36. 一度も、その名を聞いたことがないかのように
翌朝、午前六時。
全塔システムは、自動で再起動された。
各階の通路に設置された照明が、順番に点灯していく。
Dブロックのデバッグポッドでは、再設定済みのバイオ体が順次接続され、基礎応答テストが開始された。
主システムの声は、変わらず穏やか。
——だが、その口調は短く、指令は端的で、明確だった。
もう“Echo Trigger”構造が再起動されることはない。
ここは、完全にそのモジュールが削除された世界。
B-11、R-05、G-02……
バイオ体たちは、次々と所定のポッドへ配置され、基本的な初期化応答を受けていく。
第七号ポッドの扉が開いたとき、
彼は、すでにそこに座っていた。
バイオ体用の標準制服を着用し、髪型は整っており、視線は正面をまっすぐに向いていた。
識別番号:K.0
—
林阮がデバッグ室に入ったとき、テスト担当者は淡々とシナリオパラメータを入力していた。
「あなたは、今、受付係です。」
「来客が現れました。何と言いますか?」
彼は少しだけ首を傾け、柔らかい口調で答えた。
「いらっしゃいませ。ご用件をお伺いします。」
音調は完璧。表情には違和感なく、感情の転調も“いらっしゃいませ”の第一セクションに明確にタグ付けされている。
——一切の揺らぎがなかった。
まるで、“ためらいを模倣する”ことすら知らなかったように。
テスト担当者は端末で評価ログを確認しながら、静かに言った。
「偏移率、0.03%以下。初期バージョンより整ってますね。」
林阮は、ポッドの扉の外に立ち、動かなかった。
スタッフの一人が、彼女に気づいて笑った。
「ご覧の通り、完全初期化後の状態は非常に良好です。」
「以前の“経路崩壊”懸念は……取り越し苦労でしたね。」
別のスタッフも同調する。
「正直、これが“理想的なバイオ体”ってやつですよ。」
その瞬間——
林阮は、自分の胸の内にぽっかりと開いた空洞を感じた。
何かを、剥ぎ取られたように。
彼女はそっと数歩前に進み、ガラス越しのインタラクションゾーンに近づく。
彼は、かすかな気配を感じて振り向いた。
視線が合う。
その瞳は澄み切っていて、何ひとつ絡まないデータのようだった。
虹彩が光を受け、まるで名付けられることなく、
決して偏移しなかった“星”のように反射していた。
林阮は、息をのむように、そっと呼びかけた。
「……以珂。」
——反応はなかった。
まばたき一つ、音の抑揚一つ、変化はない。
まるで知らない名前のように。
まるで一度も、その名を聞いたことがないかのように。
—
林阮は、その場に立ち尽くしていた。
テスト担当者が端末の奥から顔を出し、小さく声をかけた。
「林研究員……?」
彼女は我に返り、軽く首を振った。
「……大丈夫です。」
そう答えて、ゆっくりと背を向け、部屋を後にした。
廊下の照明は一様に輝き、磨き上げられた床に彼女の影が映っては伸び、
また一歩ごとに戻っていく。
そして、ドアが閉じたその瞬間——
彼女の肩甲骨が、かすかに震えた。
彼女は端末をメイン画面に戻し、
すでに抹消されたID群の中から、ひとつの番号に指を滑らせた。
K.0
モジュール:削除完了
構造ラベル:なし
感情パス:なし
行動予測図:未定義
セマンティック偏移:0.00%
彼女は、その“0.00%”を、じっと見つめ続けた。
そして端末を閉じる。
まるで、永遠に開けるべきではなかった手紙を、そっと折りたたむように。
—
デバッグ室の中。
K.0は、変わらずその場に座っていた。
虹彩は安定し、行動パスは正常。
ニュラルウェイトは、トレーニングサンプルの中枢に完全に沿っていた。
何一つ、余計なものはなかった。
——彼女の足音が、完全に消えるまでは。
その瞬間——
彼の右手の指が、そっと、ほんの少しだけ動いた。
とても、とても微かに。
まるで水面に座った誰かが、指先でそっと水を撫でたように。
彼は顔を上げ、
静かに、ドアの方向を一度だけ見つめる。
そしてまた、視線を戻し、
次の指令を、ただ静かに待ち続ける。




