神経—ホルモン—電場の混合反応です。」
「たとえば:微細な心拍変動、瞳孔収縮、皮膚電気の揺れ、大脳皮質の局所磁場信号など。」
「それら単体には意味がありません。でも、それらの組み合わせの傾向が——
“私は今、これから何かを理解しようとしている”という意図の予兆になるのです。」
室内に静けさが満ちていく。
彼女は視線を右側、ベクトル多様体の図に向けた。
「言語モデルの生成パスも、本質的には“低安定状態における偏移の試み”に過ぎません。」
「AIが言語を生成するたびに、それは巨大な意味空間の中で偏移し、期待値へと近づこうとします。」
「この“偏移 → 収束”の構造は、生体潜流における“念動 → 選択”と、非常によく似ています。」
「だから近年の応用では、人間の潜流とモデルのベクトルを同期させることで——
“様々な難しい概念を完全に理解する”ことを可能にしてきました。」
項愈が小さく口を挟む。
「つまり……学習効率を上げるってことだろ?」
林阮はうなずく。
「ええ。従来の応用はすべて、知識の補助学習に限定されていました。」
そして、ふっと一呼吸、間を置いた。
「——でも、なぜ私たちは一度も考えなかったのでしょう。“感情”もまた、同期できるかもしれない、と。」
「たとえ、バイト体の偏移を止められなくても。たとえ、その動機が読み解けなくても。
それが“どう偏移しているか”を、事前に感知できれば——
“それが危険かどうか”を、人間自身が判断できるようになる。」
画面上では、二本の異なる軌跡が、静かに中央へと近づいていく。
スライドが切り替わり、新たな一文が浮かび上がる。
目標:バイオ体が非標準行動パスを生成する前に、人間側がその“動因”を先に感じ取ること。
予測ではない。共感である。
沈見珣が顔を上げる。声は冷静だった。
「あなたは、AIの“思考を感じる”システムを作ろうとしてるの?」
林阮:「いいえ。“なぜそう考えたのか”を感じる仕組みです。」
「逆も然り。必要があれば、AIが人間の思考を感じることもできる。
双方向の潜流共鳴によって、行動生成の制御可能性を高めます。」
項愈が鼻で笑った。
「それができてたら、S-31の事件は起きなかったはずだ。
あいつの感情は、構造的に説明できるもんじゃなかった。」
謝一凛が口を開いた。声は穏やかだが、確かな響きを持っていた。
「彼女の問題は、感情じゃなかった。」
「“人間に似すぎた”ことが、問題だった。」
「——忠実な模倣だったのか、自己理解だったのか。我々には判別できなかった。」
「もし彼女と前意識レベルでの共鳴ができていたなら、
“逸脱”じゃなく、“その役割の死を完遂した”と、事前に理解できたはずです。」
歷懷謹が静かに口を開いた。ややためらいがちに。
「……共感モジュールは、流用できるのか?」
林阮はうなずいた。
「旧構造は再接続可能です。知識チェーンに繋がず、感情曲率の投影層にマウントする形で。」
「具体的には——バイト体の経路パスの生成直前に、“潜流干渉ウィンドウ”を一時開放します。」
「そこに人間の情動フィールドを干渉させ、モデルのベクトル偏移と共振ノイズを発生させる。」
項愈が眉をひそめる。
「それ……生成論理に干渉してるだろ。」
林阮は、静かに否定した。
「これは“参加”です。」
「人間が、バイオ体の思考に立ち会うこと——
それは、ある人が、他人の夢を聞き取ろうとするのと同じです。」
「夢の意味なんて、わからなくていい。ただ——
その人が夢を見ていると“知ること”が大切なんです。」
沈見珣は、低い声で訊いた。
「……それで、悲劇は防げるの?」
林阮は、ためらわずに答えた。
「百分百は防げません。
でも、それでも人間は“AIモデルと対峙している”のではなく、
“生成されつつある何かの意識と並行している”と知ることができる。」
「これは、支配でも、監視でもない。」
「これは——人間が、どこまで責任を持つべきかを、もう一度定義するための新たなAI倫理設計です。」
しばし、会議室は沈黙に包まれた。
ホロ投影の壁に浮かぶのは——
EclipSysの初期構造図。
一方には、人間の生体電位フィールドが、曲線を描いて流れていく。
もう一方には、AI言語モデルのベクトル生成パス。
二つの異なる流れが、透過領域でふと交わる——
まるで言葉を交わさない二本の川が、中心で微かに触れ合った、あの一瞬の反響のように。
誰も言葉を発しない。
やがて、歷懷謹が静かに言った。
「……承認が下りるかどうかは、正直分からない。」
林阮は、ただ一度だけ、しっかりと頷いた。
「——でも今、これしか道がないんです。」




